作品タイトル不明
11 フィオレンシア・ビント・ハサン
講堂の机の上で小さなスナネズミが欠伸をした。細いヒゲがふるふると揺れる。前足をぐんと前に突っ張って伸びをしてから瞼を閉じると、琥珀色の瞳が見えなくなる。
「さて、今日は“使い手と使い魔の魔力共有”について学びます。まずは基本事項の確認から。使い手は使い魔の魔力を引き出して利用できます。これは主従契約の根幹ですね。では、逆に、使い魔も勝手に主人の魔力を使うことはできますか?」
当てられた生徒が首を横に振る。
「そう、答えは『否』。使い魔が主の魔力を引き出すことはできません。関係は一方通行だと覚えておいてください」
「先生。でも、主人が自分の魔力を使い魔に分け与えることはできるのですよね?」
「その通り。使い手は必要に応じて自身の魔力を注ぎ、使い魔を強化できます。戦場でよく用いられる手段ですね。さらに言えば、使い魔も自らの意志で魔力を主人に与えることができます。これは契約における“忠誠の証”とも言えるでしょう」
一斉にノートをとるガリガリという音が響く。
「では結局、使い手が得をしてるということになりませんか? 使役というよりも隷属のような。使い魔を、いわば魔力の供給役として利用することもできてしまうのですよね」
他の授業に比べて皆熱心だ。
「たしかにそうです。でも実際には、供給役として用いる利点はありません。使い魔の魔力を吸い上げると、使い魔にはしばらくの休息が必要になります。よほど魔力量の多い特殊な生物でない限りは、人間よりも魔力量が少ないですからね。使い魔に供給役を担わせて安定的に魔力を得たいと思ったら、ドラゴンくらいの魔力量の生物を使い魔にしなければなりませんが……使役の術をかける前に灰にされるでしょうし、もしも仮にドラゴンを使い魔にできたとしたら、魔力の供給役だなんて無駄遣いをしようとは思わないでしょう。他にできることがたくさんあるのですから」
ナディアはノートを取りながら、ふと机の上のスナネズミを見やった。
お腹を天井に向けて眠っている。この姿で過ごすことにも慣れてきたらしく、最近は警戒心というものを一切感じない。
時折足先がピクリと動く。後ろ足の間が見えないよう、薄い手巾をかけてあげることにした。
「絆が深まってくると、使い魔は使い手と少し離れても過ごせるようになります。特に偵察系の使い魔には、この練習が不可欠です。今日から少しずつ距離をとる訓練をします」
ナディアはスナネズミをつんつんと指でつつき起こし、そっと床に下ろす。
「では各自、使い魔から離れてみてください」
スナネズミから少し離れて後ずさる。
チィ、と高い声が聞こえ、スナネズミが寄ってこようとする。それを手で制し、さらに後ろに下がる。
スナネズミは不安そうに鼻をひくつかせている。
――「可愛い」なんて言ったら怒るんだろうなぁ。
半日は巣箱から出て来なくなりそうだ。
少しずつ距離を伸ばして大講堂の端から端まで離れていられるくらいになった頃に、授業の終わりを告げる鐘が鳴った。途端にスナネズミは小さな体で大講堂を横切り、ナディアのマントを駆け上ってポケットに潜り込んだ。
昼食をとってから図書館に向かう。
魔術史のレポート課題を進める予定だ。
タリクはというと、昼食を終えるなり再びスナネズミになってポケットにおさまっている。授業で離れていた時間にストレスがたまったらしく、少しでも傍に居たいらしい。
昨日読みかけだった本を書架から取り、いつもの席について本を広げた。
「あの……ナディア?」
声をかけられて振り向くと、女子学生が立っていた。八年生だ。もちろん校外学習の一件で謹慎中の人とは別だが、ナディアは警戒心を抱き、防御の準備をする。
ナディアのポケットで食後の昼寝をしていたタリクも目を覚ましたらしい。もぞもぞとポケットから這い出てくる。
「突然ごめんなさい。今少し話してもいい?」
「あ、はい、どうぞ」
警戒は解かず、隣の椅子を勧める。
彼女は首を横に振り、「すぐに終わるから」と言った。
「私、フィオレンシア。フィオレンシア・ビント・ハサン」
「あ、私はナディアです」
「ええ、知ってる」
――そうだ、さっき「ナディア」って呼びかけられたのに。バカなことしちゃった。
恥ずかしくなるナディアを前に白い歯を見せて笑ったあと、彼女は小さく息をついた。
「厚かましいお願いだってことはわかってるんだけど」
話の内容の想像がつかず、ただ頷いて先を促す。
「来週、防御魔術の実技の小考査があるでしょう? それに向けて助言をもらえないかなって。すごく恥ずかしいんだけど、私、その……一度も成功したことがなくて。あの科目を落とすと魔術団の入団試験が受けられなくなるの。なのに自分だけではこれ以上何をどう頑張ればいいのかわからなくて。周囲もみんな入団試験に向けて余裕がないから、とてもお願いできなくて。七年生のあなたならもしかして力を貸してもらえるかなって」
チチチチチ、とネズミが鳴いた。「やめておけ」な気がする。でも――
「私で力になれることがあれば」
そう答えるのとほぼ同時に「ヂヂヂヂヂヂヂ!」という高い声が聞こえたが、聞こえなかったことにした。
「本当に? いいの?」
「はい。移動しましょうか。ここでは練習しづらいので」
スナネズミはナディアの返事を搔き消そうとしているんじゃないかというくらい大きな声で騒いでいたが、ポケットの口のところを指で摘まんで閉じ込めておいた。ポケットの底を貫通させようとしているんじゃないかと思うほど、爪でガリボリとマントを引っかかれている。
「練習室を予約してあるの。もしよかったら、一緒に来てもらえる?」
「はい」
やはり少し警戒して彼女に背を向けないよう気をつけつつ、練習室に入る。
課題の魔術を何度か彼女に試してもらうと、うまくいかない理由がわかった。
複雑な術式をすべて満たすには魔力量が足りないのだ。
それならと、ナディアはノートを取り出して術式を書き出し、途中を消したり書き足したりしながら式の量を削って行く。より簡単な式で代用できる箇所がある。そうして全体を見直すと、半分ほど削ることができた。
「これで……同じ術になるの?」
「たぶん」
ナディアはそう答えた。少し自己流で削った部分もあるが、おそらく問題ないはずだ。
それで何度か試すと、フィオレンシアの指先から小さな稲妻がビリリと走った。
「できた!」
彼女が微笑んだ。
「はじめてよ!」
「あとは練習すれば大丈夫だと思います。今の小さな稲妻で体を包むイメージです」
「ありがとう。この感覚を忘れないうちに練習してみる」
彼女は魔術が苦手なわけではない。むしろ、印の結び方はうまくて正確だ。普段からよく練習しているのだろう。ただ、魔力の量が足りないだけだ。
うまくできるようになるとよいな、と思っていたら、フィオレンシアがナディアの顔を覗き込むような仕草をした。
「思ったより話しやすい人で安心した。もっと近寄りがたい感じかなと思ってたから」
「えっ」
「でも、最近タリク殿下とよく一緒にいるでしょう? 殿下と話してるときに笑ってたから、誰かと一緒にいるのが嫌ってわけではないのかなって……それなら、私とも話してくれるかなって思ったの」
「嫌なわけでは……」
むしろ相手が嫌がってナディアを遠巻きにするというだけで。
「ねぇ、タリク殿下とはやっぱり恋仲なの?」
「へェっ!?」
あまりにも想定外の言葉を投げかけられて、思わず素っ頓狂な声が出た。
「あら、違うの?」
「ちちちちちちちちちちちちち違いますね」
動揺から、スナネズミの鳴き声みたいなのが前半にはさまってしまった。
当のタリクがポケットの中にいるのに、なんてことを訊くのか。
――いや、殿下がいるって知らないんだから仕方ないけど。というか「恋仲」? それに「やっぱり」ってなに?
学院内にカップルはたくさんいる。手をつないで廊下を歩いていたり、少し奥まった場所でキスをしていたり。ナディアとタリクはそんな仲じゃない。
「殿下が誰かと特別親しくするのって珍しいから、そうなのかと思ってたの」
「えぇぇぇええええと……」
使い魔だからだ、と説明できたらどんなに楽だろうか。言えるはずないので、間抜けに連続した音を発した。
フィオレンシアが「そっか、恋仲ではないのね」と納得したような声を上げたので、コクコクと頷く。高速で頭を動かしたせいでクラクラするくらい頷いた。
そしてポケットのネズミのことを考える。
先ほどから動いていない。
――寝ていますように、寝ていますように、寝ていますように……
「でもなんか、ホッとした。殿下、入学したばかりの頃にすごく仲のいい子がいたんだけど――」
フィオレンシアが「あ」と何かに気づいたように言葉を切る。
「あ、安心して。女の子じゃなくて男の子だから」
「え、あ、そうなんですか。え、『安心』って……?」
そう答えると、フィオレンシアが「なるほど、自覚なしってことね」と笑う。
フィオレンシアの言っていることが――言葉は理解できるのに――さっぱりわからない。
「その仲のよかった子が退学しちゃってから、誰とも親しくせずに過ごされてたから……あ、もちろん孤立してたわけではないのよ? 周囲には常に人がいたし。でもいつも退屈そうで、勝手ながら心配してたの。だからあなたと一緒にいるときに殿下が笑ってらっしゃるのを見て、安心した」
なんと答えてよいかわからず、ナディアは曖昧に微笑んだ。彼の過去に土足で踏み込んでしまったような居心地の悪さがあった。
何度も礼を言うフィオレンシアに「お役に立ててよかったです」と告げ、「私は応援してるからね」という謎の言葉に首を傾げながら寮に戻った。
覚悟していたとおり、お説教が待っていた。
部屋に入るなり、人の姿に戻ったタリクが顔から煙でも出しそうな勢いで「一体どういうつもりだ」と問い詰めてくる。
「あんなことがあったばかりなのに、よく知らない相手と密室に二人きりになるなんて。いや正確には私もいたが、それでも――」
「ハーリドが私の髪を焦がしたとき、彼女が近くにいたのを思い出したんです」
ナディアがそう切り出すと、イライラと部屋を歩き回っていたタリクが動きを止めた。
「フィオレンシアは笑わずにハーリドに軽蔑の目を向けていました。私は何もできずに突っ立っていたので、周りの人たちの表情がよく見えたんです。ほとんど皆笑っていたけど、殿下と彼女は笑っていませんでした」
タリクはため息をついた。
「……たったそれだけの理由で? 君はお人好しだな。庇ったわけでもなく、ただ笑わなかった、というだけだろう?」
「庇うのは簡単じゃありません。誰だって、自分が石を投げられる立場になりたくはないですから」
だからこそ、髪を自ら黄緑色にして食堂の真ん中でナディアに話しかけた彼が特別なのだ。
「殿下はフィオレンシアのことがお嫌いですか?」
「好きでも嫌いでもない。そもそも、ほとんど話したこともない。あんなにおしゃべりな人間だということも今日初めて知った」
そう言って目を細める。
やはりしっかり聞かれていたようだ。
「あのぅ……彼女が言ってたことですが」
言いながら、ちらりとタリクの顔を見た。
真顔だ。表情が読めない。
「もしかして、寝て――」
「起きていた」
願望の滲んだ言葉を食い気味に遮られ、慌てる。
「あ、そ、そうですか。あの、ええとですね、彼女が言っていたような、あり得ない勘違いはしてませんので、その、大丈夫ですので」
言い切ってまた顔を見た。やっぱり真顔だ。
彼は息を吸って口を開いた。が、その口からは言葉の代わりにため息のようなものが漏れる。少しの沈黙の後「……そうか」とだけ言った。
琥珀色の丸が半分以上隠れて長方形になっている。
その目でしばらくナディアを見つめ、再び小さなため息をついた。
「まったく、フィオレンシアも余計なことを言ってくれたもんだ」
――余計なこと? 仲の良かった友達の話かな?
やはり触れられたくなかったのだろう。
ナディアは口をつぐみ「そのことを深掘りしたいなんて思ってないから大丈夫ですよ」という気持ちを顔に出すように努めた。ちゃんと出ていたかどうかは怪しいけど。
「ともあれ、君は人の世話をする時間があれば、もう少し寝た方がいい」
「今日はもう寝ます」
「嘘つけ。その手に持ってる本、これから読むつもりだろう?」
「ウッ……もう少しだけ」
「あまり遅かったら、窓の外で騒ぐからな」
「はい」
もうひとつため息をついてから、タリクはしゅるりとスナネズミになり、部屋から出て行った。