軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

一年前の貴族院 その1

「ハンネローレ、よく聞きなさい。貴女がそちらにいられるのは、ローゼマインが糸を繋ぎ直すまでの間です。それから、ヴェントゥヒーテの邪魔になる行為を禁じます」

ゆっくりと落ちていく感覚の中、時の女神 ドレッファングーアの声で少々早口の注意事項が響きました。縁結びの女神 リーベスクヒルフェが何の前触れもなく突然わたくしを突き飛ばしたので、必要なことを言えなかったせいでしょう。

「貴女が未来の情報を開示することは厳禁です。また、周囲に貴女の存在が不審に思われた時は危険と見なし、即座に回収して貴女の関わった部分の記憶を消します」

神々にとって重要なことは機織りの女神 ヴェントゥヒーテの織った歴史が崩れないように修復することなので、今までの歴史を変えることは厳禁ということでしょう。わたくしはローゼマイン様や神々の邪魔をするつもりはございません。「一年前ならば」とおっしゃったヴィルフリート様のお言葉を信じて、自分の想いを伝えたいだけです。

「かしこまりました。最初からわたくしは歴史を大きく変えるつもりなどありません。ヴィルフリート様に想いを伝えたいだけです」

「ヴィルフ……」

ドレッファングーア様の声が遠ざかっていき、わたくしはストンとどこかに収まりました。

わたくしが目覚めたのは、寮の自室でした。このようなことを考えては失礼なのでしょうけれど、神々の時間の感覚は少しわたくし達と違うようです。本当に一年前なのでしょうか。むくりと起き上がり、自分の着ている寝間着を確認します。

……去年の貴族院のために誂えた寝間着で間違いなさそうですね。

ダンケルフェルガーの領地と貴族院では気候が大きく違うので、毎年必ず寝間着を誂えます。ですから、一年前の貴族院であることは間違いありません。ただ、今は一年前のいつ頃なのでしょうか。すでにローゼマイン様は長い不在に入っているのでしょうか。そんなことを考えながら、わたくしは着替えて訓練の準備をします。

「おや、ハンネローレ様も訓練に参加されるのですか?」

わたくしはいつも通りの訓練のつもりでしたが、騎士見習いから妙に棘のある視線と含みのある言葉を受けました。周囲の空気が尖っていて厳しく、わたくしの側近達はわたくしを守るように側近くにいます。朝の訓練を始めながら思わず眉をひそめ、思い出しました。

……あぁ、一年前とはこの時期でしたね……。

四年生の貴族院は、嫁盗りディッターでダンケルフェルガーを敗北させ、尚且つ、下位のエーレンフェストから不要と言われた領主候補生としてわたくしが扱われていた時期です。本物のディッターで恥を雪ぐ前のことなので、騎士見習い達やお兄様の側近達の態度が刺々しく、わたくしが最もダンケルフェルガーを出たいと考えていたことをありありと思い出しました。

観客席にいた者達に声をかけて魔力の盾で自領の者達を守ったローゼマイン様と、我が身一つ守らずに恋情に駆られて陣を出たわたくしは非常に比べられたものです。ダンケルフェルガーにおけるローゼマイン様の評判が上がれば上がるほど、わたくしは不出来な領主候補生だと言われました。

嫁盗りディッターに敗北したとしても、ヴィルフリート様との婚約を整えていれば何も言われなかったでしょう。己の恋を手にするためにお兄様を踏み台にしたところで、それは己の勝利のための策略の一つと言い切ればダンケルフェルガーにおいては問題なかったのです。

けれど、わたくしはエーレンフェストに迷惑をかけられないと考えて自分から手を引きました。領地に敗北を与えた上に、己が得るはずのものさえ手放したことで、ダンケルフェルガーの領主候補生には相応しくないと言われるようになりました。

そして、この四年生はお兄様が卒業し、ただ一人の領主候補生として寮の管理をしなければなりませんでした。それまでお兄様が行っていた仕事をわたくしが行うのですが、わからないことだらけです。わたくしが戸惑っていると、やはり領主候補生として失格では? という目で見られます。嫁盗りディッターの一件さえなければ、お兄様の側近達が手助けしてくれたでしょう。けれど、隔意のある状況ではどのように対処すれば良いのか尋ねることも難しいものでした。

わたくしにとってこの一年前のダンケルフェルガーの寮内は非常に居心地が悪く、何日もいたい場所ではありません。訓練を終えて周囲を見回したわたくしは、決意しました。

……短期決戦です。できるだけ早くヴィルフリート様に想いを告げて、元の時代に戻りましょう。

そう決意したところでハッとしました。こちらの世界にいられる期限はローゼマイン様が糸を繋ぎ終わるまでと言われていますが、早く用件が終わった時にはどうすれば良いのか教えられていません。

「ドレッファングーア様……」

わたくしはお守りに手を当てて呼びかけてみましたが、全く反応はありません。もしかすると、ローゼマイン様が終わるまでは、想いを告げ終わってもわたくしはここから離れられないのでしょうか。

「姫様、お祈りより先に着替えて朝食を済ませてくださいませ」

コルドゥラに声をかけられ、わたくしは水浴びと着替えを済ませて側近達と食堂へ向かいました。少し離れた席に座っている婚約者候補達の様子を窺います。一年前はまだ婚約者候補ではありませんでしたけれど。

ラオフェレーグはまだ入学していないのでいません。彼は友人や側近と食事中もよく騒いでいるので、姿がないと何だかとても静かで落ち着く気がしました。食堂へ入ると挨拶に来ていたラザンタルクはこちらを見ることなく食事を進めています。ケントリプスは誰が入ってきたのか確認するように少しこちらを見ただけで、すぐに視線を元に戻しました。

立場が変わると一気に距離感が変わることは知っていましたが、何だかずいぶんと距離が遠くてよそよそしい感じがします。わたくしが知っている最近の二人とは違っていて不思議な気分です。ただ、距離があるのにケントリプスと時折目が合うのは何故でしょうか。

「ケントリプス、何か……?」

食後にわたくしが声をかけると、ケントリプスが不意を突かれたような顔になった後、近付いてきました。

「中級貴族の奉納式のことです」

ケントリプスにそう言われると、すぐに参加希望者が決まったことがわかりました。貴族院の奉納式は希望者のみです。お祈りをした方が御加護を得やすいので、できるだけ多くの者が参加する方が良いことは間違いありません。けれど、低学年の中級貴族や下級貴族にとっては魔力の奉納が負担で、講義に差し支える可能性もあります。

ダンケルフェルガーでは領主候補生と上級貴族は強制参加ですが、中級と下級貴族は希望者を募る形になりました。ケントリプスは最初から参加希望者の一覧表を作成してくれています。

「参加希望者が決まったならば一覧表を見せてくれますか?」

わたくしはそう言ってニコリと微笑みましたが、ケントリプスは一覧表を出してくれるわけではなく、怪訝そうな顔になりました。

「……レスティラウト様からお話がございましたか?」

「え?」

「いえ、ルイポルトに尋ねることなく、私に資料を求められたので……」

そういえば、去年も今年も資料を準備してくれていたのがケントリプスなので当たり前のように求めましたが、そうです。最初はルイポルトに確認をとっていました。そして、ルイポルトの準備ができていなくて、ケントリプスに二人まとめて叱られたのです。ルイポルトは領主候補生の側近としての心構えができていない、わたくしは側近に的確な指示を出していない、と。

……わたくし、そのような細かいことまで覚えていません!

「え、えぇ。そうです。お兄様が……。助かりました。ありがとう存じます」

このままではあっという間に周囲から不審がられるのではないでしょうか。わたくしは内心の焦りを誤魔化すように微笑んでケントリプスから資料を受け取りました。当然ですが、資料の内容は一年前と同じです。

「ルイポルト、これを書き写してクラッセンブルクとエーレンフェストに一部ずつ提出しておいてくださいませ」

「かしこまりました」

不自然ではなく、対応ができたでしょうか。内心ビクビクしながら、わたくしはケントリプスの様子を窺います。ケントリプスは少しの間だけ不思議そうに灰色の目でわたくしを見ていましたが、踵を返して去って行きました。何とか誤魔化せたようです。

自室に戻ると体の強張りが解れていきました。わたくしは安堵の息を吐きます。いきなり中身が違うことが露見してしまうのではないかと、とても怖い思いをしましたけれど、大きな収穫もありました。中級貴族の一覧表を提出する頃合なのですから、領主候補生と上級貴族向けの奉納式が終わって数日というところでしょう。

「コルドゥラ、できるだけクラッセンブルクに先んじてエーレンフェストから奉納式の詳細を得るように、とお父様がおっしゃったでしょう? わたくし、お茶会を開こうと思うのですけれど……」

「ローゼマイン様が回復されてからでよろしいでしょう。ローゼマイン様が臥せていらっしゃる今、奉納式以外でエーレンフェストに近付く必要はございません」

講義の準備を整えるコルドゥラが冷たい瞳できっぱりと却下しました。けれど、簡単には引き下がれません。わたくしにはヴィルフリート様とお話をする時間が必要なのです。

「奉納式についての情報はローゼマイン様以外からでも得られますし、なるべく早くとお父様が……」

「領主会議で姫様と同じように王族からお招きを受けていたローゼマイン様は王族からも重要人物として遇されています。不遇の状況に陥っている今の姫様にとっては必要な友人でございます」

ローゼマイン様が声をかけてくださったことで、わたくしは領主会議で王族のお手伝いをしました。王族からの評価を得て、お兄様達や騎士見習い達を除いたダンケルフェルガーの上層部では、嫁盗りディッターでの失態から少しわたくしの評価が上書きされたのです。コルドゥラはローゼマイン様に非常に感謝しています。

「コルドゥラの言う通りですよ、ハンネローレ様。ローゼマイン様は構いませんけれど、嫁盗りディッターで条件を出しておきながら断ったヴィルフリート様は別です。あの方のせいで姫様は無用の傷を負い、肩身の狭い思いをしながら生活することになったではありませんか」

講義に向かう準備を整えたアンドレアとハイルリーゼが頷き合います。

「あれほどひどいことをしておきながら、何事もなかったかのように接してくるなんて、わたくしには信じられません。エントリンドゥーゲに叱られたフェアベルッケンでももう少し気を遣うでしょう」

隠蔽の神 フェアベルッケンがそれぞれに隠しながら数多の女性と恋をするのですが、それを出産の女神 エントリンドゥーゲに咎められます。それでもフェアベルッケンは行いを改めませんでした。そんなお話から厚顔無恥を表す時にフェアベルッケンはよく使われます。

「わたくし、姫様はあのような殿方には勿体ないと思っています。これ以上余計な噂をされないように極力近付かないでくださいませ」

「コルドゥラ……」

……本物のディッターに参加したことで周囲の態度が軟化したことはわかっていましたが、これほどの差があったのですね。

ヴィルフリート様に対するわたくしの側近達の怒りは凄まじいものです。わたくしを大切に思ってくれているからこそ皆が怒っていることはわかります。

……でも、どうしましょう?

これではとてもヴィルフリートに告白したいなんて相談できるわけがありません。「だったら、どうして領地対抗戦で手を引いたのか」とお説教されることは目に見えています。今ならば領地対抗戦で手を引かずに別の手立てを考えたでしょう。

けれど、あの時点ではそのようなことを考えられませんでした。異母妹のルングターゼがエーレンフェストへ嫁ぐという話が耳に入らなければ、わたくしはヴィルフリート様への想いさえはっきりと自覚することはなかったでしょうから。

そこではたと思い当たりました。一年前ではなく、二年前の領地対抗戦や嫁盗りディッターの頃に戻してもらった方がよほど簡単だったのではないでしょうか。少し考えて、わたくしは首を横に振りました。

あの頃、ヴィルフリート様はローゼマイン様と婚約中でした。わたくしが想いを告げたところで、王族からの正式なお知らせがあるまで婚約者の振りを続けるほど律儀なヴィルフリート様のことですもの。きっと受け入れてくださらなかったでしょうし、婚約者のいる方に想いを告げるような愚かなことはできません。

「姫様、講義に出発するお時間です」

……どうしたらいいかしら?

階段を降りて玄関へ向かうと、講義へ向かう者達が集まっているのが見えました。わたくしは相談相手を探して視線を巡らせます。ケントリプスと目が合って、「あ」と思った瞬間、ふいっと逸らされてしまいました。

別に目を逸らされたとしても、今は婚約者候補でも何でもないのです。ケントリプスに何だか無視されたように感じられる方がおかしいでしょう。嫁盗りディッター以後のお兄様の側近達がどのようにわたくしと接していたのか思い出せば、わたくしと話をしたり、相談に乗ってくれたりするなどあり得ません。それなのに、何故こんなふうに傷ついたような気分になるのでしょうか。

……わたくし、自分で思っていたよりずっとケントリプスに頼っていたのですね。

側近には囲まれているものの、周囲は刺々しい雰囲気です。一人で歩くのも何だか心許なく思えます。ラザンタルクとケントリプスの二人にエスコートされながら講義へ向かうことに慣れてしまっている自分を発見して、わたくしは何とも複雑な気分になりました。

……ケントリプスの協力もなく、本当に上手くいくかしら?

前回と違って協力してくれる者もいないまま、独力でヴィルフリート様と接触して想いを伝えなければなりません。コルドゥラ達がローゼマイン様以外でエーレンフェストに近付くことを拒んでいる今、オルトヴィーン様を真似て講義の時間を利用する以外にヴィルフリート様に近付くことはできなそうです。

……確かローゼマイン様は長期に渡って臥せっているため、途中で帰還していたはず……でしたよね。

実際は神々に招かれていたようですが、一年前のわたくしはエーレンフェストの知らせを信じていました。コルドゥラ達もローゼマイン様が帰還すると、シャルロッテ様とのお茶会を許してくれるようになりました。

けれど、今のわたくしには悠長にそれを待つことができません。ローゼマイン様がどのくらいの時間で糸を繋ぐのかわからないのです。

……講義の途中は迷惑ですから、終わった後に教室に少し残っていただくのが一番自然でしょうか?

誰にも相談できずに一人で悩んだまま、わたくしは教室へ入っていきました。

「おはようございます、ハンネローレ様」

「オルトヴィーン様、ヴィルフリート様、おはようございます」

教室へ入った途端に二人から声をかけられて、わたくしは少し驚きました。挨拶をした後、オルトヴィーン様を見つめます。わたくしへの想いを告げてくださいましたが、全くそのような感情は見当たりません。彼が領主候補生として優秀だということでしょう。

「つい先程までヴィルフリートにローゼマイン様のお加減について尋ねていたのです。まだしばらく臥せっているそうですよ」

「うむ。……その、ローゼマインは領地へ帰還できるように根を詰めて講義を取っているのだが、貴重な休日である土の日に奉納式だったからな。疲れが溜まっていたのだろう。しばらくは寝込むのではないか、と側仕え達が言っていた」

オルトヴィーン様の言葉にヴィルフリート様が困ったように微笑みました。一年前に伺った時は、その少しそわそわとした部分を隠せていない笑顔がローゼマイン様を心配している表情に見えました。でも、真実を知っている今はもっと余裕を持って観察できます。

……ヴィルフリート様が本当に心配されている時の顔と少し違うのですけれど……。

どこがどう違うのか、はっきりと言えるほどではありません。けれど、心配とは違う感じに見えます。周囲に嘘をつくのが心苦しいと思っているのかもしれません。オルトヴィーン様と違って些細な違いがわかるなんて、我ながらヴィルフリート様のことはよく見ているようです。

「あの、ヴィルフリート様」

「何でしょう、ハンネローレ様?」

ニコリと微笑んだ深緑の瞳にはわたくしに対する恋情など見当たりません。嫁盗りディッターのことも完全に終わったことになっているのでしょう。後ろめたさも困惑もありません。

ダンケルフェルガーでわたくしがどのような扱いになっているかもご存じないと思います。エーレンフェストに余計な気を遣わせないために知らせないようにしているのですから、ヴィルフリート様やローゼマイン様の表情に暗さがないことを誇りに思います。

その無邪気な表情のままでいてほしい気持ちもありますが、わたくしの告白を聞いたヴィルフリート様が信じられないというように目を丸くするところを再び見たいと気持ちの方が今は大きいです。

「大事なお話があるのです。講義の後、少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか?」

「……講義の後、ですか?」

「えぇ。お時間は取らせません。本当に少しの時間で構わないのです」

何があるのか見当も付かないというような顔で「それは、もちろん構いませんが……」と言いながらヴィルフリート様が頷きます。了承してくださったことが嬉しくて、わたくしはニコリと微笑んで自席へ向かいました。

「皆様、講義を始めましょう」

エグランティーヌ先生の声がかかりました。一年後にはローゼマイン様からグルトリスハイトを授けられてツェントになるなど、誰が信じるでしょうか。未来のツェントから講義を受けられるという非常に贅沢な時間だったのです。

エグランティーヌ先生の指示に従い、それぞれが自分の箱庭を整備していきます。ローゼマイン様は一週目の講義であっという間に染めて、魔石を金色の魔力粉にし、魔法陣を描いていました。けれど、異常な速度です。他の誰も同じことはできないでしょう。進度の遅い方はまだ箱庭を魔力で満たし終えていません。

わたくしは魔石に魔力を込めて金色の魔力粉を作りつつ、魔法陣を描いている最中です。魔力粉を作ると、一気に魔力使ってぐったりします。そのため、魔力の回復薬を飲んで回復するための時間が必要になります。

そして、魔力が回復するまでの間、時間を有効利用するために少しずつ魔法陣を描いていきます。こちらも領主だけが使用する創造の魔術です。ローゼマイン様は一気に描きましたが、多くの記号が使われた複雑な魔法陣を一気に描き上げる魔力と集中力は普通の領主候補生にありません。

……ローゼマイン様とは比べものになりませんけれど、これでもわたくしは速い方なのですよ。

姿のない隣の席を見ながら、わたくしはそっと息を吐きました。今頃ローゼマイン様はどうされているでしょうか。無事に糸を繋いでいるでしょうか。神々から直接依頼されるローゼマイン様はやはり特別なのでしょう。

……講義と同じようにあっという間に糸を繋いでしまうかもしれませんね。

わたくしがここにいられる時間はローゼマイン様次第です。できるだけ早く想いを告げなければ、と考えながら魔法陣を描きます。

……今日、講義が終わったら……。

スティロを握る手に力が籠もって、少し線がぶれました。緊張しすぎているようです。

わたくしが想いを告げたら、ヴィルフリート様はきっとまた信じられないというように目を丸くするでしょう。その後で少し恥ずかしそうに深緑の目が言葉を探すようにさまように違いありません。

「ハンネローレ様のお気持ちはありがたいです」「本当に嬉しく思います」「ハンネローレ様のような方が婚約者であればどれほどよかったか、と思ったことは何度もあります」

ヴィルフリート様はそう言った後、今度はきっと「まだアウブから与えられた一年の猶予に時間があります。私はこれから死に物狂いで次期アウブを望みます」と言ってくれるでしょう。

そんなことを想像していたら、また魔法陣の記号を間違えました。わたくしはいくつか失敗した魔法陣を見下ろして溜息を吐きます。今日は自分の心が魔法陣を描くのに向いていません。

……魔法陣は諦めて、魔力粉を作りましょう。

スティロで描いた魔力のインクを落とせる液に失敗した紙を浸します。黒いインクがすぅっと液に溶け出し、後に残ったのは真っ白の紙だけになりました。