軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第63話 継ぐ者の厨房

秋の終わり、トマに王都行きの辞令が届いた。王立療養室の食養係を増やすため、北境から一人、主任講師を送ってほしいという依頼である。条件は整っていた。報酬も明記され、住まいも用意され、任期も一年と限られている。

候補者の名は、リディアが出すまでもなく決まっていた。トマだ。

本人は辞令を読んで、顔を白くした。

「私が王都へ、ですか」

「嫌なら断れます」

「嫌ではありません。でも、私は北境の兵舎で育った者です。王宮の料理人たちに教えるなんて」

「あなたは南門救護所の夜を知っています。砦の食袋も、記録板も、見習いたちへの教え方も知っている。王宮に必要なのは、その経験です」

トマは返事をしなかった。その日の夕方、彼は厨房で一人、鍋を磨いていた。リディアが入ると、慌てて立ち上がる。

「夫人。私は、まだここで学ぶことが多いです」

「私もです」

「夫人でも?」

「もちろん。だから、学ぶ場所が一つだけだと思わないほうがいい」

トマは鍋の縁を見つめた。

「王都は怖いです。言葉も、目も。昔の夫人が傷ついた場所です」

「だから、今の王都にあなたが行く意味があります」

リディアは棚から小さな手順札を出した。南門救護所の夜、最初に兵たちへ配った古い札である。端は少し擦り切れていた。

「これは、公爵様の胃を整えるためだけに作った札ではありません。あの夜、皆で使ったものです。あなたが持っていってください」

「大事なものでは」

「大事だから渡します」

トマの目が潤んだ。

「夫人は、手を離すのが上手ですね」

リディアは少し笑った。

「上手ではありません。何度も練習しています」

本当は、胸の奥がきゅっと痛む。食養院で育った者が遠くへ行くことは、誇らしい。同時に、寂しい。王宮で失ったものとは違うとわかっていても、手を離す瞬間には不安がある。

出発の日、食養院の者たちは簡素な朝食を用意した。麦パン、薄い汁、干し林檎の茶。旅の前に腹を重くしない献立である。

トマは最後に厨房を見回し、深く礼をした。

「行ってきます」

「行ってらっしゃい。困ったら記録を送ってください。失敗も、成功も」

「はい」

馬車が北門を出ていくと、見習いたちは泣きそうな顔になった。リディアも少し目が熱かった。

エルヴィンが隣に立つ。

「寂しいか」

「はい」

「よい寂しさだな」

「たぶん」

彼女は北門の先を見た。継ぐ者がいる厨房は、空になるのではない。

道が増えるのだ。