軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

28.閑話:泥濘の夢 前編

水を求めただけだった。

温かな泥濘は日に日に密度を増していき、乾季の訪れをその魚に告げていた。

広々とした水の世界を自在に動き回り、生命を謳歌できるのは、雨の降るほんのわずかな期間だけ。そんな世界に適応したその魚は、水の 軛(くびき) だけでなく、その種としての限界すらも逸脱する存在となった。

あまりに長い時間を生きたからか。それとも、濁った泥濘に身を浸しすぎたからだろうか。

原因が何であったかなど、その魚にとっては何ら意味を持たないことだ。

仲間より強い体、強靭な生命力。

それらを得られたことはその魚にとっては僥倖で、酷い乾季が続いた年に多くの仲間が渇くがままに死んでいく中、ただ一匹だけ生き残ったその魚は、水を求めて深く、深く、大地を掘り進んでいった。

その魚にあったのは水を求める魚としての本能だ。

幸い腹には卵がある。水場に辿り着けたなら子孫は再び栄えるだろう。

やがてわずかばかりの湿り気も帯びなくなった泥土は、岩の硬さになった。それを突き破った先には圧縮された砂の層。岩を破った額は裂け、砂は容赦なく鱗を剥いだ。

それでも、魚は進むことを止めない。この地中の奥深くに確かに豊かな水の気配が感じられるのだ。そこに辿り着けたなら腹に抱えたたくさんの卵は孵り、命は繋がれるに違いない。

乾いた大地に埋もれて死ぬか、水源に辿り着いて死ぬか。

それは、魚にとって選択ですらなかっただろう。

硬く乾いた大地を掘り進む。鱗は禿げ、エラもヒレも千切れ、肉がかけ、骨が折れても、魚は止まることを知らない。

そうして命が尽きる前、辿り着いた場所は、水源と呼ぶにはあまりに恵み深い場所だった。

魚が水だと思っていたものはまるで命そのもので、それが脈々と流れる大地の奥深い場所で魚は自らが一段高い存在へと変貌していることを悟った。

この場所に至ったモノが、ただの魚であったなら、我欲なく周囲一帯を潤す調停者――地脈の主となっただろう。けれどその魚はすでに魔物と呼ばれる穢れた存在で、腹に抱えた卵のために全てを犠牲にできる存在だった。

魚は歓喜しただろう。

産んだ卵はたちまち孵化し、魚の進んできた穴を、上へ上へと遡上していく。

生まれた稚魚は乾いた大地でも死ぬことはなく、肺を得、手足を得、乾きに強い体へと進化していく。

魚は歓喜しただろう。

産んでも産んでも卵は減らず、魚の仔らは繁栄していく。

いつしか、魚の進んだ道は、稚魚の巣として広がりを見せ、自然に生えた植生は人間という餌を呼び込み始めた。

もうこの地には、降らない雨を待ちながら、乾いて死にゆく仔らはいないのだ。

けれど一体いつ頃だろう、あの忌まわしい赤い宝珠が持ち込まれたのは。

あの宝珠は魚が統べている地脈より、深い場所から来たものだ。

宝珠の力は魚のそれの根源で、それ故、魚は抗えない。

――眠れ、この世は夢うつつ。

宝珠の囁くような命令に、魚の意識は遠くなる。

それが 根源(グランド) の声ならば、魚は摂理と受け止めたろう。

けれど魚には分かるのだ。宝珠に穢れが混じっていると。

それは忌み喰らうべき人間の意識で、魚の望みも 根源(グランド) もねじまげて、人間どもの良いように書き換えるようなものだった。

――眠れ、この世は夢うつつ。

暗く淀んだ泥濘に、今日も魚は夢を見る。

己が意志を封じられ、稚魚を喰われる忌み夢を。

■□■

「御身より出でたる 緋色の宝珠(ロゴス・オブ・カーマイン) 、無事、アルアラージュ迷宮に納まりましてございます」

贄の一族の報告を、皇帝ヨハン=シュトラウス・レッケンバウエル15世は玉座にて無言で聞いていた。

儀礼的な報告だからではない。これは皇帝に向けての報告ではないからだ。

「ふうん、そう」

代わりにさして興味もなさそうに答えたのは、皇帝の側の床に腰かけた少年――、ゲニウス・ロキだ。贄の一族の報告者が「御身より出でたる」と述べたように、 緋色の宝珠(ロゴス・オブ・カーマイン) はロキよりもたらされたものなのだ。

「ねぇ、この茶番、一体いつまで続けるつもり? 僕の知らないところで用途を決められるっていうのに、こんなこと何の意味もないだろう」

「そう言うな、ロキよ。これは感謝を忘れぬための儀式なのだ」

つまらなそうな様子のロキを、皇帝ヨハンがたしなめる。

「感謝ねぇ。それすら形骸化してるように見えるけど」

もっとも、ロキの返事は辛辣だ。皇帝にこんな返しができるのは、帝国広しと言えどこのロキくらいのものだろう。

「それよりさ、今回も争奪戦があったよね。仕掛けたのはバハラート? それとも今回あぶれたトゥユール? その顛末が聞きたいな」

まるで物語をせがむ子供の様に、ワクワクした表情を浮かべて見せるロキに、ヨハンは「知っているのではないのか?」と問うてみる。

「知っていたら聞かないさ。僕の眼耳が届くのはこの帝都の内側だけ。しかもどこでもってわけじゃない。それこそ君たちのほうが知っているだろうに」

確かにロキの言う通り、彼のことは彼以上に理解している。この帝国が興った頃から研究し続けてきたのだ。もう、何も知らぬはずはない。

そうと分かっていても、疑念を払しょくしきることはできない。

このロキという少年は、見た目通りの存在ではないのだから。

とはいえ、帝国にとっては無二の重要人物だ。しかも 緋色の宝珠(ロゴス・オブ・カーマイン) の出所でもある。事の顛末を聞かせることはむしろ義務だと言っていい。

「バハラートだ。宝珠の奪取を命じられた冒険者パーティーは、しくじったばかりか仲間割れを起こして壊滅状態だそうだぞ。おかげで知っている情報を洗いざらい証言し、バハラート側から付けていた線と綺麗につながったと聞いている」

宝珠の奪取を命じられたパーティー――、イヤシスたち 夢幻の一撃(ファントム・ストライク) の信頼はすでにがたがたで、個別に部屋に閉じ込めて「アイツはこう言っていたぞ」とありがちなカマかけをするだけで、我も我もと情報を吐き出した。

イヤシスたちが接触したのは、バハラート迷宮の領主、ゼントン伯爵の遣いの者で、当然依頼主の名前は伏せられていたけれど、 緋色の宝珠(ロゴス・オブ・カーマイン) を取り上げられた領主が愚かな行為に走るのはよくあることだ。当然、領内に内通者を忍び込ませているから、そちら側からとの情報と合わせて、ゼントン伯爵を捕縛するのに十分な証拠をそろえることができた。

「しかし、アルアラージュ迷宮とは、たちの悪い迷宮だな。かような依頼を安易に受ける愚かなパーティーとはいえ、長く共に戦った者たちであったろうに。皆、己が身を助けんために仲間を売ることに躊躇が無かったと聞くぞ」

管理型迷宮はどこも歪な所が多いが、中でもアルアラージュ迷宮は性格が悪い。うんざりしたような皇帝の様子にロキはくすくすと楽しそうに笑う。

「仕方ないよ。折角迷宮の主になれたのに、 根源(グランド) の意思に従わされて、我が身のような迷宮を浅ましい人間どもに集られているんだ。それも、まがい物の意思にさ。これからも搾取され続けるアルアラージュに比べれば、バハラートは幸せかもしれないね」

ロキは玉座の前に跪き、頭を垂れたまま動かない贄の一族をちらと見た後、謁見の間を後にする。彼の進んだ方角は、バハラートのある方だ。

帝都が見渡せる高い宮殿の窓からでさえ、遠いバハラート迷宮は影も見えない。

けれど遠くの空に向かって、ロキは明るい声を上げた。

「そろそろ赤い石の残滓も完全に消えてなくなるころあいだ。今頃、歓喜の叫びをあげているだろうね。おはよう、哀れな魚。泥濘の夢から覚める時間だ!」

ロキには分かっていたのだろうか、それともただの偶然か。

いずれにせよ、彼が人間の守護者でないことは確かではないか。

彼が言葉を発した瞬間、遥か遠くバハラート迷宮のあるゼントン伯爵領の大地は鳴動を始めた。

■□■

「なぜだ! なぜ、バレた!?」

「なぜと申されましても……」

「!!? 貴様か!? 貴様が裏切ったのか!?」

赤ら顔をさらに真っ赤に紅潮させて、今日も今日とてゼントンが叫ぶ。

そんなに頭に血が上ったら、血管がプッツンして倒れるんじゃないかと心配してしまうほどだ。

いつもならうんざりするような叫び声も、もうすぐ聞き納めだと思えば聞き流せてしまえるものだなと、家令はわめき散らすゼントンの様子を面白くさえ感じながら眺めていた。

「まさか、旦那様」

気づいておられなかったのですか? と肝心な部分は心の中で返事する家令。彼は正直者なのだ。嘘を吐いたりなどしない。言葉足らずなだけである。

「 緋色の宝珠(ロゴス・オブ・カーマイン) は貴重な物ですからして。よほどの腕利きが運んだのでございましょう」

「そんなことは分かっておる! どうして 緋色の宝珠(ロゴス・オブ・カーマイン) 奪取の嫌疑がかけられているのかと聞いておるのだ!! ワシが依頼主であることは当然隠しておったのだろう!?」

嫌疑どころかガチガチに証拠を押さえられて、帝都の正規軍が向かってきているところだろう。今のゼントン伯爵にできることと言ったら、大人しくお縄につくことくらいではないか。

殊勝な態度で反省しバハラート迷宮の討伐をお願いすれば、少なくとも領民は助かるだろう。その代わり、討伐にかかった戦費としてゼントン伯爵がため込んだ財産は洗いざらい接収され、迷宮管理不行き届きで貴族の位すら剥奪されてしまうだろうが。

そんな提案をしたところで、ゼントンが従うはずもない。持てるだけの財を持って逃げでもしたら領民が不憫だ。どう誘導したものかと思案する家令に構わずゼントンがブチ切れ続ける。

「だいたい、どうして正規軍なんてものが出張って来るのだ! 戦争でもするつもりか!?」

そりゃアンタ、あれだけ迷宮を放っておいたのだ。そろそろ、 魔物の氾濫(スタンピード) の一つも起こるだろう。正規軍の派兵はその対応を兼ねてのことで、むしろ涙を流して歓迎すべきだ。

そこまで考えたところで家令は、これはゼントンに状況を理解させるまたとないチャンスではないかと思い至った。 魔物の氾濫(スタンピード) の恐ろしさはエンダルジア王国の滅亡譚で謳われる通り。さすがのゼントンも、状況を理解してくれるのではなかろうかと。

「それは、旦那様。まもなくバハラート迷宮で発生するであろう 魔物の氾濫(スタンピード) を警戒してのことでございましょう」

これでドヤ! 「なななんと、 魔物の氾濫(スタンピード) とな!?」とか言って正規軍にひれ伏す気持ちになっただろう。そう思った家令であったのだが……。

家令は善良で忍耐強く、ゼントン伯爵のような瞬間給湯器型拡声器に付けるにはうってつけの人材だったが、そう言ったある種の鈍感さが災いしてか、飛び切り優秀というわけではないのだ。だから、しばしばゼントンに対して読み違えを起こしたりする。

そして、ピューと湯気が出るほど頭に血の上ったゼントンが、まっとうな判断を下すはずはないのだ。

「バハラートで 魔物の氾濫(スタンピード) が起こる!? それは好都合ではないか! エンダルジア王国でさえ滅んだ 魔物の氾濫(スタンピード) を治めたとなれば、あの若き皇帝もワシに一目を置いて正規軍を引き下げるに違いあるまい!」

一体全体、どこをどのような経路で思考すればそのような結論に辿り着くのか。

思わずぽかんと開いた家令の口が塞がるより早く、ゼントンは驚きの瞬発力と持ち前の大声で、命令を下してしまった。

「兵を集めよ! 冒険者もだ! 金に糸目は付けぬ。帝都中から腕利きを集めるのだ。歴史に名を残したい者よ集え! 伝説に謳われる冒険が始まると告げよ! このゼントンがバハラートの 魔物の氾濫(スタンピード) を平らげるぞ!!!」

うまい具合にちょっとだけカッコイイ口上を述べ、自分に酔ったゼントンを止められる者はここにはいない。口が開いたまんまの家令など論外だ。

そうして、帝都中――は間に合わなかったので、周囲から適当な冒険者をかき集め、自領の兵士をそれこそ門番まで招集し、ゼントン伯爵は一大討伐隊を組んでしまったのだった。