作品タイトル不明
9 月明かりに淡く光る雲
その日以来、ナディアとタリクの間には暗黙のルールができた。
図書館に残るのはどんなに遅くとも真夜中まで。日付が変わる前に寮に戻る。部屋の机で寝ない。ちゃんとベッドに入る。
それからタリクはいくつかの助言もくれた。
「教科書は結論の章から先に読むんだ。そうすると全体像が早くつかめる」だとか、「理解できたと思ったら、一旦教科書を閉じて紙で理解の全体を書き出してみろ。うまく書けないところが、理解が足りない箇所だ」とか、「暗記は少しずつ繰り返しやれ。一度に詰め込むより、半分の時間で二度繰り返す方が効率がいい」だとか。
「特別奨学生の君に私があれこれ言うなんて、厚顔な話だが」
「そんなことはありません」
いつも一人でがむしゃらに本を読んで知識を詰め込もうとしていたナディアにとっては、どれもありがたい助言だった。
予習のときに「その項目は一旦飛ばしていい。次の項目を勉強してからの方が理解しやすい」なんて教えてくれるのにも随分助けられた。
いつの間にか、授業では並んで座るようになった。
相変わらずヒソヒソはされるが、ナディアはちゃんと背筋を伸ばしていられるようになってきた。
講義が終われば二人そろって図書館の奥にこもり、真夜中がくるまで勉強に没頭する。真夜中を迎えると、タリクが声をかけてくれる。そうするとナディアはすぐに本を閉じて片付け、寮へ向かう。
その日も真夜中に図書館を出て寮への道すがら、まれなスコールが砂をたたいた。
ナディアは小走りで寮に戻り、濡れた髪を拭きながら、ポケットから出したスナネズミを窓枠に置く。
「あの、眠る前に少しだけ、感覚共有の練習をしてもいいですか」
使い魔との絆を育てるうえで感覚共有は避けて通れない。そして絆が育たないと使い魔の抱く不安感が消えない。タリクの不安感を拭うためには、体に触れるのにためらっている場合ではないのだ。
彼が頷いたのを確認して、小さな手に指先でそっと触れる。
やっぱり胸が跳ね上がる。
――友達に触れるのって、こんなに緊張するんだな。それとも小さい頃から友達と手を繋いで歩いてたら慣れるのかな。
余計なことを考えてしまったことに気づいてハッとし、回路に集中する。
迷路のような魔力回路を辿り、分岐を進み、戻り、別の道へ。目を閉じ、集中して道を探す。半刻ほどそうしていただろうか、ふいに嗅ぎなれない匂いがして目を開けた。
――木の匂い……だけじゃない……これは何――
「あ」と思わず小さな声が漏れた。
スナネズミは嗅覚の優れた生き物だ。
――もしかして。
スナネズミがこく、と頷いた。
「感覚共有……成功、ですね」
ナディアはホッとしていた。
あとは同じ道を迷いなくたどれるように練習を重ねるだけだ。
***
校外学習で砂漠へ向かったのは、ほぼ失敗なく感覚を共有できるようになった頃だった。
マントのフードを目深にかぶり、足の下でギュッ、ギュッ、と鳴る砂を踏みしめて進む。
じりじりと照りつける昼間の太陽と足元の砂から発される熱気に、体力を根こそぎ奪われるようだ。
早朝の出発時には興奮気味だったクラスメイトたちも、今ではひと言も発さなくなっていた。
一泊二日、七年生と八年生の二学年合同で行われる伝統行事だ。八年生が率い、七年生が学ぶ。そうして代々受け継がれてきた。砂漠を横断して少し離れたオアシスで野営をして帰ってくる予定だ。
汗がつーと頬を伝い、顎先から落ちる。落ちた汗はすぐに砂にしみこんで消える。フゥフゥと荒い息を吐きながら歩いているナディアだが、内心はウキウキしていた。
――ルル様の論文に書かれていた、砂漠における魔力の揺らぎをこうして実感できる機会なんてそうそうないもの。
砂漠では魔術が不安定になることは広く知られていたが、その原因は長く未解明だった。王妃の研究により、砂粒が魔力の制御に支障をきたすことがわかったのだ。
頭の中で論文の内容を反芻しつつ汗を拭う。
「このオアシスにて一旦休憩!」
幹事を務める八年生から号令がかかり、あちこちから歓声らしきものが上がった。「らしきもの」なのは、疲労と渇きのせいで皆の声がカスカスだったからだ。
小さなオアシスではあったが、木陰で澄んだ水を口にした瞬間、生き返るような感覚になった。
砂漠の強い日差しの下でも、水辺だけは空気が少しやわらかい。遠くで誰かの使い魔らしい鳥が羽ばたき、泉の水面に細かな波紋が広がった。
「砂漠では魔力が乱れやすい。制御が普段以上に難しくなるし、消耗も速くなる。皆そのことを肌で感じたと思う。これも今回の校外学習の目的のひとつだ。ひと休みしたら、また砂漠を横切って野営地となるオアシスまで歩くぞ」
幹事の言葉に頷いていると、少し離れた場所から「もう少し水が冷たければな」という不平が聞こえてきた。声の主はハーリド、以前ナディアの髪の毛を焦げさせた八年生だ。地下から湧き出た水なので十分に冷たいが、やはり地表に出ると太陽の熱で少し温まってしまう。それが不満らしい。
「そうだ、ナディア。君のその優秀な腕でこの水を冷たくしてくれないか」
そう声を掛けられて、ナディアは眉を寄せた。
小ぶりとはいえ、泉をまるごと冷やすのは簡単じゃない。砂漠で魔力と体力を消耗したあとならなおさら。まだこの後も歩くというのに、そんなことで無駄に魔力を消費したくなかった。
「できるよなぁ? 異例の飛び級だもんなぁ。朝飯前だろ? 見せてくれよ」
ニヤニヤ笑いながらそう言ってくる。引率担当の八年生には聞こえないくらいのヒソヒソした声だ。
以前のナディアなら俯いて無視しただろう。でも、タリクの「慣れるな」「堂々としているんだ」という言葉が頭をよぎった。
――私はこんなふうにニヤニヤされたりヒソヒソされるような悪いことはしていない。貧乏なのも奨学金をもらっていることも、飛び級も悪いことじゃない。
自分にそう言い聞かせる。
すぐ近くで水を飲んでいたタリクがこちらを振り向き「黙らせようか?」と目で問うてきた。
が、ナディアは首を横に振って見せ、それから指を交差させて片手で印を結んだ。ハリードが握る水杯の中に水がせり上がって満ちる。そしてふちのすれすれまで満ちたその水はすぐに凍り付いた。
「お望みどおり、キンッキンに冷やしておきました」
「これじゃ飲めないだろ」
ハーリドは文句を垂れたが、冷たくしろと言われて冷たくしたまでだ。
それ以上は何も答えずに無視を決め込んだ。でも、俯かずにちゃんと顔は上げていた。
「……やるじゃないか」
水を飲み終えたタリクが口元をぬぐいながらこちらに歩いて来て、そう労ってくれる。
たぶん彼が傍にいなければ、彼の言葉がなければできなかった。
「ありがとうございます」
そう言うと、タリクは「何に礼を言われているのかわからない」というふうに眉を寄せた。
その向こうで、ハーリドが凍り付いた水を溶かそうと躍起になっている。
背後を振り返ってその騒ぎを見て、タリクは小さなため息をついた。
「魔術団の入団試験が近づいてて苛立ってるんだ。君にちょっかいを掛けてくるのは足切りギリギリの連中だ。ハーリドも例にもれず、だな。あれでも齢二十というのが、なんとも情けない」
そう話すタリクから焼けた岩肌に夕立が触れたときの匂いがゆっくりと広がってゆく。
「殿下。何をなさろうとしているのかわかりませんが、ひっこめてください」
そう声を掛けると、彼は「バレたか。君には隠せないな」と呟いた。それと同時に、夕立の匂いが霧散する。
「君のぬるい仕置きでは足りないかと思って」
そう言うタリクを前に、ナディアは首を横に振った。
ナディアも魔術団への入団を目指している身だから、試験前のプレッシャーは理解できる。彼らのような名門の出身者には、守らなければならないものや誇りもあるのだろう。ポッと出のナディアのような人間を疎ましく思うのは仕方ない。
でも放っておくといつまでも終わらないようだから、今回はやり返すことにしたのだ。
水杯を凍らせたことで溜飲は下がった。
「魔力を無駄遣いしてる場合じゃありませんよ」
「たしかにな。あいつはだいぶ無駄遣いしてるみたいだが」
まだ溶けない氷を溶かそうと四苦八苦しているハーリドを横目にタリクが呆れたように言う。
「どんな術を掛けたんだ?」
「永久凍結です」
タリクが笑いをこらえて肩を震わせる。
「なるほど。あの家紋入りの銀器は二度と水杯としての役目を果たせないということだな」
「術式がわかれば解除できると思いますが」
「あの手の術は、かけるより解くほうが難しい、だろ?」
「……かもしれません。思いつく限りの術を一気にいくつもかけたので、もしかすると うっかり(・・・・) 、術同士が絡まってしまったかも」
タリクはクク、と笑う。
「ちなみにあの水杯は私の祖父が彼の父に贈ったものだ。見せびらかそうと思って持ってきたんだろう。下級生にちょっかいをかけたせいで凍結されたなんて知られたら、家でも叱られるだろうな」
王から賜ったとなれば家宝だろうに。悪いことをしてしまったかもしれない。
そんな心配も、休憩を終えて一時間も歩いた頃にはすっかり頭から消えていた。渇きに空腹まで加わって、体がずっしりと重い。
ようやく野営地となる大きなオアシスについても、天幕を張ったり火を起こしたりと、作業は尽きない。「食事が粗末すぎる」とか「焦げている」とか「お尻の下が固すぎて座ってられない」とか、あちこちから悲鳴にも似た声があがる。
それを聞きながら、ナディアは温かな夕食を平らげた。
「殿下は平気なのですね」
一番お尻に優しい環境で育ったであろう人が岩に座って黙々と食事をとるのを意外に思ってそう声を掛けると「あの両親が私を甘やかして育てたと思うか?」と返された。
「年に何度かは遊牧民のところへ預けられて、砂漠で生き抜く術を学んだ。今日は自分で狩りをしなくていいんだから、楽なもんだ」
そう言いながら、タリクはナディアの顔を覗き込んで目を細める。
「意外そうだな。軟弱な王子と思われていたようで心外だ」
「軟弱、とまでは思っていませんが……」
「ほどほどに弱いと思っていた? この筋肉を見てよく言えたな」
言われてみれば、たしかに。腕なんてナディアの倍くらいはありそうだ。
「殿下がムキムキだということに、今気が付きました」
正直にそう答えると、彼は鼻からフンと息を吐きだした。
不快にさせたかと一瞬慌てたが、彼の肩が震えているので笑っているとわかった。
何が可笑しいのかわからずに黙って彼を見ていると「君は私の見た目にまるで興味がないな」と呟き、なおも笑う。失礼だっただろうかと「あの、ええと、あ、瞳の色はきれいだなと思ってました」と伝えると、その瞳がじっとナディアを見据えた。
「思って『た』? 過去形?」
「あ、いえ、思っています」
言いながらなぜか目を逸らしてしまった。
焚火が風で揺らぐたび、二つ並んだ影も揺らぐ。
「君の瞳もきれいだ」
「え」
驚いて顔を上げる。
「……この灰色が?」
「雲の多い日に夜空を見上げると、月明かりに照らされた雲がうっすらと見えるだろう。あの色に似ている」
「……そんなふうに言われたのは初めてです」
なんだか落ち着かない気持ちになって、目を逸らした。
――私の褒め言葉に対する礼儀として、ああ言ってくれただけなんだろうけど。なんだろうけど――
そんなふうに思いつつも、そのあと食器を洗いに行った泉で少しの間水面の自分を眺めてしまった。
相変わらずくしゃくしゃの黒髪が元気に爆発しているし、そばかすも浮いているけど、ただの灰色が、いつもより綺麗な色に見える気がする。
――月明かりに照らされた雲、か。
天幕から少し離れた泉は静かで、天空の星を映してきらめいている。砂漠の澄んだ空気と美しい泉と、それに彼の言葉と。いい気分で洗い終えた食器をカゴに詰めて歩いていると「ナディア」と声を掛けられた。
振り向くと、女子が立っていた。
タリクの授業に同席したときに見た顔なので八年生だということはわかるが、名前はわからない。
「はい……なんでしょうか」
追加で洗う食器でもあったのだろうかと思いながら問うと、彼女は「ちょっとこっちへ」とナディアの手を引いて泉を離れ、背の高い木の陰に入り込んだ。
「最近、タリク殿下と親しくしているようだけど」
「あ、そう……です、ね」
あまり友好的な内容ではなさそうだと理解し、心の受け入れ態勢を整える。
「あなた、自分が殿下にふさわしいとでも思ってるの?」
強い口調でそう問われた。
――ふさわしい……?
ナディアは答えられない。
「私ならふさわしい」なんて図々しいことを思っていたつもりはないけど「私なんてふさわしくない」とも思っていなかった。たぶん彼の気さくな言動のせいだろう。ふさわしさについて考えることなく過ごしてしまっていた。
「誰がどう見たってふさわしくないのよ。あなたにはそう忠告してくれる友達もいないだろうから言っておくけど、全く釣り合ってないの。殿下の周りをウロチョロするのはやめて」
どちらかというと(サイズ的にも)タリクの方がナディアの周囲をウロチョロしている時間が長いような気もするが、それを口に出すわけにもいかない。
――なんと答えればいいんだろう。
不用意なことを言うと火に油を注ぐ結果になりそうだ。
「ねぇ、なんとか言ったらどうなの?」
ナディアが返事に迷っているうちに、そう畳みかけてくる。
「ええと……」
何か言わなければと口を開いたときだった。
「余計なお世話だ」
木の向こうから低い声が割り込み、女子学生は――ついでにナディアも――飛び上がった。
振り向くと、冷えた目をしたタリクが立っていた。