軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

番外編 早朝のベーカリーで(コミックス4巻発売記念SS)

欠伸を漏らすと吐息が白く昇っていく。白い息は朝の冷たい空気に溶け消えて、口元まで引き上げたマフラーを少し湿らせた。

早天の下、歩いている人は少ない。歩いているうちに遠くの山の稜線が金色に縁取られていくのが見えた。薄明るい空には丸い月が浮かんでいる。

冬の夜明けは遅いけれど、まだ 朝朗(あさぼらけ) の午前六時。

商店街を歩く人はまばらで、開店準備をするお店の人が多いように見えた。

そんな中で今日が休日であるわたしとノアは、あるお店に向かって歩いていた。

「はは、眠そうだな」

「仕事に行く時よりも早起きしたもの。まだ空が暗かったわ」

隣を歩くノアは眠気など感じさせなくて、いつもと変わらぬ調子で笑っている。

少し背を丸めて、髪を全て下ろし、黒縁眼鏡をかけた【ノア】としての姿。こうして商店街をノアと歩くと、結婚前の事を思い出す。

まだ気持ちを伝えられていなかった夜も。

気持ちを重ねて、デートをした日も。

いつだってノアはわたしを見てくれていた。優しくて、熱を孕んだ夕星がわたしだけを見つめていた。

「どうした?」

「え? ううん、少しぼうっとしていただけ」

そんな事を考えていたら、ノアが顔を覗き込んでいた。急に近くなる距離には今もまだ慣れない。この距離にも甘い声にも、いまだにドキドキしてしまうのだから、彼の事が好きなのだと思い知らされるばかりだ。

「帰ったら寝ようぜ。また出掛けるのは昼からでもいいだろ」

「そのまま夕方頃までごろごろしてしまいそうじゃない?」

「それも悪くねぇと思ってるんだけど」

確かに魅力的なお誘いだと思う。

でも折角早起きしたんだから、いつもは出来ないような事をしたい気もするし。

「とりあえず保留で。お腹空いてきちゃった」

「そうだな」

目的地はもう見えてきている。

煙突から立ち上る白い煙。お店に近付けば外にも漂う、小麦の香り。

お目当てのベーカリーは、こんな朝早い時間でも賑わっていた。

ベーカリーにはカフェが併設されていて、わたしたちはパンを選んでからそちらに向かった。カフェの中はまだ静かで、人も少ない。

この時間は買って帰るお客さんの方が多いようだ。

お店の外にもいい匂いが広がっていたけれど、店内はその比じゃなかった。

自然と顔が綻んでしまう程の、幸せな匂いがしている。

「ご機嫌だな」

「それはそうよ。ずっと来たかったんだもの」

「開店したのは二か月くらい前だったか」

「ええ。なかなか早起きが出来なかったのよね」

「それは俺が悪かったな」

ノアが揶揄うように低く笑う。

一体何の事だと首を傾げるも、それに思い当たってしまって顔に熱が集まったのが分かった。

早起きできないのは、夜が長いからで。夜が長いのは──

「くく、真っ赤だぞ」

「もう!」

先程までの寒さもどこにいってしまったのかと思うくらいに、顔が熱い。両手で顔を覆ったわたしを見て、ノアがまた笑ったのが聞こえた。

それに文句を言おうと指の隙間からノアの様子を窺うと、楽しそうな顔をしている。それを恨めしく睨んでいると、カートを押す足音が聞こえた。

「お待たせしました」

店員さんが運んできてくれたのは、わたし達がベーカリーで選んだパンだ。

温め直して、飲み物と一緒に持ってきてくれる。

わたしの前にはミルクの入ったコーヒーと、ベーコンエピ。それからシュケットが数個入ったカップもある。

ノアの前にはコーヒーとクロワッサンサンドが用意された。

手を組み祈りを捧げてから、お皿に載せられたパンに向き合った。

「美味しそう。ノアのは……トマトとベーコン?」

「オムレツも入ってる。それからチーズとレタスかな」

一見するとボリューミーだけど、お野菜が多いからぺろりと食べられそうだ。

大きなクロワッサンは中央で半分に切り分けられていて、持ちやすくなっている。

次に来た時はそれを頼んでもいいかもしれない。そう思いながら手元のエピへと目を向けた。

麦穂にも似た可愛らしい形をしたパンを、手でちぎる。

パンの外側はパリッとしていて固いけれど、千切った先のクラムは真っ白で柔らかい。湯気の立つそれに誘われるように口に入れると、もっちりとした生地にベーコンの塩気が合っていてとても美味しかった。

黒胡椒がピリリと効いているのも、いいアクセントになっている。

「んん、美味しい」

「他にも美味そうなのがたくさんあったし、また来ような」

「ええ。お昼過ぎには焼き菓子の種類も増えるみたいだし」

「いまはシュケットだけだったもんな」

ノアの言葉に頷きながらコーヒーカップに口をつける。

お砂糖は入っていないけれど、ミルクがたっぷり入っているからほんのりと甘く感じるコーヒーだった。飲みやすくて美味しい。

カップをソーサーに戻してから、シュケットを一つ手に取ってみる。

本当はエピを食べ終わってからにしようと思ったのだけど、まぁいいだろう。

まぶされたパールシュガーが可愛らしい。

口に運ぶとサクサクとした軽い食感のシュー生地が優しい甘さで美味しかった。食べやすいから、これは帰りがけに買っていってもいいかもしれない。

外を見ると、東雲の空が広がっていた。

夜の終わりと朝の始まりが入り混じる、優しい色合い。眠りにつく月が、更にその色を薄くしている。

穏やかで、のんびりとした時間。

早朝のお出掛けも楽しいと思えるのは、ノアと一緒だから。自分一人でも美味しい時間は過ごせるけれど、ノアと一緒ならもっと楽しい。

「ねぇノア」

「ん?」

「また一緒に来たいわ。こういう朝に」

「もちろん。まだ暗い中を、お前一人で歩かせられねぇだろ」

「それだけが理由?」

「いや」

テーブルの上でノアがわたしの手を握る。

わたしよりも大きくて、暖かな手が愛おしいと思う。

「アリシアと一緒に居たいから。一緒だと何でも美味く感じるしな」

「ふふ、わたしもそう思ってた」

さぁ今日は何をしようか。

愛しい人との一日が、また始まるのだ。