軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

08

「──……」

意識を手放していたソフィアは、扉をノックする音に気づいて目を覚ました。

「奥様、お風呂の準備が整いました。お召し物は部屋にご用意させていただきます」

家令が知らせにやって来た。「若奥様」ではなく、どこかの「奥様」と呼ばれたことに、追い出された身であることを思い知らされる。これまでも親しみを込めて「若奥様」と呼ばれたことはなかったけれど。

ソフィアは「分かりました」と返し、膝元で眠るレオンを見下ろした。

うっかり寝てしまってから、一時間ほどだろうか。室内はもちろん、窓から差し込む日差しは変わってはいなかった。

ただ、仮眠をとったはずなのに頭痛がして、体がひどく疲れていた。夢見が悪かったのかもしれない。

ソフィアは痛む額を押さえ、ため息をついた。

過去は過去で、忘れようと必死で生きていきたのに、無理やり立ちたくもない舞台に引っ張り上げられた気分だ。

けれど、昔とは違って今の自分には身を犠牲にしても、守らなければいけない存在がいる。

「レオン、起きて。お風呂に入って、体をきれいに洗いましょう」

ソフィアはレオンを軽く揺すって起こした。レオンは小さく唸るも、起き上がって抱き着いてきた。

「お風呂が終わったら、美味しいご飯が待っているわよ」

「……ハリーのごはん?」

「ハリーのでは……」

レオンにとって一番慣れ親しんだご飯は、ハリーの手料理だ。

「お家に帰ったら、またハリーに作ってもらいましょう」

果たして、今までのように作ってもらえるかどうか。最後に見たハリーの表情を思い出して、ソフィアは目を閉じた。

やはり一刻も早く帰って、彼らに伝えたい。

信じてもらえるか分からないけれど、家族以上に家族だった女将とハリーにだけは、「ソフィ」ではなく「ソフィア」の身に起きた出来事を話しておきたかった。

そのためには、もう一度セルジュと向き合う必要がある。

ソフィアはレオンを抱えたまま、バスルームに続く部屋に入った。

浴槽にお湯が張っているせいか、入った瞬間から湯気が立ち込めていた。

すると、レオンが「わあ、けむり!」と声を上げ、ソフィアの腕からするりと落ちて、白い煙の出ている浴槽へ駆け出した。

「レオン、待ちなさい!」

なぜか嫌な予感がした。あまりに湯気が出すぎていたのだ。

ソフィアは慌てて追いかけ、浴槽の中へ手を入れるレオンの手を掴んだ。

「熱……っ」

間一髪のところでレオンの手を守ったが、代わりにソフィアが浴槽のお湯に触れてしまった。

お湯は、人が触れるには熱すぎた。ソフィアはレオンを浴槽から遠ざけ、ズキリと痛む手を押さえた。

「ママ……?」

「何でもないわ、お湯がちょっと熱かったみたい」

ソフィアは精一杯の笑顔を浮かべて答えた。見知らぬ場所に連れて来られて、不安になっているはずだ。せめて一緒にいる時だけでも、安心させてあげたかった。

「お湯が冷めるまで待ちましょうか。それまでママが楽しいお話をしてあげるわ」

「やったーっ!」

もし気づかなければ、息子は大きな火傷を負っていたかもしれない。

自分の時は熱いお湯ではなく、冷たい水だった。雪の降る寒い時期で、泣き出したくなるのを堪えて水で体を拭いた。その翌日に風邪をひき、二日ほど寝込んだ記憶がある。

けれど、今は悲しみではなく激しい怒りが込み上がった。自分なら我慢できても、息子は違う。レオンには何の罪もない。ソフィアの話す物語を夢中で聞き入っている、ごく普通の子供だ。

宿屋では逃げようがなかったとはいえ、やはり来るべきではなかったと後悔した。

浴槽のお湯が十分に冷めたのを確認してから、ソフィアはレオンとお風呂に浸かった。宿屋では中庭に木風呂があり、ソフィアたちも使わせてもらっていた。

ただ、宿屋で使う石鹸とは違い、分かっていたつもりでも、貴族の使う石鹸やタオルは比べものにならなかった。

「ママ、いいにおい~。タオルもふかふか~」

「まぁ、レオンったら。まだ髪が濡れているわよ、こちらにいらっしゃい」

体の芯まで温まったおかげで、頭がすっきりしてきた。ソフィアはタオルにくるまって駆け回る息子を捕まえ、そのまま部屋に連れて行った。

部屋に戻ると、二人の着る洋服が用意されていた。

タオルでしっかり水気を取った後、ひとまずレオンの洋服を広げた。息子が着るには少し大きいが、上質な生地で作られた下着とブラウスとズボンが準備されていた。他にも問題がないか念入りに確かめて、素早く着替えさせる。

普段とは違う上品な洋服を着せただけなのに、紫色の髪に、整った顔立ちをしたレオンは、どこから見ても貴族の子供だった。

「似合うわよ、レオン……」

「ほんと? でも、くびがくるちい」

「着ている内に慣れるわ」

よれよれの服とは違い、皺のないブラウスにレオンは不服そうだった。けれど、自分では用意してあげられない代物だ。

申し訳なさと悔しさが押し寄せてくる。

ソフィアはレオンの頭を撫で、気を取り直すように、今度は自分の洋服を手に取った。

だが、上品な深緑のドレスを持ち上げた瞬間、息が詰まりそうなほど強烈な香水の匂いが鼻を突いた。

「ママ、それくちゃい!」

「レオンは離れていなさい!」

──毒ではない。しかし、女性の使う香水が、ドレスの胸元いっぱいに吹きかけられているようだ。ソフィアはドレスを丸めて、ベッドの下に放り込んだ。

「ママは手を洗ってくるわ。レオン、一人で窓を開けてはダメよ」

「わかった!」

お洒落な洋服を着させてもらったせいか、急に聞き分けが良くなっている。この年齢は、目を離すと何をしでかすか分からないと、女将から気をつけるように言われていた。

それでも背筋を伸ばして待つ息子に、自然と笑みがこぼれる。

ソフィアはバスルームに戻って香水のついた手を洗い流し、元々着てきた洋服に袖を通した。一日着ていた服だが、強烈な香りがするドレスより良いだろう。

一体誰があんなことを──と、考えるまでもない。

侯爵家に戻ってきた時、真っ先に確認した人物がいる。古くから侯爵家に仕えているメイド長だ。彼女は変わらずメイド長として、ソフィアを出迎えてくれた。本心では、二度と会いたくなかったはずだ。

ただひとつ気がかりだったのは、高額取引されるシルフィウムを、メイド長が独断で手に入れていたとは思えなかった。必ず、黒幕がいる。侯爵家の使用人を駒として扱える人間が。

しかし、あれこれ考えたところで、落ちるところまで落ちてしまった女が、たった一人で何ができるというのか。

今やるべきことは、これ以上奪われないことだ。

「ママ、おなかへったー」

部屋に戻ると、やはり一か所に留まっていることができなかったレオンは、窓際の椅子とテーブルに用意されていた食事を眺めていた。

見たこともない料理に手をつけなかったのは幸いだった。食事もしっかり確認しなければいけない。

ソフィアは臭いがこもる部屋の窓を開き、中の空気を入れ替えた。それから、お腹を空かせたレオンを抱えて、食事が並ぶ椅子に腰を下ろした。

「まずママが味を見てからね」

そう言って、冷めてしまった料理に手をつける。どんな違和感も見逃してはいけない。レオンを守れるのは自分だけだ。

しかし、食事はソフィアの心配とは裏腹に問題はなく、レオンは美味しそうに食べてくれた。そんな息子は、お腹がいっぱいになると部屋の中を探索し始めた。

ぽつりと残ったソフィアは目の前の食事に手をつけようとするが、食欲がわいてこなかった。

ため息をついて、手にしていたフォークをテーブルに置くと、部屋の扉がまたノックされた。返事をすると「私だ」と、セルジュの声がした。

ソフィアは椅子から立ち上がり、レオンの位置を確認してから扉の前に立った。

「お話でしたら、レオンが眠ってからに……」

扉を開くと、セルジュが書類を持って立っていた。彼はソフィアの恰好を見るや否や、あからさまに顔をしかめた。

「着替えの服は用意したと報告を受けたが」

「貴方にはみすぼらしく見えても、私はこちらのほうが落ち着きますから」

「私から同情を得るつもりならやめておけ」

そんなつもりはない。

でも、真実を話したところで信じてはもらえない。どんなに「違う」と泣き叫んでも聞き入れてもらえなかった、あの日を忘れることができないから。

「……まぁ、いい。それより、父上が君に残した遺産の書類を持ってきた。話す前に目を通しておいてくれ。子供が眠ったら、私の執務室へ来るように」

「畏まりました」

一方的に複数枚の羊皮紙を押し付けられ、夫婦になったばかりの彼はこうではなかったと虚しくなる。

それらの感情を押し殺して、侯爵家の印章が押された書類に視線を落とすと、セルジュの気配を近くで感じた。

「まだ髪が濡れているじゃないか。よく乾かさないと、風邪を──」

「イヤ、触らないでっ!」

セルジュが指摘するように、ソフィアの濡れた髪に触れてきた瞬間、反射的に彼の手を払いのけていた。

明らかな拒絶反応。反射的に後ろへ下がって距離を取ると、セルジュは驚きのあまり目を見開いていた。

「ごめんなさい、手を……」

「私が迂闊だった。君はもう私の妻ではないのに、余計な心配をしてしまったようだ」

セルジュは顔を歪め、叩かれた手を振って「また後で」とだけ言い残し、部屋から離れていった。

遠ざかっていく背中を見つめながら、追いかけるべきか悩んだが、ソフィアは濡れた自分の髪を掴むことで思い留まった。

そう、自分たちは終わった関係だ。

もう夫婦ではない──渇き切ってしまった心が、再び揺れ動くことはない。

しかし、この出来事がソフィアからの「答え」だと受け取られ、彼の中で用意していた選択肢の一つを決断させてしまうことになろうとは思いもしなかった……。