作品タイトル不明
代わりではなく、君を
アマーリエが深い眠りに落ちてから、数時間が経った。傍らに控えたアンネにエルヴィスは指示をする。
「アマーリエの差配の権限を一度取り上げる。看病に必要なものは持ってきてくれ。私が看病する」
「畏まりました」
エルヴィスは自室に戻ることもせず、アマーリエの寝台の傍らで、ただじっと彼女の手を握りしめていた。時折、タオルを水で濡らして交換する。冷たいはずの水が、彼女に触れると驚くほどに熱くなる。
静寂が支配する部屋に、彼女の少しだけ落ち着いた寝息が響く。ふと、エルヴィスの視界に、ドレッサーの隅に置かれた見慣れない小さな木箱が入り込んだ。
アンネが彼女の着替えを済ませた際、実家からの荷物の中から整理のために出しておいたものだろう。公爵夫人が持つにはあまりに質素で、古ぼけた箱。
エルヴィスは吸い寄せられるように、その箱に手を伸ばした。
中には、彼が贈った高価な首飾りも、輝く宝石も入っていなかった。
「……これは」
箱の底に丁寧に畳んで仕舞われていたのは、ビリビリになった若草色のドレスの切れ端で作られた小袋だった。
あの日、橋の上で。身元も知れぬ行き倒れの男――自分を救うために、彼女が迷わず引き裂いた、リーヴェスヴィンセン家唯一の「一張羅」だ。
エルヴィスは、その布の感触に指を震わせた。
彼女は、公爵夫人の座が欲しくて自分を助けたのではない。後継者が欲しくてこの家に来たわけでもない。
彼女はあの瞬間、家族の期待を背負った大事なドレスを……自分の「未来」そのものだったはずの服を、どこの誰とも知れぬ「死にたがりの親子」を繋ぎ止めるために、その手で捨て去ったのだ。
(私は、なんてことを……)
さらに布の中から、数通の手紙が現れた。フェリクスや、まだ幼い弟妹たちからのものだ。
『姉さま、公爵家でいじめられていませんか?』
『姉さまはいつも自分のことを後回しにするから、無理をしていないか心配です』
手紙の端々は、何度も読み返したのか、わずかに擦り切れていた。
エルヴィスは、心臓を鋭い刃で抉られたような痛みを感じた。
アマーリエはこの屋敷に来てから、一度も弱音を吐かなかった。「助けて」と言わなかった。
公爵夫人として、あるいは乳母として、完璧に振る舞うことに必死で、「アマーリエという一人の女性」がどれほど心細く、震えながらここに立っていたのかを、自分は全く見ていなかった。
「……エルヴィス、さま……」
不意に、アマーリエの唇が震えた。
エルヴィスは弾かれたように彼女を覗き込む。
熱に浮かされた彼女の瞳が揺れる。、ぼんやりとした視線が自分に向けられる。
「……ごめんなさい、お母さんには、なれないけれど……。どうか……怒らないで……」
それは、エルヴィスが放った「本当の母親じゃないから」という言葉が、彼女の心をどれほど深く、残酷に切り裂いたかの証だった。
自分の不甲斐なさに、エルヴィスは呻き声を上げた。彼女の手を握りしめ、自らの額に押し当てる。
「違うんだ、アマーリエ……。間違っていたのは私だ」
エリーは過去の愛であり、尊敬すべきクラウスの母だ。それは変わらない。
けれど、今ここで、絶望に沈んでいた自分の腕を、ドレスを引き裂いてまで掴んでくれたのは誰だ。
冷え切った屋敷に明かりを灯し、自分に「父親」としての誇りを取り戻させ、今日という日を信じさせてくれたのは、一体誰だったのか。
「エリーの代わりなど、求めていない……。クラウスの母親が欲しいわけでもないんだ」
エルヴィスは眠り続ける彼女に誓うように囁いた。
「君がいい。……他の誰でもない、アマーリエ。君という女性が、私の隣にいてくれなければ……私の世界は、あの日あの橋の上で終わっていたんだ」
公爵夫人という「役割」でも、乳母という「機能」でもない。
ただ、不器用で、真っ直ぐで、誰よりも温かい心を持ったアマーリエという唯一無二の女性を、彼は今、どうしようもなく渇望していた。
夜明け前の淡い光が、部屋を優しく照らし始める。
握りしめた彼女の手の熱が、エルヴィスの凍てついた心の中に、ゆっくりと、けれど確かな火を灯していった。