作品タイトル不明
第35話 国王の御前厨房
王宮の療養食制度は、リディアが北境へ戻った後も続いた。グラント料理長からの月報が、定期的に公爵家へ届く。国王の食事量、薬草の在庫、下働きの休憩、花蜜湯の用途変更、王太子の見学記録まで細かく書かれていた。
ある日、その月報に招待状が添えられていた。国王の体調が安定したため、王宮内に新しく「御前厨房」を設ける。その開所式に、リディアとエルヴィンを招きたいという。
リディアは手紙を読み、少し笑った。
「御前厨房。名前が立派になりましたね」
「立派な名前の方が、王宮では予算が通る」
エルヴィンの現実的な言葉に、彼女は頷いた。王都へ行くのは、もう以前ほど怖くなかった。
開所式の日、御前厨房は王宮の華やかな広間ではなく、国王の寝室に近い静かな部屋に作られていた。火口は小さく、粥用の石板が固定され、薬草棚には用途別の札がある。鍵は侍医長、料理長、担当者の三者記録で開ける仕組みになっていた。
下働きの休憩机もある。ネリは正式な療養食補助として任命されていた。
「リディア様、見てください。私の名札です」
彼女は胸元の札を誇らしげに見せた。そこには、ネリ・アーヴィン、御前厨房補助と書かれている。
リディアは目の奥が熱くなった。
「よく似合います」
「ありがとうございます。食事もちゃんと取っています」
「それもよく似合います」
二人で笑った。国王は開所式で長い挨拶をしなかった。
代わりに、厨房の者たち一人ひとりの名を読み上げた。グラント、ネリ、侍医長、薬草係、記録係。そして最後に、セラ・ベルセとリディア・ベルセの名。
「この厨房は、名のない働きに頼らぬために作る」
国王の声は以前より強かった。
「朝は王だけのものではない。王が朝を迎えられるのは、火を守る者、水を汲む者、草を干す者、食べる人の体を見つめる者のおかげである」
セドリックは後ろで静かに聞いていた。ミレーヌもいた。
彼女は以前より装飾を控えたドレスを着て、強い香水を使っていなかった。婚約は正式に白紙となり、ローゼン家は一部の利益返還を命じられた。彼女自身は王宮の慈善厨房で学び直すことになったという。
リディアと目が合うと、ミレーヌは小さく礼をした。深い謝罪ではない。だが、逃げる礼でもなかった。
開所式の後、国王はリディアへ言った。
「北境の食養院の話を聞いている。王宮より先へ進んでおるな」
「北境は、必要が見えやすいのです」
「王宮は見えにくくするのが得意だ」
国王は苦笑した。
「それを変えるのが、私とセドリックの仕事だ」
セドリックが深く頷いた。リディアは、王宮の厨房を見回した。
まだ完璧ではない。制度は始まったばかりだ。記録も、休憩も、棚の札も、いつか形だけになる危険がある。だが、少なくとも今、そこには人の名がある。
帰り際、グラントが王宮の新しい粥を少し味見してほしいと言った。リディアは匙を受け取り、口に含んだ。
焦げていない。香りは弱い。塩は少し早いが、整っています。
「少し、塩を最後に寄せるとよいと思います」
「分かった」
グラントは素直に頷いた。以前なら、彼女一人の手で直していた。
今は、教えればいい。御前厨房の湯気は、王宮の朝を少しずつ変えていた。