軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第22話 地図師の怒り

マティアス・クラインは、雪の匂いをまとって現れた。

アカデミーの応接室に通された彼は、外套についた白い粉を払おうともせず、筒に入れた地図を胸に抱えていた。年は四十前後。痩せていて、頬骨が高い。指先には黒いインクが染み込み、爪の間にまで細い線が残っている。見るからに、紙の上で都市を作る人間だった。

「レオンハルト・オイラー殿は、あなたですか」

声は硬かった。

最初から敵意を隠していない。

「はい。オイラーです」

「では、先に申し上げます」

マティアスは、机に地図筒を置いた。

ごとり、と重い音がした。

「私の地図を、壊さないでいただきたい」

部屋の空気が、最初から冷えた。

アレクセイが腕を組む。「挨拶より先にそれか」

「挨拶は、地図を尊重する者へするものです」

エリザの眉がわずかに動いた。

カタリナは、何も言わずにマティアスの指先を見ていた。インクの色、紙筒の紐、封蝋の割れ目。いつものように、言葉ではなく痕跡を読んでいる。

俺は椅子を勧めた。

「座ってください。地図を見せていただきたい」

「見せるために来たのではありません。確かめるために来ました」

「何をです?」

「あなたが、本当に私の都市を四つの点に潰すつもりなのかを」

その言葉に、胸の奥が少し痛んだ。

まだ、何もしていない。

でも、彼はもう分かっている。

俺が地図から川幅も道も家も削り、陸地と橋だけを取り出そうとしていることを。

「潰すのではありません」

「同じことです」

マティアスは筒から地図を取り出した。厚い紙が机の上で広がる。乾いた紙の音が、応接室に響いた。そこには、ケーニヒスベルクの街があった。川の曲がり、島の輪郭、家並み、教会、倉庫、広場、橋の石組みまで、息を呑むほど細かく描かれている。雪国の灰色の光の中でも、その地図だけは、街の音や水の匂いまで持っているようだった。

「これが、私の街です」

マティアスは指で地図をなぞった。

「この倉庫から穀物が出る。この橋を渡って市場へ行く。この通りは春になると泥に沈む。こちらの橋は古い。こちらは板が軋む。ここでは、川の流れが速い」

彼の指先は迷わなかった。

ただの地図ではない。

記憶だ。

「あなたは、これを消して、点と線にすると聞きました」

「必要なものだけを取り出すためです」

「必要なもの?」

マティアスの声が低くなる。

「あなたにとって不要でも、私たちには必要です。川幅も、橋の高さも、家も、道も、人も」

「わかっています」

「いいえ。わかっていない」

彼は鋭く言った。

「数学者は、紙の上で現実を軽くする。だが、軽くされた現実を歩くのは、私たちだ。私たちは、ここで、この街で生きている」

その言葉は刺さった。

転生した頃なら、「数学者」であることを気負わなくてはならなかったあの頃なら、俺は反射的に反論していただろう。

だが今は違う。

この二年間で、記録が人の仕事でできていることを知った。それを守るのがどれだけ大変であるか、も。

赤線も、図版も、数表も、名前も。

地図も同じだ。

「マティアス殿」

カタリナが静かに口を開いた。

「八本目の線は、あなたのものではありませんね」

マティアスの顔が変わった。

怒りではない。

苦痛だった。

「違います」

彼は即答した。

「私の線ではない。私の紙にあるのに、あれは、私の線ではない」

カタリナは頷いた。

「橋の影がありませんでした。橋脚も水流に合っていません。線の終わりが、あなたの他の橋と違います」

マティアスは、初めてカタリナをまっすぐ見た。

「あなたは、線を見る方ですか」

「図版師の娘です」

「なら、あなたにはわかるでしょう」

彼の声がわずかに震えた。

「自分の地図に、自分の知らない線がある気味悪さが」

カタリナは、少しだけ目を伏せた。

「はい。わかります」

応接室の外で、風が窓を鳴らした。寒い日だった。暖炉は燃えているのに、部屋の隅には冷気が残っている。

エリザが地図を見ながら言った。

「私たちは、その八本目を橋として認めません」

「なら、なぜ私に会いに来た?」

マティアスが問う。

俺は答えた。

「あなたが、七本の橋の街を知っているからです」

「七本の橋の街」

「はい」

俺は机の上に、別紙を置いた。

まだ何も描いていない白紙。

「八本目の嘘を消すためには、まず七本の構造を正しく残す必要があります」

マティアスの目が細くなる。

「構造」

「橋の長さや美しさを否定するつもりはありません。ただ、この問題に必要なのは、まず、どの陸地がどの陸地と橋でつながっているかです」

「それで、点と線か」

「はい」

「やはり潰すのか」

「違います」

俺は紙に手を置いた。

「あなたの地図は、街の全部を見るためのものです。それはこの街の人々のためのものだ。私が作ろうとしている図は地図ではありません。橋渡りの問いだけのためにある」

「問いのためだけ」

「はい。人がすべての橋を一度ずつ渡れるか。その問いを解くためには、川幅は必要ありません。家並みも、橋の石材も、距離も、最初はいりません」

「最初は?」

マティアスが問い返した。

俺は頷いた。

「最初は、です。問いから現実へ戻る時には、あなたの地図が必要になります。どの橋が古いか、どの道が泥に沈むか、どこを荷馬車が通れるか。それは、点と線だけではわからない」

マティアスは黙った。

怒りの色は残っている。

だが、聞いている。

エリザが横から言った。

「つまり、消去でも省略でもなく、段階です」

「段階」

「はい。最初に必要な条件だけを抽出する。その後、現実に戻す」

マティアスは彼女を見る。

「あなたは?」

「エリザ・ベルヌーイ。正式な席はありませんが、証明の穴は見ます」

「穴を見る女ですか」

「言い方は不快ですが、だいたい合っています」

アレクセイが少し笑った。

エリザは無視した。

俺は白紙に四つの点を打った。

ひとつ。

ふたつ。

みっつ。

よっつ。

マティアスの指が、ぴくりと動いた。

「それが、私の街ですか」

「違います」

俺は言った。

「あなたの街ではありません。あなたの街から、この問いに必要な骨格だけを取り出したものです」

「骨格」

「はい。肉も血も匂いも、人の生活も、あなたの地図にあります。今ここで見るのは、骨格です」

マティアスは沈黙した。

その沈黙は、最初の怒りとは違っていた。

俺は点と点の間に線を引いた。

七本。

ただし、八本目は描かない。

描かないことに、手が少し緊張した。

校閲者が見ている気がする。

「これが、七本版です」

カタリナがすぐに別紙へ写す。

「七本。改変線なし。レオンハルト様の抽象図、初稿」

「初稿って書かれると何か怖いですね」

「あとで直しますので」

「直す前提」

「もちろんです」

マティアスは、その簡素な図を見つめていた。

美しい地図の隣に置けば、子どもの落書きのように見える。

四つの点。

七つの線。

川も家もない。

だが、橋のつながりだけはある。

「……こんなもので、何がわかる?」

マティアスが言った。

でも声は、先ほどより小さかった。

「まだ何も」

俺は答えた。

「でも、ここから分かることがあります」

アレクセイが身を乗り出す。「距離もなしで?」

「距離なしで」

「速度も、荷の重さも、橋の幅も?」

「最初は不要です」

アレクセイは不服そうだったが、黙った。

マティアスが、地図と点線図を見比べる。

「私は、まだ認めていない」

「当然です」

「だが」

彼は自分の地図を指で押さえた。

「八本目の嘘を見抜くためなら、この骨格図も使えるかもしれない」

「ありがとうございます」

「礼を言うな。まだ怒っている」

「はい」

「私の街を点にしたことは、許していない」

「はい」

「だが、八本目を橋として認めることは、もっと許せない」

その言葉に、部屋の空気が変わった。

敵ではない。

同じものを守ろうとしている。

それがお互いに、少しだけ見えた。

その時、机の上の美しい地図が、かすかに白く光った。

全員が動きを止める。

八本目ではない。

地図の端に書かれた署名。

Matthias Klein。

そのKleinの文字が、薄くなり始めていた。校閲者はそこを狙ってきた。

「私の名が……」

マティアスの声が掠れた。

カタリナがすぐに叫ぶ。

「写します!」

「待て」

マティアスが、彼女を止めた。

「自分で書く」

彼は羽ペンを取った。

手が震えていた。

だが、線は強かった。

Matthias Klein。

地図師。

ケーニヒスベルク七橋図作成者。

彼はそう書いた。

俺も続けた。

「八本目の橋を描かず」

エリザが書く。

「七本版地図を証言」

カタリナが書く。

「八本目の線は本人の筆跡にあらず」

アレクセイが渋々言った。

「宮廷実務側も、七本版として参照」

アンナが頷く。

「宮廷記録にも残す」

イワンが羽ペンを走らせた。

「地図師マティアス・クライン。七本版の証人」

白化は止まった。

署名は薄くなった。

でも、残った。

マティアスは、自分の名を見つめていた。

「……なるほど」

彼は低く言った。

「あなた方は、いつもこうやって戦っているのか」

「最近は、だいたい」

俺が答えると、彼は苦い顔をした。

「面倒な仕事だ。それも数学か?」

「違います。だが必要な仕事だと思います」

「そうか。……オイラー殿。あなたの数学はまだ認めない。だが」

彼は、四つの点と七本の線を見た。

「その面倒さなら、少しは信用できる」

俺は、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。

その瞬間、骨格図の端に黒い文字が浮かび上がった。

【地図を捨てよ】

【骨だけ残せ】

マティアスの顔が険しくなる。

俺は、その文字を見て首を振った。

「違う」

全員が俺を見る。

俺は、地図と骨格図の両方に手を置いた。

「地図は捨てない。骨だけでは足りない」

黒い文字が揺れた。

俺は続けた。

「必要なのは、両方だ」

校閲者の文字は、消えなかった。

だが、それ以上は増えなかった。

マティアスは、俺をじっと見ていた。

「その言葉、忘れるな」

「はい」

「骨だけで街を語るなら、私はいつでも、あなたの敵になる」

「わかりました」

「だが、骨格で橋の嘘を暴くなら」

彼は地図筒を強く握った。

「私の地図を貸す」

その声には、まだ怒りがあった。

だが、その怒りはもう俺ではなく、八本目の嘘へ向いていた。