軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

誓いとシトラスの抱擁

暗い夜が訪れた。新月だった。応接間には、重苦しい空気が流れていた。

「……それで、今日はどう過ごしていたんだ?」

「フィリップ殿下の側でずっと座っていました」

「座ってた!? 姉さま本当ですか!?」

「フィリップさまはお年より低いかもしれないけど知性も感情もあります。お寂しい上に、教育も施されてないから、ご自分の感情をどうしていいのかわからないのです。感情を受け止めてくれる穏やかな乳母がいれば、きっと感情の苛立ちはおさまります。教育もです。身の回りの最低限のことでも教えてくれる方がいれば違います」

アマーリエは息をつく。

「今日はずっとフィリップ殿下と一緒にいましたが、殿下は私に本気で手を上げようとはなさいませんでした。道化師の少年は可哀想ですが、側から離したほうが良いです……彼は殿下にとって歪んだ依存を生んでいました。殿下にとっても、あの子にとってもそれではお為にはなりません」

「君はなんでそこまで、親身になるんだ」

途方に暮れたようなエルヴィスの声に、アマーリエは視線を落とす。睫毛が微かに震えた。

「もしもクラウスがあんな扱いをされていたらと思うと、どうしても我慢できなかったんです」

「姉さま……気持ちはわからないでもないですが、もう少しご自分を大切にしてください」

「フェリクスの言う通りだ。私たちがどれだけ心配したか、君はわかっているのか」

エルヴィスは震える手でアマーリエを抱き寄せた。エルヴィスの体温とその震えに、アマーリエは深い申し訳なさを感じた。

「……それは、本当にごめんなさい」

アマーリエは素直に謝った。きっととても心配をかけたのだと思う。

「でも、こういう性格だから仕方ないと言うか」

「仕方なくない!」

「仕方なくありません!」

ふたりから否定されて、アマーリエは苦笑する。

「私、なんだか愛されてるみたい」

ふふっと笑うと、冷たい視線が刺さる。フェリクスはまだ唇を噛み締めそっぽを向いていた。

「当たり前だ……!」

エルヴィスは怒気をはらんだ声を上げた。

気まずさを隠すようにアマーリエは咳払いをして。

「……本当に申し訳ありませんでした。ご心配をおかけしました」

と、心から謝罪したのだった。

その夜、クラウスを寝かしつけたアマーリエが夫婦の自室へ戻ると、そこにはバルコニーの窓を開け、夜風に吹かれているエルヴィスの後ろ姿があった。

彼はあのあと急いで城へと上がって、先ほど夜遅くに帰って来たばかりだった。

夕方の険しさは消えていたが、その背中にはまだ隠しきれない疲労と、彼女を失うかもしれなかったという恐怖が滲んでいる。

「エルヴィスさま、まだ起きていらしたのですか」

アマーリエが声をかけると、彼はゆっくりと振り返った。星あかりに照らされた彼の瞳が、痛々しいほど切実に彼女を射抜く。

「……君のその性格に、私は一生振り回されることになるのだろうな」

苦笑まじりの溜息。彼は歩み寄り、アマーリエの細い肩を抱き寄せた。先ほど皆の前で抱き合った時よりも、ずっと強く、確かめるような抱擁だった。

「フィリップ殿下のこと、陛下が君の進言を全面的に受け入れた。君が帰ったあと、マルグリットさまが君はご自分と国家のためにやったことだと進言してくださった。公爵家から私が厳選した新しい乳母と、経験豊富な教育係が手配される。費用も公爵家で負担する、そう進言してきた……君が命懸けで守った静寂が、ようやく形になるんだよ」

「マルグリットさまが……。エルヴィスさま、ありがとうございます。良かったです。本当に良かった……」

アマーリエは彼の胸に顔を埋め、安堵の息を漏らした。

「良くない……良くないんだ、アマーリエ。陛下にどう申し開きをしたと思ってるんだ! もうこんな無茶は止めてくれ。でないと、私は君を部屋に監禁しないといけなくなる。そんなことを私にさせないでくれ。二度と性格だからなんて笑わないでくれ」

肩をつかんだエルヴィスの手が震えている。アマーリエはそっとその手に自分の手を重ねた。

あの薄暗い部屋で、指を噛み砕かんばかりに震えていた孤独な少年の姿を思い出す。彼を突き動かしていたのは悪意ではなく、出口のない混濁とした恐怖だったのだ。

「アマーリエ。これだけは約束してくれ」

エルヴィスは彼女の顔を両手で包み込み、視線を合わせる。

「君が誰かを救いたいと思う心は、君の尊い美徳だ。だが、君が欠ければ、救われた者も、残された私たちも、暗闇に取り残される。君の命は、もう君一人のものではないんだ」

その真摯な言葉に、アマーリエは自分の無鉄砲さがどれほど彼を追い詰めたかを改めて悟った。彼女はそっと彼の手の甲に手を重ね、真剣な表情で宣誓をするかのように厳かに言う。

「はい。肝に銘じます。私は、エルヴィスさまとクラウス、そして皆と一緒に、この幸せを守り抜くと決めたのですから」

夜風がカーテンを揺らし、二人の影を石床に長く落とす。

「本当は、少しだけ、少しだけ怖かったんです……」

震える肩を、エルヴィスはすっぽりと抱きしめた。シトラスの香りに包まれて、アマーリエはようやく息をつく。

フィリップ殿下の部屋にあった凍てつくような冷気とは違う、春の予感を含んだ柔らかな夜。アマーリエは、自分が持ち帰った「光」が、どうかあの孤独な少年にも届くようにと、静かに祈りを捧げた。