作品タイトル不明
エルヴィスの事情
「あなた……ごめんなさい……この子をお願いします……。どうか、立派に育てて」
「エリー、約束する。この子は僕が立派に育ててみせる。だから君も死なないでくれ……」
エルヴィスの言葉に安心したのか、妻のエリーは目を閉じた。涙が一筋、滴り落ちる。医師を見る。医師は力なく首を振った。エルヴィスは声を押し殺して泣く。エリーの傍らには三日前に生まれたばかりのおくるみに包まれた赤子が、エルヴィスと同じように泣き声をあげていた。
エルヴィスは妻の手を取ると額につけた。
「誓うよ、この子は僕が大切に育てる」
だから、とエルヴィスは無理に笑みを作った。
「だから、君は安心しておやすみ……」
その日から、エルヴィスのひとり孤軍奮闘する日々がはじまったのだった。
「つまり、クラウスさまのお世話を、あなたひとりで見てたってわけ……?」
アマーリエの言葉にエルヴィスは、言葉なく頷く。
「エリーと約束しました。私が立派に育ててみせると」
「その結果、道連れ自殺しようとしてたじゃない」
「姉さま…! もう少し言葉を包んでください」
フェリクスのツッコミが入る。見れば父ももらい泣きをしている。
バカじゃないの、とアマーリエは思う。今の話のどこに、そこまで泣ける要素があったというのだ。
「乳母はつけなかったんですか?」
「私が立派に育ててみせるとエリーと約束したから」
「公爵家ならメイドもたくさんいますよね。彼らに頼ることは?」
「私が立派に育ててみせるとエリーと約束したから」
「昼間は仕事をしながら見て、夜はご自分の寝室で見てたと……?」
エルヴィスはこくりと頷く。
「私が立派に育ててみせると……」
「だから! その約束果たせてないでしょうが!」
思わず大声を出してしまったアマーリエの腕の中で、クラウスがビクッと身動きしてアマーリエは慌てて背中を軽く叩く。やがてまた軽い寝息が聞こえてきた。
アマーリエとフェリクスはほっと息を吐く。
「姉さま、あまりエルヴィスさまを責めないであげてください」
「そうだぞ、アマーリエ。男手ひとりで子どもを育て上げるのがどれほどたいへんだったことか」
「父さまはともかく、フェリクスまで何言ってるの? 公爵家にはいくらでも手が余ってるのよ。誰かの力を借りようともしないで子どもをひとりで育てようというのが、そもそも間違ってるのよ」
「私が、間違ってると……?」
エルヴィスがアマーリエの言葉にぴくりと反応する。アマーリエは翡翠色の瞳で真っ直ぐにエルヴィスを見つめた。
「当たり前じゃないですか。奥さまだって、あなたひとりに見てほしいと言ったわけではないでしょう。本当にひとりで育てられると思ったんですか? 結果、できなくて身を投げるところだったのでしょう?」
「だが……」
「だかもしかしもないんです。道連れ自殺をしようとした時点で、エルヴィスさまはもう手一杯だったんです。それは他の人の手を借りなかったからです。今からでも乳母を雇って、メイドもたくさんつけてあげればよろしいのです。わかりますか?」
「他の者に……」
「そうです。他の人の手を借りるべきです」
アマーリエは言い切った。多少、厳しいことを言っても、正論である。クラウスの重みを感じながら、すうすうと眠る寝息を感じながら、アマーリエは怒っていた。リーヴェスヴィンセン家は19歳のアマーリエを筆頭に、17歳のフェリクス、そして年の離れた弟妹が4人いる。貧乏のどん底にはいるが、父も母も決して諦めようとはしない。そのことだけは、誇って良いのだ、とアマーリエは強く思った。
「あなたが……」
「なんです?」
「あなたが乳母になってくれませんか……」
「はい!?」
リーヴェスヴィンセン家の声が重なる。
「あなたが乳母になってくれませんか。私以外から、クラウスが離乳食を食べたのははじめてだ。そんなに安らかに腕のなかで眠るのも……」
アマーリエはぽかんと口を開ける。
乳母。そんなことを言われるとは考えたこともなかった。普通は既婚の子どもを産んだばかりの女性がなるものだ。しかしクラウスはもう離乳食を食べ始めている。8カ月ほどにはなっているだろう。お世話係りと思えば良いのかもしれない、とアマーリエは思う。
リーヴェスヴィンセン家はもう明日の食事も厳しいほど追い詰められている。ひとり食い扶持が減って、そして、送金できればかなりマシになるのではないだろうか。
アマーリエがそこまで考えた時、フェリクスが異議を唱えた。
「公爵さま! 姉はもう19歳。ただでさえ嫁き遅れです! ここで公爵さまに囲われては姉が結婚することはもうできないでしょう。僕は反対です!」
「では、どうすれば――彼女以外にクラウスを預けたくはない。」
「簡単です。姉を公爵さまが貰って下されば良いんです」
フェリクスはにこやかに応じた。
「公爵さまが、姉と結婚すれば良いんですよ。これで万事解決です」
「私が……?」
「そうです。そうすれば、公爵さまにも公子さまにもいちばんいい結果になるかと。僕、予想が当たるのには自信があるんです」
「ちょっと、フェリクス! なに勝手なこと言ってるのよ!」
アマーリエが怒りと困惑で真っ赤になって怒鳴った。
「姉さま、僕たちの使命を思い出してください。今日、フェルゼンハント伯爵家の舞踏会に行くのはなんのためだったのかを……」
アマーリエがはっと息を呑む。フェリクスはこくりと頷く。
ふたりで、エルヴィスを見やる。
エルヴィスの目に微かな光が宿った。
目の前には、ボロボロになった自分を、一人の男として、父親として、容赦なく叱り飛ばしてくれた女性がいる。その腕には、自分が守りたかった、しかし守りきれなかった温かな命がある。
エルヴィスは困ったように無精髭を撫でたが、アマーリエに抱かれて安らかに眠るクラウスをしげしげと見つめた。やがて立ち上がると、アマーリエの前に跪いた。
「アマーリエ嬢。私と結婚してくれませんか」
腕にクラウスの重さがかかる。アマーリエはごくりと唾を飲み込む。明日の食事にも事欠く現状、フェリクスのアカデミー休学、幼い弟妹たち。それらが脳裏を一瞬で過った。
(これは恋ではなくて、商談――)
アマーリエは震える右手を差し出してぎこちなく微笑んだ。
「喜んで」
エルヴィスはアマーリエの手にそっと口づけをする。
こうしてアマーリエ・フォン・リーヴェスヴィンセン子爵令嬢は、エルヴィス・フォン・ローゼンブルク公爵の妻になることになったのだ。