軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第1話 朝食係を辞めます

夜明け前の王宮厨房は、いつもなら湯気の音から始まる。

銅鍋の底を小さな火がなで、洗った大麦が水を吸って白く膨らみ、薬草棚からは干した 月桂葉(げっけいよう) と甘草の匂いが少しずつ広がっていく。

鶏の骨で取った薄い出汁に、昨日の国王陛下の喉の具合を思い出しながら刻んだ根菜を落とす。喉が荒れている朝は粒を細かく、胸が詰まる朝は油を抜き、眠れなかった朝は香りを弱くする。

リディア・ベルセは、その手順を十七の頃から四年間、一日も欠かさず続けてきた。子爵家の養女で、貴族名簿の端に載るだけの娘。

そして王宮では、誰も正式な肩書きをくれない 朝食係(あさげがかり) だった。

「リディア様、今朝は陛下の咳が少し乾いているそうです」

若い下働きのネリが、厨房の裏口から息を弾ませて入ってきた。手には国王付き侍医の短い伝言紙がある。

「ありがとう。なら、白粥は一度漉しましょう。塩は最後。苦みのある薬湯は今日は半分にします」

「また夜明け前からお一人で……。料理長も、もっと人を増やすように言えばいいのに」

「人数を増やせば早くなる仕事と、そうでない仕事があるわ」

リディアは笑って、焦げつきかけた小鍋の火を落とした。

国王ユリウスは病がちだった。大きな戦や疫病ではなく、長い執務と加齢が積もって体が弱っている。食欲が落ちる。腹を壊す。苦い薬を嫌がる。侍医の処方は正しいが、薬だけでは朝の体を動かせない。

そこでリディアが呼ばれた。

生母が薬草を扱う料理人だったこと。幼い頃から病人の食事を作っていたこと。養家のベルセ子爵が王宮へ出入りする小役人で、たまたまその技術を知っていたこと。理由はいくつもあったが、結局は「身分の高い料理人を新たに雇うより安い」という事情だったのだろう。

それでもリディアは、役に立てるなら構わないと思っていた。陛下が匙を手に取り、「今朝は喉を通る」と呟くたび、胸の奥が少し温かくなったからだ。

その温かさだけを支えに、厨房の隅で手を動かしてきた。

「まあ。本当にいらっしゃるのね」

厨房の入口に、場違いな香水の匂いが差し込んだ。ネリがびくりと背筋を伸ばす。リディアも手を止め、銅鍋の蓋を半分だけ戻してから振り向いた。

白薔薇色のドレス。真珠の髪飾り。朝の厨房に入るには長すぎる袖。王太子セドリック殿下の新しい婚約者、ミレーヌ・ローゼン侯爵令嬢だった。

彼女の後ろには、セドリック王太子本人が立っている。いつも通り整った顔立ちで、いつも通り、こちらを見ていない。

「ミレーヌ様。厨房は火と刃物が多くございます。お足元にお気をつけください」

リディアが礼をすると、ミレーヌは扇を口元に当てて笑った。

「その呼び方はやめてくださる? まるで、あなたがここを取り仕切っているみたい」

「失礼いたしました」

「失礼、ではなくて。わたくし、昨夜とても驚きましたの。王宮で、しかも陛下の御膳に、貴族令嬢が厨房で手を出していると聞いたものですから」

ネリの顔が青ざめた。リディアは、炊き上がる粥の泡を見た。火は弱い。このままなら焦げない。

「私は令嬢というほど立派な身ではありません。ベルセ子爵家の養女です」

「なおさらですわ」

ミレーヌの声は柔らかい。柔らかいからこそ、刃がよく入る。

「身分の境目は、守らなくては。厨房は料理人の場所。令嬢は食卓で礼を尽くすものです。殿下の妃となるわたくしが、王宮の品位を整えるのは当然でしょう?」

セドリックは、気まずそうに片手を上げた。

「リディア。ミレーヌは王宮のしきたりを心配しているだけだ。君の腕を否定しているわけではない」

「では、今朝の御膳はどういたしましょう」

「料理長に任せればいい」

その言葉は、鍋の底を擦るへらの音より軽かった。

「料理長は陛下の通常食を整えられます。けれど、陛下の喉と胃の状態に合わせた 養生食(ようじょうしょく) は、細かな調整が必要です」

「調整なら侍医がする」

「侍医は薬を見ます。食べ物の火加減は厨房で見ます」

セドリックの眉間に皺が寄った。

その顔を、リディアは何度も見たことがある。予算を削れないと言ったとき。陛下の薬湯の時間を宴席より優先してほしいと頼んだとき。貴族令嬢が朝早く厨房にいると噂になるから控えてくれ、と言われたとき。

王太子は、リディアの仕事を必要としていた。けれど、リディアそのものを庇ったことは一度もなかった。

「君は少し、自分の役目を大きく見すぎているのではないか」

厨房の湯気が、ふっと冷えた気がした。ネリが何か言いかける。リディアは小さく首を横に振った。

怒りはあった。けれど、陛下の粥が焦げる前にやるべきことがある。

「承知しました」

リディアは鍋の火を止めた。粥を白い陶器の器に移し、温めておいた薄手の布で包む。薬湯は苦みを抑え、喉を通りやすくしたものを小瓶に入れる。添えの小皿には、柔らかく煮た蕪と、蜂蜜をほんの少し溶いた葛湯。

それから、料理長に宛てた短い札を書いた。今朝は乾いた咳。薬湯は半量。二口目で咳き込んだら粥を止め、葛湯へ。

文字は急いでも乱れなかった。四年間、同じ時間に同じような紙を書いてきたからだ。

「グラント料理長へ渡してください。陛下の御膳はこれで間に合います」

ネリが震える手で盆を受け取った。

「リディア様」

「大丈夫」

リディアは厨房壁の鍵掛けから、自分に渡されていた小さな銅の鍵を外した。王宮東厨房、薬草棚、朝食用小倉庫。その三つを開けられる鍵だ。立派な任命書はないのに、鍵だけはずっと持たされていた。

それをセドリックの前の作業台に置く。

「では、私は本日をもって朝食係を辞します」

ミレーヌの扇が止まった。セドリックも、ようやくリディアの顔を見た。

「何を言っている」

「厨房に貴族令嬢が立つのは王宮の品位を損なうとのことでした。私は料理人として正式に雇われているわけでもありません。身分の境目を守るなら、ここにいる理由がなくなります」

「急に辞めるなど無責任だ」

「陛下の今朝の御膳は整えました。薬草の保管場所と基本の手順は料理長がご存じです。責任を問われる正式な職ではないと、殿下も何度もおっしゃっていました」

セドリックの頬に、かすかな赤みが差した。彼はそれを怒りに変えようとしたらしい。

「リディア、意地を張るな。ミレーヌに謝れば――」

「謝る理由が分かりません」

言ってから、リディアは自分の声が驚くほど静かなことに気づいた。四年間、台所の隅で飲み込んできた言葉が、ひとつの朝に全部押し寄せてくるわけではなかった。ただ、底に沈んでいた小石が、ようやく水面へ出たような感覚があった。

「私は陛下に、食べられる朝をお届けしてきました。卑しい仕事だとは思っておりません」

ミレーヌが目を細める。

「随分と誇り高い朝食係ですこと」

「はい」

リディアは深く礼をした。

「ですから、もう辞めます」

厨房の外で、朝告げの鐘が鳴った。国王の朝食が運ばれる時刻だった。