軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第3話 辺境公爵の胃袋

王都から北境公爵領までは、馬車で三日かかる。五月の終わりだというのに、北へ進むほど風は冷え、道端の草は低くなる。王宮の庭で香水に混じっていた薔薇の匂いは消え、代わりに湿った土と針葉樹の匂いが馬車の窓から入ってきた。

リディアは揺れる車内で、膝に置いた帳面を押さえていた。オスカーは約束を守った。

契約書には雇用期間、報酬、住居、食材費の裁量、診察ではなく食事調整であること、拒否できる業務の範囲まで明記されていた。王宮で四年間働いて、これほど丁寧な紙を見たことはない。

「公爵様は、どのようなご容態なのですか」

リディアが尋ねると、向かいの席のオスカーは少し困った顔をした。

「食べません」

「食べられない、ではなく?」

「両方です。遠征中、補給が途絶えた時期があり、干し肉と黒パンを水で流し込むような生活が続きました。帰還後も軍議と報告で眠れず、侍医の薬を飲むために無理に食べ、余計に胃を悪くしたようです」

「吐き気は」

「あります。脂の匂いで顔色が変わります。熱は高くありませんが、手足が冷える。けれど本人は『兵はもっと悪いものを食べている』と言って、厨房に特別扱いを禁じました」

リディアは帳面に書き留めた。胃だけではない。疲れと、責任の抱え込みだ。

国王陛下とは違う種類の病み方だった。

王都を出て三日目の夕方、ノルドヴァルト公爵城に着いた。城といっても、王都の宮殿のような華やかさはない。灰色の石壁は厚く、門は低く構え、庭には花より薬草と野菜が多い。遠くに兵舎があり、さらに奥には雪を残した山が見えた。

厨房へ案内される前に、家令長のマルタがリディアを迎えた。背筋の伸びた年配の女性で、頬には深い皺がある。だがその目はよく働く人の目だった。

「よくお越しくださいました。客室は整えておりますが、先に厨房をご覧になりますか」

「はい。火口と水、使える食材を確認したいです」

「そう言うと思っておりました」

マルタは少し笑った。公爵家の厨房は王宮より小さいが、清潔だった。薪は乾いている。水瓶は二つ。保存棚には大麦、燕麦、乾燥豆、根菜、干し魚、少量の鶏肉。香辛料は少ないが、胃にきついものも少ない。

リディアは安堵した。

「薄粥を作れます。鶏の皮と脂を外し、骨で出汁を取ります。麦はよく洗って長く煮ます。生姜はほんの少し。香りだけです」

マルタが頷く。

「公爵様は召し上がらないと思いますが」

「最初から皿を多くしません。匙で三口。飲み物のような粥からです」

「三口?」

「三口食べられたら、体に『食べても痛くない』と教えられます」

鍋を火にかけると、厨房に静かな音が戻った。リディアは王宮で使っていたように、火の色を見た。北の薪はよく乾いていて、細かい調整がしやすい。大麦が柔らかくほどけ、出汁が白く濁り、粥の表面に小さな泡が立つ。

仕上げに、刻んだ蕪を入れた。塩は指先に触れる程度。最後に、香りを飛ばした生姜湯を一滴。

「薄いですね」

厨房番の青年が、心配そうに鍋を覗いた。

「薄くていいの。胃が疲れている時は、味が強いだけで体が逃げるから」

椀に移し、布で包む。リディアが盆を持とうとすると、厨房の入口に人影が立った。

背の高い男だった。肩幅があり、黒に近い灰色の髪を後ろで結んでいる。顔色は悪い。唇の色も薄い。それでも立っているだけで、部屋の火が少し小さく見えるような存在感があった。

エルヴィン・ノルドヴァルト公爵。灰狼公爵と呼ばれる北境の守り手は、厨房まで来ていた。

「あなたが、王宮の朝食係か」

低い声だった。リディアは礼をした。

「リディア・ベルセと申します。今日から客員厨師としてお世話になります」

「厨房に客を入れたくはなかったが、私のために来たと聞いた。礼を言う」

意外な言葉に、リディアは一瞬だけ返事が遅れた。王宮では、礼を言われることなどほとんどなかった。

「仕事ですので」

「仕事なら、なおさら礼は必要だ」

エルヴィンは盆の椀を見た。

「それが私の夕食か」

「はい。三口で構いません。痛みや吐き気が出たら止めます」

「兵の前で粥を残すわけにはいかない」

「兵の前では出しません。ここでお召し上がりください」

マルタが目を見開く。公爵は少しだけ眉を上げた。

「命令か」

「提案です。けれど、食べる場所も治療の一部です。人に見られていると、体は緊張します」

沈黙が落ちた。それからエルヴィンは、作業台の端の椅子に腰を下ろした。

「分かった」

リディアは椀を置き、匙を添えた。公爵は一口目を慎重に口に運ぶ。飲み込んだあと、喉が動いた。顔色は変わらない。二口目。手が少し止まる。三口目。

厨房の誰も、音を立てなかった。

「……温かい」

エルヴィンが言った。それは感想というより、自分でも驚いた確認のようだった。

「胃が痛みますか」

「いや」

「吐き気は」

「ない」

「では、今日はそこで止めましょう」

公爵は匙を置いた。ほんの三口。

けれどリディアには、十分な始まりだった。食べられる。痛まない。体がそれを覚えれば、明日の四口につながる。

エルヴィンは盆を持ち上げようとした。

「片付けは私が」

「公爵様がなさることでは」

マルタが慌てたが、彼は首を横に振った。

「食べられるものを作ってもらった。運ぶくらいはする」

その何気ない動作に、リディアは喉の奥が詰まった。王宮で彼女が皿を運ぶのは当たり前だった。ここでは、皿を受け取った人が自分の足で戻す。

厨房の扉の外で、伝令が駆け込んできた。

「公爵様、王都から早馬です。国王陛下が今朝の二膳目を受け付けず、侍医団が騒いでいるとのこと」

リディアの手が冷えた。エルヴィンは彼女を見た。

「戻りたいか」

問いは責めていなかった。だから、リディアは正直に答えられた。

「心配です」

「それと、戻ることは別だ」

「はい」

彼女は自分の木匙を握った。

「私は、ここで公爵様の明日の四口を作ります」