軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

26 卒業

「ナディアは殿下に気持ちを伝えないの?」

タリクのいない昼食時にフィオレンシアからの不意打ちを食らって水を噴き出し、魔術で後片付けをしながら「き、気持ちってなんの……?」と問い返した。

「好きでしょう?」

ングゥ、と喉から変な音がした。

「……そ、そんなにわかりやすい?」

「ええ、まぁ」

即答だ。

「ど、どの辺りがわかりやすい……?」

「殿下が私と話してるとソワソワしだすところとか」

「え……でもそれは友達でもそうなるでしょう? とられちゃったような気持ちになるというか……」

「私が他の子と話してるときもそんな気持ちになるの?」

問われてハッとした。

フィオレンシアが誰と話していても、何も思わない。思ったことがない。

「ね。そういうことよ」

フィオレンシアはニコリと微笑む。

「殿下にも……気づかれてると思う……?」

「ええ、まあ」

こちらも即答。

ナディアのパニックはひどくなるばかりだ。手が震えすぎて平パンが皿の上で踊っている。

「ナディアは殿下に気づかれたくないの? 好きな人がいたら、好きだって伝えたくならない?」

「伝えたくは……ならないかな……」

彼は王子で、学院を卒業すれば国にとって重要な役割を担うようになる。そんな人の隣に、今のナディアが立てるはずがない。

そう答えたら、フィオレンシアは「特別奨学生なのに?」と不思議そうに言った。

「……それでも、ただの学生だから」

魔術団に入って一人前の魔術師になって、はじめて胸を張れる。今はまだその途上にいる。

「いつか魔術団員として誰かの役に立てるようになったら、そのときに言おうかな」

フィオレンシアは少し考えてから「そう」と言った。

「『一人前』ねぇ……あなたが自分に満足する日より先に寿命が来そうだけど……これは『ムッツリ殿下』に期待するしかなさそうね」

「期待……? どういう意味……?」

フィオレンシアは黙って微笑んだ。

その夜、ナディアは星を見上げた。

食堂で笑う声、黄緑色の髪、星空の下で「月明かりに照らされた雲」と言ってくれたこと。彼からかけてもらったたくさんの言葉は、この先も折に触れてナディアを導いてくれるはずだ。

――殿下。いつか隣に並び立てる魔術師になります。そのときがきたら、私の気持ちを聞いてくれますか?

*****

卒業式の日、庭園は早くから在校生でにぎわっていた。

学院の卒業試験は式当日に行われる。課題は毎年同じだ。窓も扉もない講堂から卒業式の会場となる庭園まで、自力で移動できれば合格だ。

卒業生が一人、また一人と庭園に姿を現すたびに歓声が上がる。

ひときわ大きな歓声と、女子学生たちの悲鳴のような声が上がったので、タリクが現れたのだとわかった。人だかりで姿は見えない。

――寂しくなるなぁ。本当に。しばらくは図書館とか食堂で姿を探しちゃいそう。

ナディアはこんもりとした人だかりを見つめ、唇をきゅっと結んだ。

そのとき、名を呼ぶ声が響いた。

「ナディア」

人垣がざわり、と波のように割れた。その奥に彼が立っていた。真っすぐに、ナディアを射抜くように見つめてくる。

その琥珀色の瞳を見た瞬間、息が詰まった。

タリクは迷いのない足取りでナディアのほうへ歩いてくる。

ドクンドクンとナディアの鼓動が速くなる。

――ちゃんと笑って送り出さないと。

「ご卒業おめでとうございます、殿下」

なんとかそれだけ言った。

タリクは表情を緩め、何か言おうと口を開く。

そのとき、タリクの背後、遠く庭園の隅に現れた人影が目に入った。

フィオレンシアだ。

ふぅ、と小さく息を吐いたきり、周りを見渡して誰かを探すこともない。周囲の卒業生たちが家族や友人、後輩たちと賑やかに言葉を交わす中、彼女はただ静かに立っている。

「殿下、すみません。少しだけ」

タリクにそう言い残し、フィオレンシアのもとへ駆けた。

「フィオ!」

フィオレンシアはナディアに気づくと瞳を瞬かせた。長いまつ毛に小さな涙の粒が見えた。

「卒業おめでとう、フィオ」

そう言うと、フィオレンシアは眉尻を下げた。

「……ありがとう」

二人は少しの間、見つめ合って立っていた。フィオレンシアがニコと微笑む。

「ナディア。本当にありがとう。でもこれ以上あなたをここに留めておいたら、誰かさんからものすごく恨まれそうだから――」

フィオレンシアの視線を追って振り向くとタリクが立ってこちらを見つめている。

「――行って。ナディア。また後で話しましょう。あ、待って。これを」

フィオレンシアが自分の髪の毛に着けていたリボンを外し、ナディアの頭につけてくれる。

「これでよし。さぁ、行って」

「じゃあ、また後で」

ナディアはフィオレンシアの傍を離れ、今度こそタリクと向き合う。

「すみません、殿下。お待たせしてしまいました。何かお話が――」

タリクはゆっくりとその場に跪いた。そして胸に手を当てる。

「ナディア・アル=ヌジューム」

何か大切なものみたいに、ゆっくりと彼に名を呼ばれた。すでに暴れていた心臓が身体の中で踊り出して、ナディアの呼吸が浅くなる。

周囲からは「殿下が!?」「膝を!?」なんていう悲鳴にも似た声が聞こえてくる。

けれど、琥珀色の瞳に見つめられているうちに、周囲の音は遠ざかっていった。鼓動が耳の中で聞こえる。まるで二人だけが世界に残されたようだ。

タリクの口がゆっくりと開いた。

「私が君に対して深い尊敬と友情を抱いていることはすでに知っていると思う。だが、もうひとつ伝えておきたいことがある」

彼がこちらをまっすぐに見つめる。ここ最近、たびたび逸らされていたその目が、今日は逃げない。

「君のことが好きだ」

ひゅ、と喉が鳴った。

「私はこの先も君のそばにいたい」

――これ、夢……じゃないよね?

先日のことがあるので不安になって手の甲をつねった。

痛い。ちゃんと痛い。

夢じゃない。

「……でんか」

声が震えた。答えたいのに言葉が出てこない。まとまらないまま口に出した。

「私も……殿下のことが……でも、今の私では、まだふさわしくないと……魔術団に入って、立派な魔術師になれたら……」

タリクは静かにナディアの切れ切れの言葉を聞いていたが「ふ」と笑いをこぼした。そして「見たまえ」と言った。

周囲を示すように軽く手を上げる。

ナディアは庭園を見渡した。多くの在校生や卒業生がこちらを見ている。「特別奨学生の人だ」「星見の巫女役の」「今期、歴代最高得点だって聞いたよ」「私も見習わなきゃ」、そんな声が聞こえた。

「君はもう立派な魔術師だ」

ナディアは唇を引き結んだ。目の奥が熱くなる。

「それでも、まだ足りないと思うなら――」

タリクが微笑んだ。

「私と一緒に、君の言う『立派な魔術師』を目指さないか。私もまだ、何ひとつ成し遂げていないから」

「……わ、わたし……」

絞り出すように声を返す。それっきり言葉が続かない。答えられない。答えがないんじゃない。声が出ないのだ。

気づいたからだった。

――違う。

一人前とか半人前とかそういうことじゃない。

ナディアの足をすくませていたのは――

「もらったものが大きすぎて、どうやったって返しきれないんです」

タリクと出会ってから、ナディアは救われてばかりだ。髪を焦がされたとき、黄緑色になったとき、「ふさわしくない」と詰め寄られたとき、枯渇を起こしたとき、眠れなくなったとき、そしてハサンを手にかけようとしたとき。

「どうすればこれだけの恩に報いることができるのか、まだわからなくて」

その恩を返しきってはじめて、隣に立てる気がする。

「でも……でも」

フィオが言うように、悠長なことを言っているうちに寿命のほうが先にきてしまうかもしれない。それは困る。それに、

「殿下が私よりも他の女の人と仲良くなるのも嫌です。どうしたらいいのか、わからなくなってきました」

焦る気持ちと「まだ」という気持ちが同居している。

ほろ、と涙がひと筋こぼれた。

タリクが忍び笑いを漏らしたのがわかった。

長い指がナディアの涙をすくう。

「私のほうこそ君には返し切れない恩がある。君が私を変えてくれたんだ」

――変えた? 何を?

「君と共に過ごすうちに、自分がいかに傲慢で甘えた人間だったかを思い知らされた」

タリクは一度、息を吐いた。

「君のそばにいると一番いい自分になれる。だから、どうかそばにいてほしい」

タリクはそう囁くと、軽く指先を振った。焼けた岩肌に夕立が触れる匂いがナディアをそっと包む。遮音と目隠しの術だとわかった。

人垣は霞の向こうに遠のいていく。

「まぁ、夢の中で私にあんなセリフを吐かせておいて、嫌だなんて言わせないが」

急に近くなった低い声が耳元で囁く。

ナディアはのけぞった。

「ゆ、ゆめ、あれ、みて、あの、しって、たん、ですか」

涼しい顔をしているから、てっきり大丈夫だったのだと思っていたのに。

「どうだろうと不安そうに一日中チラチラ私のほうを窺い見る姿があまりに可愛いので黙っておいたんだ」

「うわぁあああ!!! やめてください!!! ごめんなさいごめんなさい、あんなことを夢の中で言わせてしまって……!!! わかってます、殿下はあんなことをおっしゃらないってわかってますから……!!」

言いながら、たまらなくなって顔を両手で覆った。

――恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい……

いっそこの場から消えてしまえたらいいのにと思っていたら、手首をそっと掴まれた。

顔から手を剥がされ、おずおずと視線を上げた。目を細めているせいで、琥珀色の瞳が半分くらい隠れている。

「私が『あんなこと』は言わないって? そんなことはない。君はまだ知らないだけだ」

そう言った彼に手をぐんと引かれる。すぐ近くに彼の顔がある。

「夢の中のセリフに異論はない。この瞳を美しいと思っているし、私だけのものにしたいとも思っている」

彼の手が頬に触れた。

顔が熱い。火が噴き出るんじゃないかと思うほどだ。

「ナディア。口づけても?」

あまりにも真剣なその表情に、ナディアは思わず後ずさりそうになる。

「あのときは同意を得ずに口づけてしまったから。いいか?」

いまにも唇が触れそうな距離でそう問われ、ナディアはなんとか頷いた。

すぐに温かなものが唇に触れた。

ほんの一瞬なのに、全身を熱が駆け巡って消えない。

「嫌じゃないな?」

嫌なわけがない。

ナディアは背伸びをして彼に自ら口づけた。タリクは驚いたように一瞬身を引いたが、すぐに応えてくれた。抱きしめる腕の力が強くなる。

「ナディア、愛してるよ」

「私もです。私も殿下をお慕いしています」

友人の定義を話したことがあった。あのときにはすでに好きだったんじゃないかと、昨日の夜に気づいた。そう言ったらタリクは笑った。

「そうだな。私もあのときそう思った。これは愛の告白じゃないのか、と。だがニヤついたら君を馬鹿にしていると思われそうだから必死にこらえたんだ」

「たしかあのとき、殿下は『同じように思っている』というようなことを」

「そうだよ。私は君と違って、あの頃にはもう想いを自覚していた」

彼はそう言ってナディアの額に自分の額をそっと当てた。

「君は私の気持ちに全く気付かなかったか? わかりやすかったと思うが。フィオレンシアからは『いつ言うつもりなんですか?』と聞かれたくらいだ」

「最近、目を逸らされることが多かったので……てっきり、嫌われたかと」

タリクは小さなため息をついた。その息が頬にかかる。

「絆が強くなりすぎて、ときどきどちらの感情か判然としない瞬間があっただろう? あの状態で私が好意を告げたら、君が自分の感情を見失うのではないかと心配だった。だから解術してから伝えると決めていたのに、君のそばにいるとその決意が揺らぎそうで」

「揺らぐ? どうしてですか?」

「あのとき予定外に口づけなんかしてしまったせいで、煩悩がな」

そう言ってタリクは困ったような笑みを浮かべる。

「煩悩?」

「たとえば、君が勉強しているとき、難しいところに差し掛かると眉間にシワが寄るだろう?」

「いえ……知らないです……」

「寄るんだ。で、その可愛いシワを指で伸ばしてみたいとか」

「エッ」

――シワが可愛い……? ちょっと意味がわからない……

そんなナディアを見てタリクは笑う。

「そんなことくらいで引くな。序の口だぞ。ハサンのことが片付いて以降の私の頭の中を覗かせてやりたいよ」

「……覗いてみたいです」

「そうか? じゃあ遠慮なく」

そう言ってタリクはナディアの手に口づける。指先に、手のひらに、手の甲に、手首に。

「こうしたかった。図書館でも、食堂でも」

そう言ってタリクは目を細める。

ナディアの頭は爆発しそうで、なにも反応を返せない。

――だ、誰これ。

「言っておくが、君のあの夢なんか生ぬるいからな?」

タリクがそう言ったときだった。

「えーゴホン、わが愚息タリクに告ぐ。お前は卒業生総代としての挨拶が控えているので、そろそろ目隠しの術を解いて出てくるように。すぐに解かないと、王妃によって強制的に解かれるぞ」

卒業証書授与のために庭園にいた王の拡張された声が響いて、二人はようやく離れた。

「仕方ないな。行かねば」

「殿下が総代なのですね」

「そうだよ。頭の悪い男じゃ君の隣に立つのにふさわしくないだろうと思ったし……君に付き合ってあれだけ図書館に詰めていたら、嫌でも成績は上がるってものだ」

タリクは術を解いた。が、ナディアとつないだ手は放さない。彼女を引き連れて、衆目の中を演台まで歩いてゆく。

その手を、ナディアはしっかりと握り返した。

タリクが演台に立つと、あたりがしんと静まった。

タリクは一度、ナディアを見た。そして視線を会場全体に戻した。

「この学院で過ごした年月は、私に魔術以上のものを授けてくれました」

よく通る声が庭園に響く。

「この学院で出会った、ある人の話をさせてください。努力を惜しまず、周囲に惑わされず自分の道を進み、自分の力を誰かのために使うことのできる人です。共に過ごす日々の中で多くを学びました。魔術師として何を目指すべきか。力を持つ者が何のために力を使うべきか。その出会いがなければ、私は今この場所には立っていません」

繋がれた手に力がこもり、彼が振り向いてナディアを見つめる。

――もしかして……これって私のこと……? う、うぬぼれすぎ……?

会場からはざわめきに混じって悲鳴のようなものも聞こえてくる。

彼は視線を観衆に戻した。

「皆さんにも同じように特別な出会いがあったことでしょう。仲間と笑い、悩み、時に衝突しながら、互いを認め合い、多くを得てきました」

彼は一呼吸置き、会場を見渡した。

「それぞれの選んだ道は違っても、共に過ごしたこの時間は、自身の、そしてこの国の、未来を形作る力になると確信しています。ありがとう。ナフリア王国王立魔術団付属魔術学院第百四十七代卒業生の皆さん。卒業おめでとう」

割れんばかりの拍手が響いた。

卒業生が皆マントを脱ぎ、空に向かって放り投げる。深緑が空を覆う。

その深緑が空に舞い上がるのを見ながら、ナディアは思った。

――まだ胸を張れる自分ではないけど、彼は私を選んでくれた。くしゃくしゃの黒髪で、インクの染みた手で、まだ何者でもない今の私を。私も、これから未来を作っていくんだ。

落ちてきた自身のマントをナディアの肩にかけながら、タリクが「そうだ」と呟いた。

「君、使い魔はどうするつもりだ? 来期の授業でも必要だろう?」

「新しいスナネズミでも飼おうかと思いまして」

「スナネズミはダメだ。『置き換え可能』と言われているようで腹立たしい。愛着の湧きづらい動物にしよう。スナグモとか」

眉を寄せて言う彼を見てナディアは笑う。

そして、彼の卒業を祝福しようと歩み寄って来る王と王妃に微笑みかけた。