作品タイトル不明
第44話 結婚式の朝の続き
結婚式から季節が一巡し、北境に再び春が来た。
薬草畑には新しい芽が出て、食養院の二期生が通い始めている。王宮の御前厨房からは、湿気対策を改善したとの報告が届いた。ミレーヌは王都の慈善厨房で正式な管理役となり、花ではなく棚の札を整えているらしい。
リディアは、公爵夫人としての仕事にも少し慣れた。慣れたと言っても、忙しさは減らない。朝はエルヴィンと自分の食事記録を確認し、午前は食養院、午後は領内の報告、夕方は厨房会議。社交の手紙も増えた。
ただし、全部を一人で抱えないことは、以前より上手になった。ある朝、エルヴィンが厨房へ来た。
彼はもう、粥だけの食事ではない。だが、時々リディアの作る薄い麦粥を食べたがる。
「今日は普通の朝食を用意しています」
「分かっている。だが、あの鍋の音が聞きたかった」
王宮から持ち帰った銅鍋は、北境の厨房で使われている。底の傷は増えたが、よく磨かれている。リディアは火を弱めた。
「最初の日を思い出しますか」
「三口しか食べられなかった日か」
「はい」
「あなたは、私を兵の前で食べさせないと言った」
「体が緊張しますから」
「正しかった」
エルヴィンは作業台の椅子に座った。今では厨房の者たちも、公爵が椀を返しに来ることに慣れている。トマなどは、当然のように公爵用の布を出す。
粥の湯気が上がる。リディアは器によそい、彼の前に置いた。自分の分も隣に置く。
「一緒に食べるのか」
「はい。食べるところまでが食事です」
エルヴィンは満足そうに頷いた。二人で粥を食べていると、食養院から子どもたちの声が聞こえてきた。二期生の見学日で、村の子どもたちが鍋の音を聞きに来ているのだ。
リディアは窓の外を見た。朝が、広がっている。
王宮の小さな厨房で、一人で守っていた朝。北境の食養院で、多くの手に渡った朝。村で、兵舎で、王宮で、それぞれの朝が作られている。
エルヴィンが静かに言った。
「幸せか」
問いは唐突だった。だが、リディアはすぐに答えられた。
「はい」
それから少し考え、付け加えた。
「忙しいですし、困ることもあります。公爵様は時々眠りませんし、トマさんは新しい味を試しすぎますし、王都からの報告は細かいです。でも、私は自分の名前でここにいます」
エルヴィンは粥を一口食べた。
「私も、あなたの隣で自分を粗末にせずにすんでいる」
リディアは笑った。それは、愛の言葉としては少し実務的かもしれない。
けれど彼らには、それが一番よく似合っていた。食べ終えたあと、エルヴィンはいつものように椀を持って立ち上がった。
「返す」
「ありがとうございます」
厨房の扉が開き、朝の光が差し込む。リディアは銅鍋の火を落とし、次の講習用の麦を洗い始めた。
身分違いの朝食係は、王宮を辞めた。そして北境で、朝を作る場所を見つけた。