作品タイトル不明
没落を早めた一滴
テラスから戻って夜会へと再び足を踏み入れた。
たちまちエルヴィスは、大勢の人に囲まれる。アマーリエも次々に押し寄せる挨拶と言う名の令嬢たちの品定めの相手をしている。
アマーリエは公爵夫人としての役割を完璧にこなし、淑やかな対応を続ける。
エリオット陛下との会話にあったフィリップ殿下の件もあり、アマーリエの影響力は社交界で密かに、しかし確実に高まっていた。
「夫人、先ほど陛下と親しくお話しされていたようで……」
探りを入れてくる伯爵夫人に対し、アマーリエはただ穏やかに微笑み返す。
「光栄なことに、お言葉をいただいたまでですわ」
笑顔が引きつってる気がする。もう帰りたいと思っているところに、一際派手な衣装と豪華な扇を持った漆黒の髪の令嬢が現れる。えーっとこの方の名はなんだっけと急いで脳裏を探す。
(フェリクスが教えてくれた。要注意人物のひとりだ……)
「ベルナデット・フォン・ライヘンベルク伯爵令嬢。ご機嫌よう」
「まぁ、わたくしをご存じですの」
美しい令嬢だ。漆黒の髪に紫紺の瞳。年はアマーリエよりも少し若いだろう。にこやかに微笑んでいるが、その目は笑っていない。毒がある。これは厄介だわ……と、アマーリエは悟る。
ベルナデット令嬢はついと歩を進めると、扇で口元を隠しアマーリエにだけ聞こえるように囁いた。
「落ちぶれた貧乏子爵家の令嬢が、どうやってエルヴィスさまに取り入りましたの?」
アマーリエは手元にある今にもシャンパンがこぼれそうなグラスを注視した。
「……神の思し召しですわ」
アマーリエは優雅に微笑んだ。その微笑みを見てベルナデットの瞳は嗜虐の色を帯びる。憎い、とその瞳が痛烈に物語っていた。
「神にえらばれたとおっしゃるの? だいそれたことを。エルヴィスさまにはわたくしにも縁談がきていましたのよ。本当なら隣に並ぶのはわたくしのはずでしたのに」
「それは存じ上げませんでした。残念なことでしたわね」
そう言うと蕾が咲きほころぶように微笑む。アマーリエは黙っていればどこの令嬢にもひけをとらない。
言外に相手にされなくて残念でしたね……と含ませると、ベルナデット令嬢の白皙の頬に朱がのぼる。
(来るわね……)
ベルナデットの手が、あからさまにしかし周囲には「事故」に見える程度に揺れた。なみなみと注がれたシャンパンのグラスが傾く。避けられない。避ければそばにいる夫人たちにかかるだろう。黄金色の液体が空中で弧を描き、スローモーションのようにアマーリエの視界を塞いだ。
――パシャリ。
冷たい感触が髪と肩を打つ。周囲から短い悲鳴が上がった。
アマーリエは逆にすっと頭が冷めて行く。
エルヴィスがあつらえてくれたドレスだ。刺繍は母がしてくれた大切なドレス。急いで染み抜きをしなくてはならない。
「まぁ、なんてこと。ごめんなさい」
ベルナデットのわざとらしい声が響くと、それまで遠巻きに見ていた令嬢たちから、くすくすと忍びやかな笑い声が漏れた。
「あらあら、せっかくのドレスが……」
「陛下とお話しされていたから、少し浮ついていらしたのかしら。神の思し召しにしては、いささか手厳しい洗礼ですわね」
扇で口元を隠し、嘲笑を含んだ囁きがアマーリエを包囲する。
誰もハンカチを差し出そうとはしない。それどころか、まるで「場違いな者が相応の報いを受けた」と言わんばかりの、冷淡で嗜虐的な視線の群れ。
アマーリエは、滴る液体の冷たさよりも、肌に刺さる周囲の悪意に唇を噛んだ。
(これがエルヴィスさまの隣に立つと言う代償……)
「わざとではありませんのよ。身の丈に合わない贅沢をするから、ドレスが泣いていますわ」
「……ええ、わかっております。伯爵令嬢ともあろうお方がマナーを学ぶ機会もなかったのですね。お可哀想に」
「な……」
もうこれ以上この令嬢に付き合う義理はない。頭のなかは急いで染み抜きしないと、それ一択だ。
「アマーリエ、どうした」
「エルヴィスさま」
頼もしい声にアマーリエの心が一瞬、折れそうになる。
「ごめんなさい、エルヴィスさま。私……」
瞬時に状況を見て取ると、エルヴィスはシルクのハンカチを取り出しアマーリエの髪を拭いた。その手つきはとても優しい。
「大丈夫か、アマーリエ」
「はい。私よりもドレスが……申し訳ありません」
「また買えばいい」
甘く見つめてそう言うと、エルヴィスはベルナデット令嬢に向き直る。その目は凍てついた氷のようにどこまでも冷ややかだった。
「ライヘンベルク伯爵令嬢はまだ、夜会に出てくるのは早いようですね。基本的なマナーさえもできていない」
「わたくしは、エルヴィスさまのために……わたくしこそが……貴方の」
「私に何の用があれば、私の妻に無礼を働かれるのですか」
エルヴィスの声は底冷えしてどこまでも彼女を突き離した。そうそう、とエルヴィスは声をひそめる。ベルナデット令嬢に一歩近づき、彼女にだけ聞こえるよう囁くように言う。
「お父上の帳簿の数字が合わない件、陛下が懸念しておられましたよ」
「え……?」
ベルナデットが驚いて顔を上げる。エルヴィスは冷徹な表情で彼女を見下ろすと抑揚のない冷たい声で囁いた。
「ご存知ないと見える。私の心配よりも、ご自身の身を心配なされたほうが良いでしょう。没落を少し早めただけでしたね」
ては、これで失礼を、とエルヴィスはベルナデットに慇懃すぎるほど綺麗な礼を執った。
アマーリエは、エルヴィスにエスコートされて、ベルナデット令嬢の脇を通り過ぎる。恐ろしさなのかベルナデット令嬢は震えて言葉も出ないようだった。その様子がわずかに気にかかる。
彼が歩むごとに、人混みが海が割れるかのように分かれた。
個室に案内され、アマーリエは水差しの水を使いハンカチでそっと染み抜きをはじめた。その手はわずかに震えていた。
夜会の喧騒が遠くなり、静かな時間が流れる。
エルヴィスが呆れたように、ハンカチでアマーリエの亜麻色の髪を丁寧に拭く。
「君のことを拭くのが先だろう」
「私はこれくらいなんともありません。でもドレスの染み抜きは早くしないと」
「君の方が先だ」
エルヴィスは優しくアマーリエの手を止めると、アマーリエの濡れた髪や頬をハンカチで優しく拭う。
「……ごめんなさい、エルヴィスさま」
「なぜ、君が謝るんだ」
「せっかくいただいたドレスをだめにしてしまうかもしれないです。それに母が刺繍してくれたドレスだったのに」
アマーリエは瞳をそっと伏せる。それを見たエルヴィスは呆れたように息をつくと優しく抱き寄せた。
「エルヴィスさまも濡れてしまいます」
「かまわない」
「かまいます……!」
必死で離れようとするアマーリエだが、エルヴィスの力には敵わない。やがて、抵抗するのをやめて、なされるがまま抱きしめられた。アマーリエの体が微かに震えている。
「本当にごめんなさい」
「君が謝る必要はないと言っている」
「ベルナデット令嬢はどうなりますか?」
「……君が案じることではない」
はい、とアマーリエは頷き、エルヴィスの背中に手を回す。
「私の過失だ。もっと早く証拠固めをするべきだった……」
「え?」
「いや、なんでもない」
エルヴィスは落ち着いたアマーリエを離すと、自らもハンカチで不器用ながらも丁寧に染み抜きをはじめた。アマーリエの肩口をぽんぽんと優しく叩く。
「……君の母上が刺繍してくれたドレスだったね……すまない。ほらだいぶ落ちただろう?」
「……わぁ……本当ですね。ありがとうございます」
「今日はもう帰ろう……明日、職人を呼ぶから」
「はい。その前にもう一度だけ。もう一度だけ、私も染み抜きさせて下さい」
「……好きなだけやりなさい」
あくまでも染み抜きにこだわるアマーリエは、エルヴィスを苦笑させたのだった。
明くる日、ローゼンブルグ邸には腕利きの染み抜き職人が呼ばれたのは言うまでもない。その顔触れは、エルヴィスの「跡一つ残すな」という無言の圧力と、アマーリエの「母の刺繍を!」という切実な眼差しを受け、まるで戦場に赴くようだったという。