軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第2話 「早退令嬢は、鏡を知っている」

五歳のエリーゼは、初めて「正しい笑い方」を教わった。

母イザベルの部屋には、大きな姿見があった。

縦に長い、金の縁取りのついた鏡。エリーゼの背丈では全身が映りきらなくて、いつも少しつま先立ちをしなければならなかった。

「顎を上げなさい。もっと。そう。扇を持って」

母の声は優しかった。怒ってはいなかった。ただ、丁寧に、正確に、教えていた。

「笑うときはね、唇の端だけ持ち上げるの。そう。目は笑わなくていい。目が笑うと、軽く見られてしまうから」

エリーゼは鏡の中の自分を見た。

(……誰だろう、これ)

そう思った。

顎を上げて、扇を持って、目を笑わせないで口の端だけ上げている子供が、鏡の中にいた。

エリーゼが知っている自分の顔ではなかった。

「そうよ、上手。ヴァルドラン家の令嬢はそういう顔で立っていなければいけないの」

母が後ろから覗き込んで、嬉しそうに言った。

エリーゼは「はい」と答えた。

母が喜んでいる。褒めてくれている。それはわかった。

でも鏡の中の子供は、相変わらず、エリーゼの知らない顔をしていた。

稽古は、何度も続いた。

朝の着替えの後、食事の前、客人が来る前。いつでも母の部屋に呼ばれて、姿見の前に立った。

「顎を。扇を。目は笑わない」

繰り返した。繰り返した。

最初は不思議な感覚だったが、三ヶ月もすると体が覚えた。鏡の前に立つだけで、自然と顎が上がるようになった。

ある日、母が「今日は一人でやってごらん」と言った。

エリーゼは一人で鏡の前に立った。顎を上げた。扇を持った。口の端を上げた。

鏡の中に、令嬢がいた。

(……上手くなった)

そう思った。でもそのあと、別のことも思った。

(……あの泥の庭で笑っていたのは、この顔ではなかった)

ルーカスと走り回って、転んで、笑っていたときの自分の顔を、エリーゼは鏡で見たことがなかった。

だから正確には知らない。でも確かに、この顔ではなかったと思う。

そんなことを考えてから、エリーゼはすぐにやめた。

鏡の中の令嬢が、少しだけ崩れた気がしたから。

崩してはいけない。せっかく上手くなったのだから。

母が喜ぶ顔が、エリーゼは好きだった。

七歳の夏のことだった。

社交の場に初めて連れ出された日、庭で平民の子供が遊んでいるのを見た。

来客の家に連れてこられた使用人の子だろうか。エリーゼより少し小さい、丸っこい顔の女の子。庭の端で、一人で花を摘んでいた。

エリーゼはその子に近づいた。母が隣にいた。取り巻きの令嬢たちも、その後ろにいた。

自分でも、なぜ近づいたのかよくわからなかった。ただ、何かしなければいけない気がした。この場では、何かしなければいけない。そういう空気だった。

「あなた、平民の子ね」

エリーゼは顎を上げて、扇を持って、習った通りの顔で言った。「こんな庭で、勝手に花を摘むのは感心しないわ」

女の子が怯えた顔をした。

後ろで取り巻きの令嬢たちが「そうですわ、お下がりなさい」と言った。女の子が花を落として、逃げるように走り去った。

「よかったわ、エリーゼ。さすがヴァルドラン家の令嬢ね」

母が静かに、でも満足そうに言った。

エリーゼは「ありがとうございます」と答えた。

(……楽しくなかった)

心の中で、そう思った。

でも、正解だったのだ。母が褒めた。取り巻きが讃えた。周囲の大人たちが「立派な令嬢ですね」という顔で見ていた。

これが正解なのだ。

正解を覚えた子供は、黙って続ける。

エリーゼは前を向いた。扇を持ち直した。口の端を上げた。

鏡の中の令嬢が、庭の中でも立っていた。

十歳の秋のことを、エリーゼはよく覚えている。

その日は雨だった。外に出られないので、自室で本を読んでいた。

図書室から借りてきた、薄い本だった。表紙に、旅をしている少女の絵が描いてあった。

内容は単純だった。名前も家もわからない少女が、見知らぬ国々を旅して歩く話。

何かを目指しているわけでもなかった。誰かを探しているわけでもなかった。ただどこへでも歩いて、どこにでもいられる。問われると「どこへでも行けます」と笑う。そういう少女の話。

(……いいな)

エリーゼはページをめくりながら、静かにそう思った。

どこへでも行ける。誰にでもなれる。行き先が決まっていなくても、足取りが軽い。

(こういう歩き方を、したことがない)

お辞儀の仕方、歩幅の広さ、廊下での目線の高さ。全部決まっていた。

令嬢の歩き方は、こうでなければならない。ヴァルドラン家の令嬢はなおさら。

少女は今、見たことのない国の朝を歩いていた。続きが読みたかった。

「エリーゼ」

扉が開いた。母だった。

母はエリーゼの手元を見た。本を見た。表紙の少女の絵を見た。

一瞬だけ、表情が変わった。何かを懐かしむような、でもすぐに引き締まった顔。

「……それ、どこで拾ってきたの」

「図書室です。借りてきました」

「令嬢が読む本じゃないわ」

母がゆっくりと本を取り上げた。

エリーゼは何も言えなかった。

返してほしいとは言えなかった。なぜ令嬢が読んではいけないのかも聞けなかった。

母は本を持ったまま、部屋を出た。

続きが、読めなくなった。

少女は今、どこを歩いているだろう。行き先は決まったのだろうか。知らない国の朝は、明るかっただろうか。

(……続きが気になる)

窓を打つ雨の音だけが、部屋に残った。

その「続きが気になる」という感覚だけが、不思議なほど長く、エリーゼの中に残り続けた。

令嬢らしくない本を読みたがっていた自分。その自分がまだどこかにいる証拠のように、その感覚だけが消えなかった。

十二歳の春に、婚約が決まった。

クロード・フォルテ。フォルテ王国第二王子。

両親が揃って嬉しそうな顔をしていた。「おめでとうございます」という言葉を、その日だけで何十回聞いたかわからない。

エリーゼは笑った。習った通りの、正しい笑い方で。

(……喜ぶ理由が、見当たらない)

それだけのことだった。

喜べない自分がおかしいのかもしれない。これは家の誇りで、家の喜びで、自分も喜ぶべきことのはずだった。

でも、わからなかった。

婚約者がいる。王子様がいる。これから殿下のために動く。それが令嬢としての正解なのだと、誰もが言った。

正解を覚えた子供は、黙って続ける。

エリーゼは「ありがとうございます」と言って、お辞儀をした。

鏡の中の令嬢が、またどこかで立っている気がした。

十七歳になった今も、鏡の中の令嬢は健在だった。

顎を上げて、扇を持って、目を笑わせないで口の端だけ上げている。

完璧な令嬢の顔。十二年かけて仕上げた顔。

ただ一つ変わったのは、もうそれを「誰だろう」と思わないことだ。

あの頃は鏡の中の顔が、自分ではない誰かに見えた。

今は違う。今は、その顔が自分の顔なのか、作り物の顔なのか、もうよくわからない。

長く続けると、わからなくなる。

(……疲れちゃったよ)

夜、部屋に一人になったとき、ふとそう思った。

声に出したわけじゃない。ただ、思った。

窓の外に月が出ていた。カーテンの隙間から差し込む光が、床に細い線を引いていた。

エリーゼはベッドの端に腰かけて、その線をぼんやりと見ていた。

(……続きが読めなかった本の、少女は今、どこにいるだろう)

ふと、そんなことを思った。

あの少女はきっと、どこへでも行っているだろう。知らない国の朝を、足取り軽く歩いているだろう。

羨ましいとは思わなかった。

ただ少しだけ、遠くの話だと思った。

それだけだった。