軽量なろうリーダー

平手打ちされたので、婚約破棄宣言に拳でお答えしました

作者: Megumi

本文

——乾いた音が、広間に響いた。

パァン。

それは、あまりにも軽い音だった。

それなのに、なぜか世界が止まった。

次の瞬間、イヴ・エヴァンスは、自分の頬がじん、と熱を帯びるのを感じた。

叩かれた。

そう理解するまでに、ほんの一秒もかからなかった。

「……は?」

イヴは、自分でも驚くほど、低くて冷えた声が出た。

たった今、彼女を平手打ちしたのは——

つい先ほどまで、婚約者だった男。

リチャード・アースキン。

王家の血を引く名門公爵家の嫡男で、幼い頃から「将来有望」と持ち上げられてきた男だ。

「……調子に乗るなよ、イヴ」

リチャードは、わずかに痺れの残る手を下ろしながら言った。

それはまるで、言うことを聞かない犬を叱るような口調だった。

◇◇◇

——産声を上げた、その瞬間。

彼女は理解した。

(あ、これ転生だわ)

前世は日本のブラック企業勤め。努力は報われず、声を上げれば「協調性がない」と切り捨てられ、最後は過労死。

(努力は報われない。この世はクソ)

そう思いながら死んだ記憶が、鮮明に残っている。

彼女の今世での名前は、イヴ・エヴァンズ。

エヴァンズ伯爵家の長女として生まれ、両親と兄に溢れんばかりの愛情を注がれ、何不自由なく育った。

微笑みを浮かべれば「宝物だ」と言われ、転べば誰かがすかさず手を差し伸べる。

前世で底辺まで落ち込んでいた彼女の自己肯定感は、あっという間に最高値を更新した。

そんなイヴが、リチャード・アースキンの婚約者になったのは、まだ十歳にも満たない頃だった。

幼い頃の彼は、優しかった。

不器用だけど誠実で、顔を真っ赤にしながら花束をくれるような少年だった。

だから、イヴは、この婚約を当然のものとして受け入れることができたのだ。

変化が訪れたのは、二人が成長してからだった。

良くも悪くも素直なリチャードは、周囲の価値観をそのまま吸収していったのだ。

男が主で、女が従。

女は慎ましく、口答えは慎むべき。

それが「普通」だと、疑わなくなっていった。

一方で、イヴは変わらなかった。

意見を持ち、考えを言い、納得できないことには首を縦に振らない。

それは反抗ではなく、彼女にとって自然な態度だった。

「どうして、私の考えは聞いてもらえないの?」

そう問うたとき、リチャードは苛立った顔をした。

彼にとってそれは、“生意気な口答え”だったからだ。

そして、もう一つの溝。

リチャードはイヴとの距離を縮めたがった。

彼女に触れ、抱き寄せ、お互いの存在を確かめたがったのだ。

だがイヴは、首を振った。

「婚前交渉は良くないわ」

彼女にとって、それは「結婚してからにしましょう」という程度の言葉だった。

けれどリチャードは、それを「否定」だと受け取った。

男としての価値を、自分の存在を、否定されたのだと。

その隙間に、メルヴィナが入り込んだ。

豊かな胸元を強調し、甘い声で囁く。

同情し、理解を示し、欲望を肯定する。

「男の人には、そういう気持ちもありますよね」

リチャードは、その誘惑に抗えなかった。

◇◇◇

王立学園、卒業記念舞踏会。

壇上にメルヴィナと共に立ったリチャードは、イヴを見下ろして言った。

「君との婚約を破棄する」

理由は語られるまでもない。

貞淑を盾に男を拒んだ女は不要だということだ。

イヴの答えは、簡潔だった。

「承知しました」

それだけだった。

泣きもせず、縋りもしない。

婚約者の裏切りに悲しみがないと言えば嘘になるが、冷静さは保ったまま。

——それが、リチャードには耐え難かった。

思っていた反応と、違う。

本当は——

青ざめてほしかった。

取り乱してほしかった。

「私が悪かったわ」と、縋ってほしかった。

そうすれば、自分は「仕方がない」と言って許してやれたのに。

「……なんだよ、その顔」

リチャードは、笑おうとした。

だが、口角が引きつる。

「まるで、最初から俺なんて必要なかったみたいじゃないか」

リチャードはそう言いながら、少しずつ距離を詰めていった。

「俺はさ、情けをかけてやったんだ。お前みたいな堅物を、ちゃんと妻にしてやろうって——」

言葉が、途中で詰まる。

イヴは、ただ見ていた。

怒りも、悲しみも、期待もない目で。

その視線が、決定的だった。

——自分が、もう“過去”に分類されたと悟った瞬間。

「……っ」

リチャードの呼吸が乱れる。

「全部分かった顔しやがって! 俺を見下してるんだろ!」

伸びた手。

考える前に、感情が先に出た。

「その目が、気に入らないんだよっ!」

乾いた音が響く。

イヴの頬が、横に弾かれた。

頬に走る衝撃。

「……は?」

——平手打ちされた。

リチャードが何か言っていたが、考えるより先に、イヴの体が動いた。

拳を握る。

踏み込む。

渾身の一撃。

ゴッ、という鈍い音を立てて、拳がリチャードの腹部にめり込む。

骨が砕けるほどの威力などない。

けれどもそれは、腰の入った迷いのない一撃だった。

「……っ、ぐ……!」

息が一気に押し出されたリチャードは、情けない空気音を口からこぼすと、床に崩れ落ちた。

——静寂。

あまりにも衝撃的なその光景に、誰も声を出せなかった。

楽団の演奏はすでに止まり、揺れていたシャンデリアの光でさえ、凍りついてしまったように感じられる。

イヴは無様に崩れ落ちたリチャードを見下ろすと、小さくため息をついた。

(やりすぎたかしら?)

別に彼女はリチャードに対して激しい怒りも、復讐心も抱いていなかった。

ただ、反射的に自分を守っただけ。

現代の感覚で言うなら、ただの“正当防衛”だ。

「家族の宝物として育てられた私が。理不尽に殴られて、黙っていると思いました?」

静まり返る広間で、イヴの声はよく通った。

イヴは返事をするどころか、顔を上げることすらできずにいるリチャードに、静かに告げた。

「あなたが欲しかったのは、妻じゃない。従順な性処理相手でしょう」

その率直な言葉に、ざわ、と空気が揺れた。

メルヴィナが、きつく唇を噛む。

「イヴ様、それは言い過ぎですわ。リチャード様は、愛を求めていただけ。私は女としての務めを——」

メルヴィナは胸を張り、涙を浮かべ、か弱く振る舞う。

これまでずっと、そうしてきたように。

そんなメルヴィナに、イヴは冷めた眼差しを向けた。

「あなたは、自分の体を武器にして上に行く選択をした。その選択自体は尊重するわ」

メルヴィナの肩が、ぴくりと震える。

「でも、それを“女の務め”で正当化しないで。私は、そんなものを押し付けられる筋合いはない」

そして、イヴはリチャードを再び見下ろした。

「——二度と、私の視界に入らないで頂戴」

そう吐き捨てると、イヴは背筋を伸ばし、ゆっくりと視線を上げた。

会場中の人々と、目が合う。

そこにはさまざまな感情が映っていたが、誰も、イヴを咎める言葉を持っていなかった。

怒号も、非難も、悲鳴もない。

あるのは戸惑いと——理解。

そして。

——ぱち。

どこかで、小さな音がした。

控えめで、遠慮がちで、しかし確かな意志を持った拍手の音。

それが合図だったかのように、広間のあちこちで、同じ音が重なっていく。

それは、声を上げることを許されなかった者たちの、精一杯の賛同の声だった。

音は大きくならない。

決して喝采にはならない。

それでも、確実に増えていくそれは、まるで、「あなたは間違っていない」と言っているように聞こえた。

◇◇◇

翌日から、学園は騒然となった。

拳で反撃した令嬢。

はしたない、下品だという声も当然あった。

けれど。

思ったより、冷たい視線は少なかった。

「……正直、すっきりしました」

そう言ったのは、控えめな性格の子爵令嬢だった。

「私も、婚約者に叩かれたことがあります。でも、笑って許しました」

過去の痛みを思い出し、悲しげな表情を浮かべた令嬢が、静かに言う。

「……許さなくて、よかったんですね」

それは多くの若い貴族令嬢にとって、初めて目にする“新しい在り方”だった。

かつて“理想の淑女”として扱われていたイヴは、今や“令嬢たちの新しいロールモデル”として語られていた。

彼女は今日も、堂々と生きている。

拳を振るう必要がない世界を望みながら。

それでも、尊厳を奪われるくらいなら——

迷わず拳を握る女として。