軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

少年期 一三歳の秋・五

三重帝国の浴場というのは、ちょっとしたアミューズメントパークのようなものである。それ故、寝そべってマッサージを受けられる寝台や、座って誰かと語らえるベンチ、果ては軽くレスリングなんぞをする運動場もあったりする。

私とファイゲ卿はサウナから出て、水風呂近くのベンチで熱を冷ましながら改めて顔を合わせていた。

ますます樹人という人類の不思議さを知らされる。顔も手足も節くれ立って捻れた木の枝が絡み合いヒトの形を取っているようにしか見えず、顔も目の輝きがなければシミュラクラ現象によって古木を顔と錯覚しているとしか思えない容貌である。

髪の毛のように頭部を飾るシルバーリーフと、枝葉の起伏が彼を老木らしく飾っており、樹人もヒトのように老いるのだと静かに年月と実績を語っていた。

「年をとるとだな、水分が抜けていかんのだ。だからこうして、体に水気を足してやりに来ておる」

そう仰って、彼は手近な水売りに声をかけた。風呂を長く楽しむため、飲み物を売り歩く商人も浴場の一風景として欠かせないものだ。

「おん、ご老公、今日もだが。あぎねな?」

「風呂はいづでもえものだ。枯れるまではいら。ああ、えったがのがほしい」

顔馴染みの水売りだったのだろうか。流れるようにグラスに爽やかな酸味の香る水を注ぎ、一杯手渡した。

「そこのもっけにもやっでぐれ」

そして、私にも一杯奢ってくださった。これはあれだな、柑橘の皮と樹皮を軽く漬けた氷水か。

「のみたまえ。湯気に溺れた後の水は……」

「甘露の如し?」

詩的な表現と共に差し出された水を一口煽り、その清々しさと汗で乾いた体に染み入る旨さを堪能しつつ、聞き覚えのある表現につい口を挟む。ほぉ、と呟いて彼は髭のように顎を飾る銀色の苔を撫でた。

「ほう? 古典に詳しいのか」

「ベルンカステル、ですよね。散文詩の大家の」

彼が引用し、私が接いだ詩は帝国成立以前に名を残した散文詩家の日常詩だ。この地域では早い時期から韻を踏む形式の詩だけではなく、拘りなく情緒を謳う散文詩も民草の間では分かりやすさもあって流行していた。いつぞやの晩、森で私とマルギットがやった言葉遊びも、源流はそこから来ている。

私は一時期聖堂に入り浸って、狭い書庫の本を読み漁っていたからな。神学の本は言うまでもなく、歴代の司祭が集めた蔵書の中には庶民が親しむ詩集も多々あった。当然ながら、田舎の司祭は田舎の人間がなるため、文化の好みも必然的に似たものになるのだ。

「うむ、あれはいい。堅苦しくないが格式高い言葉選び、その中にある生きる喜びがのびのびと綴られており、そして読後に残る感覚が素晴らしい」

「わかります。私も読んだ後、風呂に入りたくなったり、散歩に出たくなりますから」

その中で、出身都市の名だけを筆名としたベルンカステルは謎の多い人物だが、きちんと出版された本が写本だけではなく原本も残っているあたり、庶民ではないと見られている。しかしながら、情緒溢れる普通の暮らしを丁寧に謳った詩は貴種の豪勢な暮らしからはほど遠いので、今では貴族からの支援を受けた庶民出の詩人か、貴族の庇護下にあった裕福な庶子なのではないかと考えられている。

人気は高いが、いまだ貴族界隈では技巧を凝らし、その形式が分かりやすい定型詩の方が高く評価されているのはたしかである。その界隈で複製師として写本を作り、名声を得た御仁が散文詩に親しんでいるとは思わなかった。

「そうか、その良さが分かるか。若いのに珍しい」

ファイゲ卿は実に嬉しそうに水を呷って、水売りからお代わりを購入し私にも勧めてくれた。うむ、分かりますよ、同好の士を見つけた時に財布の紐が緩むの。私も会社で珍しくTRPGを知ってる後輩が入ってきた時、随分とお大尽してしまった覚えがありますから。もう、今となってはその彼の名前も思い出せないのですが。

「今時の若者はやれヴェルレーヌだのハインリヒだの技巧に凝ってごく当たり前のことを宣う詩ばかりを好み……」

そして、暫くファイゲ卿の持論――あるいは愚痴――を拝聴しながら体を冷やしすぎないように湯殿と蒸し風呂を往復しながらお話を伺った。

なるほど、確かにこれはヒトを選ぶなと思う気性の御仁であった。

気位が高く、知識が深く、貴族位を与えられるほどの技巧。それでいて大好きな詩作や吟遊、物語を書く技能がないことを嘆き、その慰めで詩や物語に触れる仕事に就いたのだろうと語りの中から察せられる経緯。そして、どうあっても有名作や稀覯書の複製ばかり頼まれる腕前が、趣味人の極みたる人間性と絶妙に噛み合っていない……。

これが凡百の複製師として淡々と写本を作っているだけならよかっただろう。むしろ、その手の複製師には読み捨てに近い、庶民が好むサーガや詩の写本作成依頼ばかりが来るだろうから、きっと卿ならば延々と楽しみながら仕事をしただろうに。同じ詩を何度も見て、その度に感じることの違いに趣を感じているようでもあったし。

が、残念ながら腕前がよく、生活のために単価が高い小説――小編の言説という意味の小説。この世界で小説と言えばこっちで、私に馴染む方は物語や英雄譚と呼ばれる――に手を付けたのがよくなかったのだろう。次から次へと貴族が愛読するような大説や国論、魔導論文から歴史書、そして唯一馴染みある詩であっても高貴でハイソな趣味に合わないものばかりが持ち込まれるとくれば……仕事の切片と合っていないことも相まって、依頼者に偏屈と言われる態度をとっても無理はなかろう。

それをして商売が成立してしまう腕前、というのが彼の悲劇だった。本当にやりたいことと得意なことが同じとは限らないとはいうものの、なんとも悲しいものである。

私がすっかりふやけてしまった頃、ようやくファイゲ卿の愚痴ならぬ自説は終わった。いや、有意義だったと思うよ? 専門知識の深さは流石だし、知らないコトがポンポン飛び出してくるから熟練度までたまったからね。多少のぼせてしまったのもコストと思えば安い安い。

「すまないな、小さき者。つい話し込んでしまった。ゆるせ、老木の悪い癖よ」

「いえ、大変興味深い話の数々、実に楽しいものでした」

浴場を出て心地良い秋の夜風に吹かれて人心地つくことができた。見上げれば、微かな雲へ隠れるように見慣れた白い月が真円を描こうとしていた。対照的に不気味な黒い月は陰ってゆき、殆ど見えなくなっている。

「して、結局目的が聞けず終いであったな。如何用でこの老木を訪ねてきたね?」

本来の目的を果たさせてやろうと鷹揚に問うてくるので、私はそれに甘えさせて貰うことにした。これが大人であれば、いえいえこんな所でお頼みするのも失礼ですので、と謙ると共に礼儀を尊重して日を改める所だが、子供は却って素直にお願いした方がいい。

「はい。我が主からの命令で、ファイゲ卿が複製した“失名神祭祀韋編”をお譲り願いたく参りました」

深く腰を折ってなされた願いを聞き、卿の眉が厳しく跳ね上がってコガネムシのような目が暗い赤に色合いを変えた。

そう、私がアグリッピナ氏に頼まれていたのは、卿に写本の作成を頼むことではない。

ファイゲ卿が以前依頼として受けながら、クライアントと大喧嘩した結果引き渡されなかった写本を求めてやって来たのだ。

この仰々しい本が何を記しているのか、私も掴むことはできなかった。失名、名を喪った神という記述そのものが、今まで読んだ神学に関係する本で出てこなかったからでもあるが、つまりは相応の“禁忌”として扱われているということなのだろう。

その神を祀る本と来れば、穏当な内容でないことだけは確実。私はコトが上手く運んで本を手にすることが出来たとして、絶対にページへ手をかけることなくアグリッピナ氏に引き渡すだろう。見るな、知るな、触れるなという三つの禁止には、禁止されるに至った相応の理由があるに違いないのだから。

私は後ろを振り返って大事な者を喪うオルフェウスのようにはなりたくない。破ってしまえばどうなるかの“オチ”を教えてくれる先人がいるのだから、彼等の轍を踏まないのが一番の供養であろうさ。

「彼の本をいまだお持ちでいらっしゃいますか?」

腰を折り、地面に視線を落としたままで問いかける。木の節々が不気味な音を立て、木立から鳥たちが飛び立つのが見えた。

「……よかろう。ここで話すようなことでもない。ついてくるがよい」

そして、視界の端に映っていたファイゲ卿の足が翻る。

私はそれに置いて行かれぬよう、見上げるように高い彼の背を必死に追うのだった…………。

【Tips】長い歴史の中で信仰を喪い姿を隠す神や、信仰の変質により性質が変じてしまう神も存在する。

卿に導かれて辿り着いたのは、市壁の近くで異様な存在感を示す巨大な常緑樹の根元であった。そこが樹人である卿のルーツであると共に、現在の住まいだという。

樹人の発生は非常に特殊なもので、彼等は交配によって増えるのではなく、一本の木に精霊が宿ることによって人として個我と自我を確立し生まれ落ちるという。そして、産まれた後は木と寄り添うように生きながら、好きな所へ行きたいように向かうのだとか。

「入りたまえ」

そして、誘われた木の根元に空いた虚には、実際の直径より遙かに拡張された空間が広がっていた。

「うわ……凄い」

思わず声が漏れる。虚の中に広がる空間は、本好きであればロマンが刺激されずにいられない重厚な書斎であった。

樹人である卿が腰掛けても見劣りしない、飴色の木材で加工された立派な執務机は部屋の中央に据えてなんら恥じることのない重厚感を纏い、その後ろに控える暗色の椅子もまた、部屋の厳粛さを引き締める一因として誇らしげに背もたれを聳えさせる。

その机を囲うように配された本棚には、数多の豪華な装丁の本が丁寧に収められていた。

几帳面に作者の名前順に納められたそれは、何れもが馴染みのあるタイトルだ。それも、普通ならば雑な装丁で貸本屋あたりに――一日数アス程度で本を貸す商売――並ぶようなタイトルが、事典や大論の如き美事な装丁に仕立てられて居並んでいる。

これが俺の好きなもんだ、文句有るか! と全力で主張する、趣味人極まる部屋であった。きっと、あの本達はファイゲ卿が気に入ったものを自分用に採算度外視で複製し、職工に装丁させた、正しく卿のためだけに作られた本に違いない。

「おお、これはあのサーガの、あっ、こっちは去年村祭りで聞いた恋歌の作者が出した詩集!?」

ある意味で凄いお宝である。趣味人なら幾らでも金を積むだろうが、権威や希少性に金を出す部類の人間なら見向きもしないラインナップ。いやぁ、いるんだな何処にでも、マニアという生物は。

「ほぉ、分かるかね。よければ何か進呈しようか?」

「本当ですか!?」

望外の提案に思わず素で振り向き、その後に己の浅ましさを認識して顔が真っ赤になった。子供の振る舞いを武器にすることはあっても、本当に子供になっちゃいかんだろうに……。

「し、失礼いたしました。我が身に余ります」

「いや、ここまで気に入って貰えたことは希でな。持ってこられる本はどいつもこいつも興味を惹かぬ物ばかり。それで嫌気が差して帝都から工房を引き払い、ここに帰って来たのだ」

煩わしいものから解放され、好きな物に囲まれて生きる事のなんと清々しいことよ。そう仰るファイゲ卿は、心から落ち着いた表情をしていた。

「が……確かにそれを汚す物があるのも事実」

言って、卿は執務机の引き出しの鍵を外し、一冊の本が机の上に放られる。黒革の表紙へ骨を削った豪華な装飾に塗れさせた装丁は、見るからにその本が“アレ”な性質を帯びた代物であると音のない雄弁さで語っていた。

具体的に言うと、下手に開いたら1D100を振らされる部類のアレだ。

無意識に一歩後ずさってしまう。装丁の禍々しさもさることながら、私程度の“目”をしてもヤバイ気配が漂っている。こんなもの、下手に触ったらどうなるか分からんぞ。こんな普通に置いておかないで、鎖か何かで雁字搦めにしておいてくれ、マジで。最低限、開けないようにする鍵くらいは必須だろう。

「これが、そなたの主が求める“失名神祭祀韋編”、その写本よ」

私は言い知れぬ不快感と共に産まれた吐き気を必死に呑み込んだが、何故だか本に視線が引き寄せられる奇妙な感覚から逃れられずにいる。ホラー映画のような怖いから見たい、怖いからこそオチを知っていないと不安だという感覚ではない。

これは、もっと悍ましく、もっと悪辣な何かだ。

「依頼主からの注文での。原書の複雑にして迂遠な旧い言語を帝国語へ限りなく忠実に翻訳し、同時に注釈も数多入れ理解しやすいようにしてある」

ということは、開けば読めてしまうのか、私にも。その事実を認識した途端、脳味噌の何処かが“読んでしまえ”と囁いているような気がした。

いやいやいや、あれはヤバイ、絶対にヤバイ。確かにロックされているスキルが開放される公算は高いが、絶対に触れちゃいかん部類のスキルだろう。それこそ触れたら“気が触れる”系の代物だ。

こんなあり得ない呼びかけが脳味噌に湧いてくる辺り、確実に“厄”い案件じゃねぇか。それこそ、こいつを火山に捨てて行くことがグランドエンディングになる長期キャンペーンが始まってもおかしくないぞ。

「さて、お主の主はこれに如何なる値を付ける?」

風呂で温まった筈の体が芯から冷える怖気を纏う本を持ち上げ、卿は実に難しい顔を私に向けた…………。

【Tips】魔導書はその性質からして、見るだけで影響を与える物はおろか、存在するだけで周囲に影響を及ぼすものも存在する。魔導院の最深部書庫が“禁書庫”と呼ばれるのにも、相応の所以があるのだ。