作品タイトル不明
第5話 マヌーノの女王(後編)
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奇怪な形をした樹木がもつれ合って空を覆っている。
樹海の奥まった場所は、地の底に降りてきたかのように薄暗くて不気味だ。
鳥や獣の声も、聞いたこともないような種類のものばかりで、ひどく陰鬱に響く。
これほど日当たりが悪ければ下草は育ちにくいはずなのに、足元に絡みつく草の多さは何としたことか。
もうその場所が近いのだと、誰に言われずとも知ることができた。
じゃぶじゃぶ、ちゃぷちゃぷと水をかき分ける音に混じって、無数のうめき声のようなものが聞こえる。
甘い腐臭と 禍々(まがまが) しい気配は、一足ごとに強まってゆく。
突然。
視界を覆い尽くして乱立していた木々が途絶え、ぽっかりと開けた空間が目の前に現れた。
蒼(あお) く 惛(くら) い湖である。
ここまでに遭遇した池がみなどろどろの沼であったのに対して、この湖は異様なほど美しい。
ただし澄み切った水ではなく、鮮やかな染料を溶かし込んだような色の水である。
そして対岸には巨木というのもおろかしいほどの巨木が、幹の部分をぽっかり開けて立っている。
いや。
いや、そうではない。
見ているうちに気が付いた。
その巨大な木は。
神話の巨鳥の宿り木のようなヤンバガルパこそは。
この湖であり、この森そのものなのだ。
小さな村ほどの太さのあるヤンバガルパの根元にできた 洞(うろ) 。
その洞にたまった水が、すなわちこの湖なのだ。
そして巨木が四方に伸ばした根の表面が腐ったものこそが、今バルドたちが歩いてきた泥のような腐葉土のような不思議な感触の大地なのであり、そこに生えた苔であり草であり木であったのだ。
まさか樹海の全体がこの老いたるヤンバガルパで出来ているとは思わないが、ここ数日歩いたのはこの巨木の身体の上であったに違いない。
深い深い青くて赤くて緑色の、澄んでいるのに淀んだ水には、何百何千というマヌーノが上半身を突き出している。
彼女たちは同じ方向を向いている。
ただ一つの方向を向いている。
彼女らの父にして母胎なるヤンバガルパの 洞(うろ) の中央を向いている。
そこには一人の巨大なマヌーノがいる。
〈女王〉であろう。
彼女らすべての頭から伸びる髪は、ツタが巨木に向かって伸びるように、〈女王〉に向かって伸びている。
《早く》
《早く》
《女王のもとに》
と、耳の中に声がする。
《人間よ》
《急げ》
《女王を》
《とどめられる時間は》
《あとわずか》
と、声はバルドをせきたてる。
しかしどうやって女王の元に行けばよいのか。
この湖に足を踏み込んだならば、バルドの体はそのまま沈んでしまうだろう。
だが、ええい、ままよ、とばかりにバルドは一歩を踏み込んだ。
すると蒼く濁った湖の表面に何かが浮いてきた。
鱗に覆われた、ねとねとした何か。
おそろしく長い何かがうねうねと絡み合いながら、水面に浮いてきた。
マヌーノだ。
かのおぞましい蛇妖たちが体を寄せ合って浮き橋を作っているのだ。
バルドは足をその異形の橋の上に置いた。
体は水に沈むこともなく支えられている。
見る間に。
蛇妖たちの胴がうぞろうぞろとよじれながら、水上の道を形作っていった。
この見るもおぞましい桟橋を、ちゃぱりちゃぱりと水を踏みしめながらバルドは進んだ。
足を下ろすたびに、その感触の不快さにぞわりとした悪寒が背筋を走る。
カーズはと振り返れば、二頭の馬とともに傍観者になり果て、湖の中に踏み込もうとせず静かに立っている。
中ほどまで進むころには、緊張感からか足首から下がしびれてきたように感じた。
それでもバルドは前進した。
ここまで来たのは途中でおじけづいて引き返すためではない。
そう自分に言い聞かせながら前に向かって足を運び続けた。
近づくにつれ、女王の姿がはっきりしてきた。
それは巨大な銀髪の美女である。
これはもう、女に似た姿などというものではない。
今まで見たどんな美女にもまさる、美しくみだらな理想の佳人である。
ただしその肌の色は 死人(しびと) のように白く、蝋のように冷たい質感である。
つぶらな瞳は 蛙(かえる) の卵のように透き通っている。
長く豊かな銀髪は体の後ろにざわざわと流れ。
薄紫の乳首を持つたわわな双丘は、画家たちにため息をつかせるほどの造形の妙をみせ。
体の両横に広げられた水の翼は不思議と体軀に似合って美しさを引き立てている。
その眉と口と形のよいあごは、怒りに震えている。
《おおお》
《おおお》
《いまいましい》
《いまいましい》
《なにゆえに》
《なにゆえに》
《わらわにこのような》
《このようないましめを》
いましめ、とはその体中に突き刺さるマヌーノたちの髪の毛だろうか。
いや、それは髪の毛ではない。
おそらく獲物に刺し込まれて麻痺の毒を送るとげのようなものなのだ。
その黒く長いとげは、女王の近くでは透明な色に変わっている。
湖のあらゆる所から伸びてきた無数の髪の毛は、すべて女王の体に深々と刺し込まれているのだ。
顔といわず、首といわず、乳房といわず、そしてへそから下の鱗に包まれた下半身といわず。
巨大な身体のありとあらゆる場所に、それは打ち込まれている。
しかしよく見れば、女王を束縛しているマヌーノたちは苦しげだ。
身をよじり必死に耐えているが、この状態を長く続けられないことは明らかだ。
バルドは古代剣を抜いた。
この前この剣の力を解放したときは、二か月にわたり意識を失うことになった。
その危険は今もある。
だがやってみるしかない。
バルドはよどんだ空気を大きく吸い込んだ。
吸い込んだ空気が喉と肺腑をちりちりと焼き全身が不快感に包まれる。
それに構わず古代剣を前に向かって突き出すと、声に出して叫んだ。
スタボロス!
するとあのときと同じようにまぶしい光が古代の魔剣を包んで現れ。
一瞬あとにうねる光弾が発せられ、女王の体に命中して光の瀑布となって流れ落ちた。
バルドは意識が遠くなるのを感じたが、必死で踏みとどまった。
幸いにも今度は倒れて気絶することなく、おのれを保つことができた。
だが脱力感の強さはただごとではない。
気が付けば、ほんの目と鼻の先、十歩と離れていない場所に女王がいた。
目は落ち着いた黒色になっている。
髪の毛も黒色になっている。
肌の色もやや血の気を取り戻したかのように色づいている。
マヌーノの血の色が人間と同じというわけでもないのだろうが。
自分を見下ろす巨大な美女の目を、バルドはまっすぐに見つめ返した。
《まさか人間に救われることになるとはのう》
その声に似た何かは、バルドの頭の中で強く強く鳴り響いた。
あまりの力強さに苦痛さえ感じた。
《あの腐れトカゲには、いずれ相応の報いをくれてやらねばならぬ》
《だがその前に、わらわは休まねばならぬ》
《人間よ、名は何という》
バルドは声に出して名を告げた。
《んむ》
《人間ばるどろえん》
《今は去れ》
《いずれ礼はする》
《とどまればお前を殺してしまうだろう》
その前に教えてくれ、とバルドは言った。
マヌーノはこれからも人間を襲うのかと。
この質問に女王は苦々しい表情を浮かべて答えた。
《こたびのことはわらわの 命(めい) によって行われた》
《だがそれはわらわの意志によるものではない》
《二度とわらわが人間を襲うことはない》
《ただしわらわの土地に踏み込んだ人間は殺す》
この場合「わらわが」というのは「マヌーノは」という意味なのだろう。
バルドは続けて聞いた。
今何者かに操られている人間がいるようなのだが、それはマヌーノのしわざなのかと。
《それはわらわのしたことではない》
《わらわは人間を凍り付かせることはできるが》
《自在に操るような力はない》
さらにバルドは、魔獣はまだいるのか、あれほど多くの魔獣はどこからきたのだ、と聞いた。
《まじゅう、とは憎しみの精霊の宿る獣のことか》
《それはもういない》
《あれだけの数を用意するにはひどく長い時間がかかる》
《作り始めたのはパタラポザの暦で二晩も前のことであった》
《いずれにしても石はトカゲが持ち去った》
《もうわらわがあれを作ることはない》
《去れ! 人間ばるどろえん》
女王の顔が変貌した。
口は醜く裂け、長い牙をみせながら、くわっと開かれた。
頬にはうろこが浮き出している。
目は真っ赤に染まり。
顔や胸に血管が浮き出し。
全身から怒りの波動を噴き出した。
バルドは思わず一歩後ずさった。
と、足元の感触がおかしい。
蛇女の体で組み上げられた桟橋が水に沈みかけている。
バルドは振り向いて走った。
目の前で、どんどん橋がほどけていく。
蛇が水に散っていくように。
走りながらバルドは見た。
マヌーノの下半身は鱗に覆われているが、さらにその先では無数の鞭のようなものに分かれている。
それはあるときにはねじり合い、あるときには分かれてうねる。
今バルドの目の前で、無数のマヌーノが下半身を寄り合わせて作った橋が、ほどけて分かれ、水の中に藻のようにただよっていく。
駆けて駆けて、ようやく岸にたどり着いたときには、もう膝の上まで水につかっていた。
振り向いてみれば、女王の体に再びマヌーノたちの髪が突き立っている。
女王は怒りもあらわにそれをふりほどこうとしている。
ふりほどこうとしながら、徐々に徐々に、女王の体は水に沈んでいく。
バルドはひどく体の調子がおかしいのに気付いた。
目がくらくらし、汗が噴き出し、悪寒がする。
体は重く、手足はしびれたように動かない。
そこでバルドの意識は途絶えた。