作品タイトル不明
第68話 名前のない手を探して
食養院に、ひとりの貴族令嬢が見学に来た。名はアリシア。北境の小領主の娘で、年は十六。付き添いの侍女が二人もいるのに、本人はひどく緊張していた。
彼女は講習室に入るなり、リディアへ深く礼をした。
「公爵夫人。私は、台所に立つと母に叱られます。嫁ぎ先で笑われるから、と。でも、弟が熱を出したとき、乳母任せにした汁を飲めず、私は何もできませんでした」
声は震えていた。
「私は、ここで学んでもよいのでしょうか。貴族の娘が台所に立つことは、やはり家の恥でしょうか」
その問いは、リディアの胸の古い傷に触れた。かつて王宮で浴びせられた言葉と同じ形をしている。
リディアはすぐに答えず、アリシアを厨房へ案内した。その日の講習は、器の温度を見る実習だった。熱い汁を急いで出せばよいわけではない。手で持てない器は、弱った人にとって恐怖になる。
アリシアは最初、袖を汚すのを恐れていた。侍女が代わりに持とうとすると、リディアは静かに止めた。
「今日は、アリシア様の手で」
彼女はためらいながら椀を持った。少し熱い。
驚いた顔をする。
「これを、弟に渡していました」
「熱のある人には、もっと熱く感じることがあります」
アリシアは椀を置き、布で手を押さえた。恥ではなく、実感が彼女の顔を変えていく。
次に、リディアは白い小皿を三枚並べた。大きさ、重さ、縁の高さが違う。
「食べる人が自分で持てる皿を選んでください」
アリシアは一枚ずつ持ち、いちばん軽い皿を選んだ。
「これなら、弟も持てると思います」
「なぜ?」
「縁が高すぎず、指をかけられます。重くありません」
「よい判断です」
その言葉を聞いた瞬間、アリシアの目に涙が浮かんだ。褒められ慣れていないのではない。礼儀や刺繍や楽器では褒められてきただろう。だが、台所で自分の判断を認められたことがなかったのだ。
講習の後、アリシアは前掛けを外さずに言った。
「私は、家でこのことを記録します。誰が笑っても、弟が食べた皿のことを書きます」
リディアはうなずいた。
「名前を残してください。あなたの名も、皿を洗った侍女の名も」
付き添いの侍女たちが驚いた顔をした。
「私たちの名もですか」
「はい。皿を洗う人が、器の重さに最初に気づくこともあります」
アリシアは侍女たちを見た。その視線に、主従の距離だけでなく、同じ台所に立つ者への気づきが生まれていた。
夕方、リディアはアリシアの見学記録を台帳に入れた。貴族令嬢が台所へ立つこと。
平民の侍女が皿の重さを語ること。どちらも、以前の王宮なら軽んじられたかもしれない。
けれど、名前のない手を探していくと、食卓は必ず広がる。リディアは台帳を閉じた。
身分の違いは消えない。だからこそ、手の働きを消してはならない。