軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第41話 「旅する少女と、はじまりの景色」

帰り道というものは、不思議なものだった。

来た道を戻るわけではない。でも、同じ景色が続いているのに、何かが違う。

行くときは、知らないものへ向かっていた。

帰るときは、知っているものへ向かっている。

その違いだけで、風の感じ方まで変わるのだから、不思議だと思った。

少女は道を歩きながら、隣を歩く彼を少し見た。

変わっていない。旅の最初に会ったときと、同じ顔をしている。

でも少女には、この人のことが前よりずっとよくわかっていた。

疲れているときの歩き方。黙っているときの考え事の種類。

何かに気づいたときの、わずかな目の動き。

名前だけ知っていても、わからないことがある。

名前を知らなくても、わかることがある。

長い旅が、少女にそれを教えた。

帰り道も、寄り道をした。

彼の生まれた場所は、少女の町とは反対の方角にあった。

でも、約束通り、一緒に来てくれていた。

「遠回りになっているのに、いいんですか」

少女が聞くと、彼は短く言った。

「いいと言った」

「でも」

「一度言ったことは変えない」

少女はその横顔を少し見た。

(……この人は、本当に変わらない)

最初に会ったときから、ずっとそうだった。言ったことは守る。決めたことは曲げない。感情で揺れない。

最初は少し、取っつきにくいと思っていた。でも今は、その「変わらなさ」が一番信頼できる部分だとわかっていた。

「……ありがとうございます」

「礼は要らない」

「言いたいから言っています」

彼が少しだけ、間を置いた。

「……そうか」

それだけだった。でも、肩の辺りが少し柔らかくなった気がした。

途中、小さな港町に寄った。

二人とも海を見たことがなかった。遠くに行くなら、見ておきたかった。

海は、思っていたより広かった。

水平線というものを、初めて見た。どこまでも続いていた。

果てがどこにあるのか、見ても見ても、わからなかった。

「……広い」

少女がそう言うと、彼も同じように、水平線を見ていた。

「終わりが、見えない」

「ええ」

「向こうに、何があるんだろうな」

少女は少し笑った。

「あなたも、そう思うんですか」

「そうでなければ、旅に出ていない」

二人で、しばらく海を見ていた。波が来て、返して、また来た。

風が吹いた。潮の匂いがした。

少女はノートを出した。

「海は、終わりが見えない。でも、怖くなかった」

そう書いた。それから、少し考えて、一行付け加えた。

「隣に人がいたから、かもしれない」

ノートを閉じた。

また歩き始めた。

春が来た。旅に出て、三度目の春だった。

最初の春は、とにかく遠くへ行きたかった。

二度目の春は、隣に人がいることを知った。

三度目の春は、帰り道の春だった。

花の名前を知っていた。土の匂いが何を意味するかを知っていた。

道の先に何があるかを、少しだけ予想できるようになっていた。

でも、知っているからといって、感動しなくなったわけではなかった。

道端に、見たことのない色の花が咲いていた。

「これ、なんていう花だろう」

少女が立ち止まると、彼も立ち止まった。

「知らないな」

「三年も旅をしていて、まだ知らない花がある」

「世界は広い」

「そうですね」

少女はその花をしばらく見た。

まだ知らないことがある。それが、少し嬉しかった。

知り尽くしてしまったら、また息苦しくなるかもしれない。

知らないことが残っていることが、次に進む理由になる。

(……旅は、終わっても終わらない)

少女はそう思った。

帰っても、それは続く。帰った場所から、また知らないことを見つけていける。

それがわかったのは、旅に出たからだった。

町が近づいてきた。

見覚えのある山の稜線が、遠くに見えた。

少女は足を止めた。

三年前、この稜線を見て「向こうに何があるんだろう」と思った。

今は、向こうに何があるかを知っている。

山を越えると、花の色が変わる。道が険しくなる。でも、越えられる。

知らなかった景色が、知っている景色になった。

それが、少し寂しいかもしれないと思っていた。

でも、違った。

知っているからこそ、その山が懐かしかった。向こうに行商人のおじさんがいた場所がある。野宿をした夜がある。川を渡って二人とも濡れた日がある。

知っていることが、重なって、温かくなっていた。

「戻ってきたな」

彼が静かに言った。

「……ええ」

「どんな気分だ」

少女は少し考えた。

「まだ、わかりません。でも」

町の方向を見た。

「今度は、自分で帰ってきた気がします」

彼が少しだけ、少女を見た。

「出るときと、違うか」

「……ええ。出るときは、逃げていたと思う。でも今は」

少女は稜線を見た。

「ここへ帰ることを、自分で選んでいる」

彼は何も言わなかった。でも、また歩き始めるときに、歩調が少しだけ少女に合わせてくれた気がした。

「それでいい」

短い一言だった。

でも、その一言が、今の少女にはいちばん必要な言葉だった。

町の手前で、少女は立ち止まった。

「少しだけ、寄り道してもいいですか」

「どこへ」

「すぐそこです」

少女は道を外れて、丘の方へ歩いた。彼もついてきた。

草を踏みながら、少し登った。

見晴らし台に着いた。

三年前と、同じ場所だった。

石畳も、木の切れ目も、空の広がり方も、何も変わっていなかった。

でも少女の目に映る景色は、全然違った。

西の山の稜線が見えた。

三年前は「向こうに何があるんだろう」と思った山。

今は、向こうに何があるかを知っている。

東の川が光っていた。あの川に、二人で入った日があった。

北の森が広がっていた。あの森の中に、小さな滝があった。一人なら気づかなかった滝。

南に、夕暮れの雲が流れていた。

同じ景色だった。

でも、全部に記憶があった。

一人で見たこの景色に、今は隣に彼がいる。

同じ丘で、同じ方向を向いて、並んで立っている。

(……全然、違う)

少女は思った。

景色が変わったわけではなかった。でも、見え方が変わっていた。

旅の前は、この景色が「ここの外」を指していた。

今は、この景色が「ここまで来た道」を指していた。

同じ場所から見ているのに、景色の意味が変わっていた。

それは、少女が変わったからだった。

ここを出るときは、息ができなかった。

今は、深く息ができる。

ここへ帰ることを、怖いと思っていた。

今は、帰ることを、自分で決めた。

旅が、そうしてくれた。

ここにいた少女が、ここを出て、色んなものを見て、色んな人に会って、転んで、笑って、また歩いて。

そして今日、また同じ丘の上に立っている。

(……帰ってきた)

逃げ帰ったのではなかった。追い返されたのでもなかった。

自分の足で、自分の意志で、帰ってきた。

それだけのことが、こんなに違うとは思わなかった。

少し風が吹いた。草が揺れた。

夕暮れの光が、足元に長く伸びていた。

三年前と同じ、その光の中に、今日は二つの影があった。

「綺麗だな」

彼が言った。

「……ええ」

「前も、こんな景色だったのか」

「同じです。でも」

少女は少しの間、景色を見た。

「今日の方が、ずっと綺麗に見えます」

彼は何も言わなかった。

少女も何も言わなかった。

ただ、二人で、夕暮れの景色を見ていた。

光が、少しずつ傾いていった。

橙色が、少しずつ深くなった。

町の灯りが、一つ、また一つ、遠くに灯り始めた。

少女は目を細めた。

(……自由というのは、遠くへ行くことではなかった)

旅に出る前は、そう思っていた。「ここの外」に行けば、息ができると思っていた。

でも違った。

自分で選ぶことが、自由だった。

どこへ行くかではなく、どこへ行くかを自分で決めること。

帰るかどうかではなく、帰ることを自分で選ぶこと。

それが、ずっと欲しかったものだった。

今の少女の足元には、それがあった。

「さあ」

少女は彼を見た。

「降りましょう」

「ああ」

二人で丘を降り始めた。

草を踏みながら、道へ戻った。

町の方へ向かって歩き始めた。

足音が、二つ分、道に響いていた。

~END~

本の最後のページをめくったとき、少女の声がした。

「ねえ、ソフィー。それ、何読んでるの?」

向こうから、友人の声がした。

ソフィーは顔を上げた。

中庭だった。

石畳に囲まれた小さな庭に、午後の光が差し込んでいた。

花壇には春の花が咲き始めていて、木の枝にはまだ若い葉が出たばかりだった。

「これ?」

ソフィーは、手の中の本を少し持ち上げた。

表紙に、旅をしている少女の絵が描いてあった。少し古い本だった。表紙の端が少し擦れていて、背表紙の色が少し褪せていた。でも、大切にされてきた本の顔をしていた。

「お母様からいただいたの」

「エリーゼ様から?」

「ええ。学園に入学したお祝いにって」

友人がそばに来た。表紙を覗き込んだ。

「面白そうね。どんな話?」

ソフィーは少しだけ考えた。

「旅をする少女の話。行き先が決まっていなくて。でも、どこへでも行ける」

「どこへでも行ける、か。いいなあ」

「うん。私も、そう思う」

友人がもう少し覗き込んだ。

「それ、借りてもいい?」

「もう一周したらね」

「ちぇっ。じゃあ、早く読んでよね!」

「わかった」

「先に帰るね。また明日ね!」

「うん、また明日」

友人が先に歩いていった。

ソフィーはまた本に目を落とした。

最後のページを、もう一度読んだ。

二つの影が並んで、丘を降りていくところで、物語は終わっていた。

どこへ向かったのか、これからどうなったのか、何も書かれていなかった。

でも、それでいい気がした。

続きは、きっとある。ただ、書かれていないだけで。

ソフィーは本を閉じた。

表紙の少女を、しばらく見た。

お母様も、昔この本を読んでいたのだという。

子どもの頃に読みかけて、続きが気になったまま、ずいぶん長い時間が経ってから読み終えたのだと、話してくれた。

「この本に出てくる少女みたいに、どこへでも行けるの。覚えておいてね、ソフィー」

そう言って、渡してくれた。

お母様の顔が、浮かんだ。

いつも穏やかで、どこか軽やかで、笑うとき、少し目の端が細くなる。あの顔。

(……お母様も、旅をしたことがあるのかな)

聞いてみたいと思った。

今度帰ったとき、聞いてみよう。

ソフィーは本を、鞄の中に大切にしまった。

桜が風に揺れていた。花びらが一枚、二枚、空に舞い上がった。

春だった。

どこへでも行けそうな、春だった。