軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第173話 誤算、変速機、サブローラモ

時間は少し遡り——

「うわぁあああああああ!!!」

デバイスから甲高い悲鳴が響き渡る。

ジローの配信を見ていたキャスパー博士の心拍数が跳ね上がった。

悲鳴に驚いたからではない。

「こいつが、別世界の……」

その存在を疑っていたわけではなかった。

ジローだけなら「またアホがアホなこと言ってやがる」で済ませていただろう。

だがアマンダやギンも同様の証言をしたのだ。

勘違いや集団幻覚の類を完全には否定できないものの、十中八九は正しいだろうと考えていた。

ジローの配信で特殊ダンジョンの内実を観察し、その考えは確信にまで育っていた。

それでも画面越しとはいえ、こうして目の当たりにすると衝撃はひとしおだ。

これまで培ってきた知見や仮説が、頭の中で狂喜乱舞する。

画面の中で、ジローが別世界人の手当てを始めた。

「よし! よし! いいぞ!」

これは考えうる中で最良の状況かもしれない。

怪我を負っているということは、脅威度がそれだけ下がっているということだ。

治療することで相手に恩を売ることもできる。

別世界人とどうコミュニケーションを取るのかって問題はあるが、言語の壁を越えるのはそう難しいことじゃない。

もちろん時間はかかるだろうが。

相手が全く別の種族で、テレパシーをメインの対話ツールとしている、とかなら話は全く変わってくるけれど、この外見からして、おそらくこちらの世界と同じで発話ベースのコミュニケーションを主としているはずだ。

それならなんの問題もない。

博士は急いで救急隊を呼び、自分のコネや影響力をフルに使って、万全の受け入れ体勢を整えた。

簡易拠点のすぐ外。

「博士」

救急隊の一人が声をかけてきた。

四十前後の精悍な男性だ。

ガタイがよく、身長も190cmを超えていそうだ。

ダンジョンの影響で若い世代の平均身長が格段に伸びているが、年齢から考えて、その恩恵を受けずにこの体格ということだろう。

(なんでオランダ人は揃いも揃ってでけぇんだ……)

オランダに到着してからというもの、コンプレックスを刺激されてばかりだ。

チビにスリップダメージを与える国。

それがオランダだ。

「……なんすか?」

口調がぶっきらぼうになるのも致し方ないというもの。

コンプレックスを刺激されたせいもあるが、これだけでかい男と向き合うのは普通にちょっと怖い。

今は近くにアマンダもギンもいないのだ。

救急隊の男性は、博士の緊張に気づく様子もなく続ける。

「我々はここにいていいんですか?」

「それは、どういう意味で?」

「いえ、ゲートの近くで待機していた方がいいんじゃないかと思って。この程度の坂なら、問題なく近づけますし」

「ジローがゲートから飛び出してきたら、危ないじゃないすか」

男性が声を上げて笑った。

いきなりだったからびっくりする。

危うく漏らすところだった。

なんだテメーこのヤローと睨みつけたものの、アマンダが近くにいないことを思い出してスンと表情を戻した。

「それはさすがにないですよ、博士」

「……どうして?」

「私はこう見えて、趣味でダンジョン探索をしてるんです」

意外でもなんでもない。

周りからどう見られていると思っているのか。

「休日に同僚たちとね。もちろん本職はこっちですから、安全マージンを十分に取ってますけど。それでも恐ろしい目には何度も遭っていて」

でも、と男性は一段声を低くする。

「一番怖いのは、ゲートを超える瞬間だったりするんですよ」

「ああ」

彼の言わんとすることは、博士にもわかった。

この先には見知った空間が広がっていると、そう頭ではわかっているのに、ゲートに——世界の亀裂に足を踏み入れる瞬間は、毎回とても緊張するのだ。

幽霊を信じていない人も深夜の墓場は怖く感じる、それと同じようなことだ。

「そうっすよね、ゲートから飛び出してくるなんてありえない」

「その通りです。だから……」

「普通なら——な」

「え?」

「まあ、ただのリスクヘッジなんで。大丈夫、ジローはこの辺の土地勘がないから、まず間違いなくここに来ますんで」

「はぁ。まあ、あなたがそうおっしゃるなら」

ちょっと連絡しなきゃいけないとこがあって、と嘘をつき、博士は簡易拠点に入った。

ソファに深く腰掛け、ふぅと一息つく。

それからデバイスでジローの配信を流した。

おしっこを我慢しながら、とんでもないスピードでダンジョンを踏破していた。

「……マジでなんなんだよこいつは」

気づけば見覚えのあるエリアまで辿り着き、異形の神の神殿を横切って、王城の地下通路を駆け抜ける。

そしてそのまま減速することなくゲートに突っ込む——どころか何を思ったのか、直前でポーンと飛び跳ねたのだ。

オランダの丘をホームランボールの如く飛翔するジロー。

その光景を目撃した救急隊員たちの、悲鳴とも驚嘆ともつかない声。

最悪のケースを想定しても、ジローは必ずその少し斜め上を行く。

「かははっ」

なんとなく愉快な気持ちになって、博士は吹き出した。

そしてふと、悪い考えが頭に浮かんだ。

これだけ急いでいるのに、もしトイレが使用中だったらどうなるのだろう?

何度も経験がある。

間に合った——そう安堵した直後の、あのガチリとした鍵の感触。

世界に拒絶されたような絶望感。

深く考えている暇はなかった。

ジローはすぐそこにまで来ているのだ。

博士はトイレに飛び込み、鍵を閉めた。

ケケケッ、と邪悪な笑みを浮かべてから、

(それにしても……)

と博士は考える。

博士はジローを怖いと思ったことがない。

いやまあ、ほんのちょっと前にエゲツない急成長を見せられて、おしっこを漏らしたばかりなのだが……あれは人智を超えた成長速度にビビっただけで、ジローが怖かったわけじゃない。

本来『ジロー』と『ジローに備わった力』は不可分のはず。

なのに博士はそう認識していなかった。

『ジローに備わった力』を恐ろしいと感じることはあっても、『ジローという男』を怖いとは思わないのだ。

(……本当に、変な男だよな)

アマンダやギンが惚れるのもよくわかる——と考えてから、疑問符が雪崩のように大量に押し寄せてきた。

何がよくわかるというのだろう。

そもそも、私は一体何をしているのか。

こんな馬鹿みたいな嫌がらせ……。

相手がジローじゃなければ、絶対にこんなことはしない。

それどころか思いつきすらしなかっただろう。

これじゃあ、まるで——

だが自分の思考や感情を掘り下げている時間はなかった。

もうすでにジローは拠点に辿り着き、別世界人を救急隊に受け渡していたのだ。

博士は目の前の出来事に意識を戻す。

ジローがトイレに鍵がかかっていると気づいた瞬間、

「あ、入ってま〜すっ♡」

と一番ムカつくトーンで言わなければならないのだ。

それはもう「ざぁ〜こ、ざぁ〜こ」と続けんばかりに。

だが——

博士は大きな誤算をしていた。

「体の中に車のギアがある」

これは冒険者たちの間で有名な文言だ。

世界中の冒険者が必ず一度は耳にしたことがある。

なぜそれほどまでに有名になったのか。

話は六年ほど前に遡る。

ダンジョンが出現して一年と少し——当初懸念していたほどダンジョンが人類の脅威ではないこと、むしろ有益ですらあることが、少しずつ周知されてきた時期だ。

各国がこぞってダンジョン攻略を推し進め、冒険者になることを奨励するようになった。

それどころか『危険を顧みず人々に恩恵をもたらす英雄』のように持ち上げすらしたのだ。

そんなプロパガンダじみたことをすれば、当然反発も強くなる。

一般人の不満や恐れは全部、わかりやすい脅威に——つまり冒険者へと向いた。

今でこそかなり改善されたものの、昔は冒険者のイメージがすこぶる悪かったのだ。

そしてそれを『偏見』の一言で切って捨てることもできなかった。

得体の知れない危険な地に自らの意思で赴くのは、地上に居場所がない者たちがほとんどだったからだ。

今でもヤクザやマフィアのような、一昔前から存在する組織は残っている。

けれど半グレやギャングと呼ばれる連中は激減していた。

というより『形を変えた』と表現する方が適切かも知れない。

古参クランのルーツを辿ると、元は半グレ組織、ギャングチームというケースがとても多いのだ。

これまでは裏社会で生きるしかなかった人たちに、冒険者という別の選択肢が生まれたわけだから、それはとても素晴らしいことのはずだった。

けれど客観的事実と市民感情は必ずしも一致しない。

「冒険者は熊やライオンと同じ。放し飼いにされてるなんてありえない。知恵があって見た目で判別できない分、より恐ろしい」

そんな意見がよく飛び交っていた。

それに対する反論こそが、前述の「体の中に車のギアがある」という言葉だった。

車のギアチェンジをするように、日常と戦闘で力の出力を切り替えている。

だから力加減を間違って誰かを傷つけたり何かを壊したりすることはない。

そういう主張だ。

最初にその言葉を口にしたのが誰なのかは特定されていない。

そもそも冒険者という存在そのものを忌避する人たちに対し、かなりズレた反論のようにも思える。

けれどこの「体の中の車のギア」の話は、爆発的に広まった。

それも予期せぬ方向でだ。

なぜか。

「今まで意識してなかったけど、確かに自分の中にも同じものがある」

そう主張する者が後を絶たなかったのだ。

それも百や二百の話じゃない。

国や文化の垣根を越えて、何千という人々が——

これは所謂、スキルなのではないか?

ダンジョンやモンスターといったファンタジーの産物が出現し、けれどレベルやスキルといったものは見つかっていない。

だがそれらは確認する手段がないだけで、すでに我々に宿っているのではないか。

この『車のギアに似た力の制御機構』こそが、ダンジョンに潜った者に与えられる基礎スキルの一つなのではないか。

そう考えられたのだ。

世界中に激震が走り、ダンジョン界隈が大いに沸いた。

だがこの仮説は、すぐに否定されてしまう。

「体の中に車のギアがある」と主張する者は例外なく、日常的にミッション車を運転する者たちだけだったのだ。

そして「自分の中には電圧板があって、体に流す電流を調整することで力を制御している」という電気工事士や「圧力系のモニターのようなものがある」というボイラー技師など、様々な主張が現れ始めた。

なんてことはない。

それぞれが最も身近な制御機構を思い描くことで、自分の力をコントロールしていただけなのだ。

期待が大きかった分、落胆も凄まじかった。

けれどこの騒動は決して無駄ではなかった。

今では多くの国が冒険者研修で、『自分の中に車のギアを作り、力を制御するように』と教えているのだ。

日本などのオートマ車が主流の国では、ミッション車を運転したことがない者に私道で実際に運転させ、その感覚を掴ませる実習が行われているくらいだ。

「体の中の車のギア」は、冒険者の共有概念といってもいい。

これはジローも例外ではなかった。

ただ、ジローの中にあるのは車ではなくマウンテンバイクの変速機だった。

小学三年のクリスマスに、サンタさんからプレゼントされたのだ。

その二ヶ月後にはトラックと正面衝突して大破してしまったが、放課後の冷え切った夕闇を駆け抜けた疾走感は、今もジローの中に色濃く残っている。

免許を持たず、冒険者研修を受けたこともないジローがマウンテンバイクの変速機を思い描くのは当然のことだった。

それも他がせいぜい5段や6段の中——脅威の21段変速。

『日常』『ダンジョン内』『緊急時』の三段階があり、さらにそれぞれが七分割されている。

まあ『日常の7速』は『ダンジョン内の1速』よりも出力が高いから、綺麗に21段階あるわけじゃないのだが。

それでも積んでいるエンジンが桁違いのジローが、日常生活でトラブルを起こさずに済んでいるのは、それが理由で間違いなかった。

そう、まさに博士の誤算は、そこにあった。

ちょこちょこ漏らしちゃう博士にとって、それは『日常』の些細な失敗にすぎない。

だがジローにとって、というか博士と赤ちゃんを除くその他大勢にとって、お漏らしは人としての尊厳に関わる一大事なのだ。

つまり今のジローは『緊急時の7速』——フルスロットルだ。

そんな状態のジローが、開いているものだと思いながら鍵の閉まったドアノブを握ればどうなるのか。

当然の帰結として、扉は飴細工のように砕け散った。

その時にはすでにジローはパンツを下ろしていて、便座に腰掛ける博士のちょうど視線の高さに、ジローのサブローラモが——

「え?」

「あっ」