恋のお相手はわたくしではないのでしょう?
作者: 月追める
本文
「もし、自分の想い人が恋に落ちる瞬間を目撃してしまったら、どうしますか?」
そう聞かれたら、あなたはどう答えるでしょうか。
もし、想い人が恋に落ちる瞬間を目撃してしまったなら、わたくしは――。
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「ねぇ、クロレ様。貴女がいつまでも婚約者の座にいるから、ロデック様は私と親しくなりたくても一線引いてしまわれるのよ。早くあの方を解放してちょうだい!」
そんな非難を浴びて、わたくしはくしゃりと顔を歪めました。何か言わなければ――そう思うのに、わたくしの口ははくはくと震えるだけ。何も言い返せませんでした。
こちらを睨んでいるのは、同じクラスの子爵令嬢――ノデラ・マージヤ様。彼女と仲のよいご令嬢達がくすくすと笑っています。
「クロレ様のような陰気な方が、リーヴル伯爵令息と釣り合うはずがありませんのに」
「そうよ。華やかなノデラ様こそ、あの方の婚約者であるべきだわ」
ご令嬢達に肯定されて得意気な表情を浮かべたノデラ様は、「邪魔よ!」と言ってわたくしに肩をぶつけて立ち去っていきます。よろめいたわたくしの手から、本がどさりと落ちました。
――釣り合わないなんて、わたくしが一番よく分かっているわ……。
滲みそうになる涙をぐっと堪え、本を拾い上げます。
(ごめんなさい、ロデック様。それでもわたくしは……貴方への想いを捨てられないのです)
自ら身を引いた方がいい――頭ではそう理解しています。けれど、あの方の優しさや温かさが変わらないうちはと、縋らずにはいられません。
ぎゅっと抱きしめた本のように、わたくしはあの方の婚約者の座を自ら手放すことは出来ませんでした……。
それは、学園に入学してすぐ。
子爵令嬢のわたくし――クロレ・カルムと、婚約者である伯爵令息のロデック・リーヴル様と並んで歩いていた時のことでした。
学園内の図書室に借りていた本を返しに行く途中、本を抱いたノデラ様が正面から歩いてきた――その瞬間。
ロデック様が目を見開いて顔を赤らめたのです。そのお顔は、長年婚約関係にあるわたくしも初めて見る表情でした。
ロデック様はすぐに視線を逸らされましたが、誰を見て赤面なさったのか明白です。
あまりの衝撃に呆然としたまま再び正面を向くと、ノデラ様はわたくしを見てニタリと笑い、上機嫌で立ち去っていかれました。
(あぁ……、きっとロデック様はノデラ様に恋してしまったのね。勝気で華やかで、わたくしとは正反対なあの方に……)
気付きたくありませんでした。けれど、あのようなお顔を見て、どうして目を背けることが出来ましょう。
わたくしの心はみしりと軋み、真っ暗な闇に突き落とされたような……そんな心地でした。
一つ歳上のロデック様は、幼くして婚約した頃からお優しい方でした。
人見知りで引っ込み思案なわたくしを気遣って、お会いする時は主にお屋敷で。外に出かける時は、図書館や美術館のような騒がしくない場所を選んでくださいました。
いつも手を引いて、怯え緊張するわたくしに「大丈夫だよ」と穏やかに笑ってくださる……そんな方。
けれど、本当は外に出て、街を散策したかったことでしょう。ロデック様もご令息ですから、お祭りや武術大会にも興味がおありだったはずです。
それなのに、わたくしは希望を聞いてもらってばかりでした。こちらが声をかけても「僕はクロレの行きたいところに一緒に行けたらいいから」と言ってくださって……。
今思えば、ずっと我慢させていたのかもしれません。彼に行きたいところがあっても、わたくしを連れて行くには難しいからと。
そこで気付いたのです。わたくしは、ロデック様から「好き」と言われたことがないことに。
(わたくしは、ただの“婚約者”……。きっとノデラ様ならロデック様の行きたいと願われる場所へ、一緒に行けるのでしょうね……)
わたくしはロデック様に甘えていたのです。
ですから、罰が当たったのだと思いました。自分のことばかりでロデック様のことなど考えず、守られるだけだったわたくしへの罰なのだと。
それからというもの、ロデック様がわたくしを昼食に呼びにいらした時や、下校のために迎えにいらした時、わたくしよりも先にノデラ様が声をかけられるようになったのです。
ノデラ様は表情豊かで可愛らしく、ロデック様ととても……とてもお似合いのように見えました。
(わたくしが、ロデック様の幸せを妨げているの……?お二人の恋路を邪魔しているのは、わたくし……?)
婚約者などという、肩書きだけの存在。きっとこんなにも想いを募らせているのは、わたくしだけなのでしょう。
それがとても虚しくて、悲しくて――離れて差し上げなければと、そう思ったのです。
「ロデック様、あの……」
「さぁ、帰ろう。確か、クロレの好きなミステリー小説の続巻が出る頃じゃなかったかな?帰りに本屋に寄っていくかい?」
「え?あっ……。え、えぇ……」
決心したのも束の間、ロデック様からの提案に、わたくしはあっさりと頷いてしまいました。なんて心が弱いのでしょう。
もう一度口を開こうとした時、
「そういえば、ひと月後に学園のパーティーがあるでしょう?」
とロデック様から問われ、わたくしはヒュッと息を飲みました。
まさか、ノデラ様と参加されたいのでしょうか。もしやそんなお約束をなさったのでしょうか。
「は、はい……」
「……クロレはパーティー苦手だものね。そんな落ち込まないで。私がずっと側にいるから、大丈夫だよ」
「え?」
わたくしは予想外の言葉に、思わず首を傾げてしまいます。そこには、これまで何度も見た、わたくしを気遣いながら微笑むお顔がありました。
ノデラ様との参加を告げられると思っていたので、つい驚いた声を上げてしまいました。
「……え?何、どうしたの?」
「あっ。い、いえ……」
「もしかして、私が側にいない方がよかった……?」
ロデック様が目を丸くして顔を覗き込んでいらっしゃいます。ち、近い……!近いです、ロデック様っ!
わたくしは頬が熱くなり、視線を逸らしながらなんとか否定します。
「そ、そんなわけがありませんっ」
「……びっくりした。ついにクロレが私の手から飛び立とうとしているのかと考えてしまったよ」
ふぅ……と安心したように息を吐かれるロデック様。
けれど、彼の言葉に、わたくしの胸はつきりと痛みました。
(わたくしはロデック様にとって、雛鳥のような……妹のような存在なのね。わたくしへの情があるから、こうして気遣ってくださるけれど。そこに恋愛感情は……)
そう感じるたびに、どんどんと心が沈んでいきます。
「ドレスは準備しているから、楽しみにしていてね」
「……えぇ、ありがとうございます」
精一杯の笑みを浮かべ、お礼を伝えます。今、わたくしは上手く笑えているでしょうか。貴方の瞳に映る、わたくしは――。
その後も、何度か意を決してあの日のことやノデラ様のこと、ロデック様の想いを聞こうとしたのです。
けれど、ロデック様が話し始められたり、話そうとした時に他から声をかけられたり。
……いえ、これは言い訳ですね。伝えられるタイミングはあったのです。ですが、いざ口にしようとすると何も言えず、「何でもありません」と笑って誤魔化すことしか出来ませんでした。
わたくしが中途半端なせいで、「何かあったの?」とロデック様に心配をかけてしまうことも。
――なんて意気地のない。臆病で弱虫で、けれどそれだけじゃない……好きな人の幸せを願って離れることも出来ない、我儘な自分。
自分がこんなにも醜い人間だったのかと、わたくしは自分自身に打ちひしがれました。
そんな時、またしてもあのお顔を見る機会があったのです。
いつものようにノデラ様が話しかけに行かれると、ロデック様はまた顔を赤らめていらっしゃったのです。「まぁ!」とノデラ様の嬉しそうな声が教室中に響きました。
一体何の話をしていらっしゃるのか、聞こえませんでした。けれど、周りにいた令嬢達がみな心奪われるほど、照れた表情で優しく微笑まれるロデック様は素敵で……。
そのお顔を向けられたのは、わたくしではなく――ノデラ様。
「クロレ、何をしているの?帰るよ?」
立ち竦むわたくしに、ロデック様はいつも通り声をかけられました。鞄を手に、口を引き結んでノデラ様の前を通りすぎると、勝ち誇ったようにくすっと笑われました。
「……どうしたの?体調でも悪いの?」
「い、いいえ……」
「いや、顔が真っ青じゃないか。ほら、私に掴まって」
そう言って差し出される手を、わたくしは掴めず見下ろすしかありません。
婚約者だから、優しくしてもらえる。
婚約者だから、気遣ってもらえる。
(でも、ロデック様の恋のお相手は、わたくしではないのね……)
じわりと視界が歪んでいきます。なんて卑怯なのでしょう。彼の心を縛っておきながら困らせて、みっともなく涙を浮かべるなんて。
「……クロレ、私に掴まっているんだよ」
「え……?きゃっ!」
俯いていたわたくしの体が、ふわりと浮き上がりました。目を瞬いている間に、ロデック様にお姫様抱っこをされていたのです。
「ろ、ロデック様……っ!?わ、わたくし、自分で歩けます……!」
「そんな辛そうにしている君を歩かせられないよ。今日は帰ったら早く休んで?いいね」
「……っ」
あぁ……、どうして。どうして貴方はそんなにお優しいのですか?あれほど赤らめたお顔や、照れたようにはにかむ表情など、わたくしには見せてくださらないのに。
ついロデック様の制服を強く握ってしまいます。こんなにも悲しいのに、お姫様抱っこをされて喜ぶなんて……。
本当に愚かで浅ましく、胸が張り裂けそうでした。
その日から、わたくしはロデック様に話を切り出すことを諦めました。
どれだけ卑怯だと言われても、あの方から直接別れを告げられない限り、わたくしからこの想いを捨てられそうにないのですから……。
そのせいでノデラ様から恨まれ、こうして肩をぶつけられても仕方がないのです。
(当然よね。ロデック様の時間をわたくしが独占しているせいで、二人の接する時間が限られているのだもの……)
それが、婚約者の特権だから。わたくしは、今にも崩れ落ちそうなその座にしがみつくしかありませんでした。
そうして迎えた、学園でのパーティーの日。
わたくしはロデック様が用意してくださったドレスをまとい、煌びやかに飾り付けられた会場へ入りました。
隣にはロデック様。しっかりとわたくしをエスコートしてくださっています。
「今日は一段と綺麗だよ、クロレ」
ロデック様の瞳の色と同じ、美しいエメラルドグリーンのドレス。甘やかなドレスが苦手なわたくしのために、リボンを付けない代わりにレースをふんだんに使ったもの。
ロデック様は、落ち着いたネイビーブルーのジャケットとパンツに、所々水色の差し色が使われている衣装です。わたくしの瞳がアクアマリンのような色だからでしょう。
「……ありがとうございます。ロデック様も、とても素敵です」
「そうかな?クロレにそう言ってもらえて嬉しいよ」
なんて大人びた表情でしょうか。とても素敵で格好よくて、けれど何処か遠く感じてしまう……そんな笑み。
(心を剥き出しにしたような、あのお顔をわたくしにも見せていただきたいのに……。わたくしではきっと叶わないのね)
それが酷く切ない――このひと月ほど、わたくしの心はじくじくと膿み続けていました。
そんなわたくし達の前に、ノデラ様がやってきました。そしてそのドレスを見て、わたくしは顔から血の気が引いていきます。
ノデラ様のドレスもまた、美しいエメラルドグリーンだったのです。
「ロデック様、クロレ様、ごきげんよう」
「あぁ、ノデラ嬢。ごきげんよう」
二人が挨拶を交わす間、わたくしは舞台を眺める観客のような心地でした。きっとこのパーティーが、ロデック様と過ごせる最後の日になる……。わたくしはそんな予感と共に、二人を見つめることしか出来ません。
「ロデック様、そろそろ宜しいのではありませんか?」
「……?何の話かな?」
「クロレ様を慮って、婚約者として振舞うお姿……。それはとても素敵だと思いますけれど、ずっとこのままではロデック様がお可哀想ですわ」
「……何を言っているのか、分からないのだけれど」
困ったように首を傾げるロデック様。それを見て、ノデラ様はキッとわたくしを睨み付けました。
「クロレ様、言いましたわよね?貴女が隣にいるから、ロデック様は真実の愛に蓋をして“線を引く”しかないのだと」
「……っ」
「もう十分でしょう?これ以上、ロデック様を縛るのはやめて差し上げて」
ノデラ様の声は、会場に響き渡りました。周りの令息令嬢が、何事かと様子を伺っています。以前ノデラ様と一緒にいらした令嬢達が、ニヤニヤと笑みを浮かべているのが見えました。
もう、十分――そうなのかもしれません。こんなにも長く、幸せな夢を見せていただいて。
(ロデック様の幸せを考えるなら、わたくしが……手放すしかないのね……)
唇を噛み締めながら、悔しさと惨めさを胸の奥底に押し込めて。わたくしはロデック様の腕から手を離そうとしました。
そこで――
「……真実の愛?」
と、当事者であるはずのロデック様がきょとんと首を傾げました。
「えっと……ごめん。何の話をしているのかな?」
全員の頭の上に疑問符が浮かびます。
「……ロデック様は、ノデラ様に恋をされていたのではないのですか?」
「………………はっ!?」
わたくしがぽろりとこぼしてしまった言葉に、ロデック様がぎょっとされ、こちらを見下ろしました。お、お顔が近いです、ロデック様っ!!
「私がノデラ嬢に恋?どうしてそんな話になっているの!?」
「廊下で擦れ違った時、私を見て恥ずかしそうに頬を赤らめていらっしゃったではないですか!クロレ様だって見ていたわよねぇ!?」
「え、えぇ……」
ノデラ様の剣幕に、咄嗟に頷いてしまいました。
すると、ロデック様は「あの時の私を、クロレに見られてしまったのか……っ」と頭を抱えてしまわれました。こんなにご乱心なロデック様は初めてで、呆然としてしまいます。
「悪いけれど誤解だよ。私の顔が赤くなったのは、決してノデラ嬢に対してではない。貴女にそういった気持ちは一切ないよ」
「なっ!?」
大勢の前で言われてしまったノデラ様。そこかしこから「まぁ」「勘違いだったのか?」と囁く声が広がっていきます。
ロデック様は周囲の様子などお構いなしに、ノデラ様へ冷ややかな目を向けました。
「それに、どうやらクロレに何かを吹き込んでいたみたいだね。……もしかして、最近クロレの表情が暗かったのは、貴女のせいかな?ノデラ嬢」
「……!」
「そういえばさっき、縛るのはやめてと言っていたね。まさか彼女に、私から離れるよう迫っていないよね?」
「あ……っ」
いつも穏やかで優しいロデック様とは思えない、怒りを孕んだ低い声。ノデラ様はへたりと床に座り込みました。
「……やっと腑に落ちたよ。これは調査してもらう必要があるね。教員に願い出て、きっちり調べてもらうことにするよ」
「お、お待ちになって、ロデック様!」
「貴女はクロレの友人だというから、名を呼ぶことを許しただけだよ。もう二度と名前で呼ばないで。……行こう、クロレ」
それはパーティー会場に足を踏み入れて、ものの十五分ほどの出来事でした。
わたくし達は一切パーティーを楽しむことなくその場を後にし、教員室へと直行。ロデック様は周囲を凍てつかせるような笑みで、教員達に調査を依頼していました。
今日は、ロデック様の初めて見るお顔だらけで。こんなにも表情豊かでしたのね……と、わたくしは驚くしかありませんでした。
「さて、クロレ?」
「は、はい……」
「どうして私が、ノデラ嬢に恋をしているなんて勘違いをしたの?……ほら、ちゃんと顔を見せて」
わたくしは両手で顔を隠しながら、いやいやと首を横に振りました。
わたくしは今、何故か「クロレが勘違いをした罰」と言われ、ロデック様の膝の上に横座りさせられているのです。恥ずかしくて、顔を晒せるわけがありません。
どうしてこんなことになってしまったのでしょう……っ!
「クロレも、私がノデラ嬢を見て赤面したと思ったの?」
「……はい」
「ということは、もうひと月半くらい経つのか。……その間ずっと、クロレは私がノデラ嬢に想いを寄せたと考えていたの?」
わたくしは静かに頷きます。すると、「はぁ〜」と重たい溜息が降ってきました。ビクリと体を震わせると、安心させるように背中を撫でられました。
「あぁ、違うんだ。クロレに呆れたんじゃない。誤解を招いた私が悪いんだ。その……うーん……。これを伝えるのは、勇気がね……」
「……?」
わたくしはそろりと手を退けて、彼を見つめました。ロデック様は「うっ」と声を漏らしたあと、観念したように話し出しました。
「あの時、私の顔が赤くなっていたのなら、それはノデラ嬢の持っていた本のせいだよ」
「本?」
そういえばあの日、ノデラ様は図書室へと向かうわたくし達と擦れ違いました。確かに、手に本を持っていらした気がします。
ですが、それがどうしたというのでしょう?
「あの本の著者名は、レデリッカ・ムーヴ」
「……レデリッカ・ムーヴ?え、えぇと……?」
初めて聞く著者の名前に、わたくしは首を傾げます。ロデック様はぎゅっと眉を寄せ、渋々といった声でこうおっしゃいました。
「…………それ、私なんだよ」
「えっ?」
「私とクロレの名前で、被っている文字を除いて並べ替えたもの、って言えば伝わる?」
わたくしは頭の中で、それぞれの名前を思い浮かべました。
クロレ・カルムと、ロデック・リーヴル。そこから“ク”・“ロ”・“ル”を除いて、並べ変えれば……。
「確かに、レデリッカ・ムーヴになります……!」
「でしょう?……まさか、学園内の図書室に置かれているなんて思わなかったよ」
「ロデック様の執筆なさった本が出版されているのですか!?」
「あ〜……うん」
わたくしは目を輝かせて見上げます。こんな身近に、まさか本の著者がいるだなんて。
けれど今度は、ロデック様が顔を隠してしまわれました。何故か耳まで赤いように見えます。
「どうしてお顔を隠してしまわれるのですか?とても凄いことではありませんか。それに、どうしてわたくしに教えてくださらなかったのですか……?」
「……言えるはずないよ。だってあれは、クロレをモデルに書いた……恋愛小説なんだから」
手で覆われているせいでくぐもって聞こえてきた声に、わたくしは目を丸くします。
わたくしをモデルにした、恋愛小説……?
「へ……?」
「あぁもう!クロレは恋愛小説なんて読まないから、知られることはないだろうと思っていたのにっ!」
ロデック様はぐしゃぐしゃと頭を掻き混ぜます。髪の毛が鳥の巣のようになってしまいました。
(た、確かにわたくしは恋愛小説を読まないけれど。だって恋愛小説は、ヒロインのようになれない自分が悲しくなってしまうから……)
ですからわたくしは、冒険譚や推理小説のような、自分の関わる世界とはまるで違う物語が好きなのです。
「フィクションともノンフィクションとも言えない、私の感情がダダ漏れの小説だよ……。あまりにも文章量が多くなってしまったからと、軽率にも新聞社に送ってしまって……。まさか連載されると思わなかったんだ」
じわじわと、わたくしの頬も火照っていきます。そんな、新聞社に取り上げられるほどの恋愛小説を……しかも、わたくしを想って書いてくださっていた……?
あの……予想外過ぎて、頭が追い付かないのですけれど。
「まさかそのせいで、あらぬ誤解を招くことになるなんて。クロレを傷付けるわ、こんな恥ずかしい思いをすることになるわ……。これなら最初から打ち明けていたらよかった」
手を退けたロデック様のお顔は、それはもう見事に色付いていて、まるで熟した林檎のようで……。
わたくしの見たかった、心を剥き出しにした表情に、わたくしの目からぽろぽろと涙が伝っていきます。
「クロレ!?あぁ……本当にごめんよ!ひと月もの間、君をずっと苦しめていたなんて……」
「いいえ、いいえ……っ。それは、わたくしの心が弱かったせいなのです。わたくしは、いつもロデック様に気遣ってもらってばかりで。ノデラ様の方が素敵だから、そんな表情を向けられるのでしょうと思ってしまったのです」
「クロレ……」
ぎゅっと優しく包まれて、その胸にしっかりとしがみつきました。もう後悔したくないと、手放せない想いが溢れて止まりません。
「わたくしはロデック様に甘えてばかりでした。ですから、ノデラ様が現れた途端、わたくしはロデック様に相応しくないのだと……わたくしが離れて差し上げなければと、そうとしか思えなかったのです」
「そんな……。私はクロレしか要らないのに……」
「そう思っていただける自信が、わたくしにはなかったのです。何度も伝えようと思いました。『貴方の望む方と幸せになってください』と」
その時の痛みを全て吐き出すように、わたくしはかつてない声で叫びました。
「でも、言えなかったんです……!だって、わたくしはロデック様が好きだから。貴方から『好き』と言われたこともないのに、浅ましくも婚約者の座に縋り付いて、一秒でも長く一緒に居たいと願っ」
――その後、わたくしの想いは声になりませんでした。
わたくしの唇を、ロデック様が自身の唇で塞いでしまわれたから。
力強く抱きしめられ、彼の熱が唇や触れ合う体から伝わってきます。愛おしくて嬉しくて、最後の涙がぽろりとこぼれ落ちました。
「……本当に、自分が愚かで仕方がないよ。クロレに甘えていたのは私の方だ。ずっと一緒に居たから気持ちが伝わっているだろうと、恥ずかしがって君に想いを伝えられずにいたんだから」
「ロデック様……っ」
「好きなんて言葉では足りないんだよ、私は。クロレを愛しているんだ」
あぁ……わたくしは夢でも見ているのでしょうか。
ロデック様が頬を染めながら、こんなにも真剣なお顔でわたくしに想いを伝えてくださるなんて。
「……わたくしも、ロデック様の小説を読んでも宜しいですか?」
「それだけは、それだけは本当に勘弁してほしいかな」
切実な声色でわたくしの両肩を掴むロデック様。わたくしは安堵からか、くすくすと笑ってしまうのでした。
その後、学校側の調査により、ノデラ様の日頃の言動も含めて、“数名への継続的な嫌がらせ”があったと明らかになりました。
それもあって、ノデラ様の生家であるマージヤ子爵家は、無期限での休学届を提出されたそうです。
リーヴル伯爵家からも、マージヤ子爵家に警告書を送ったと聞きました。全員の前であのようなことがあったので、暫く登校するのは難しいでしょう。
そしてわたくしは、ロデック様の小説――『僕の可愛いお姫様』を読ませていただきました。
多くの恋愛小説が、令嬢や少女の視点で描かれている中で、ロデック様の小説は、ロルクという少年の視点で描かれている珍しい物語でした。
ロルクが、レムという少女をどれだけ愛しているかが綴られているそれは、ご令嬢達の間で「わたくしもこんなふうに想われたい」と憧れられているそうで、今巷で人気の小説なのだとか。
二回目にロデック様が照れていらした理由も、ようやく分かりました。ノデラ様達がその小説の話をしていたところに、丁度ロデック様が入っていらしただけ――それだけだったのです。
『人見知りな彼女が、僕の手だけはしっかり掴んでくれるのです。頬を少し染めて微笑む姿が、とても愛おしくて。その時僕は、この子を生涯守ると決めたのです』
わたくしは一つ一つの文字を指でなぞりながら、彼の綴った想いを読んでいきました。
「こんなふうに思ってくださっていたのですね」
「本当に恥ずかしい。書き溜めていた日記を読まれている気分だよ……」
あの日からロデック様の大人びた表情は、時々恋する少年のように変わることが増えました。
彼にとってはそれが恥ずかしくて仕方がないようですが、わたくしは嬉しくて幸せで仕方がありません。
「愛しています、ロデック様」
「私も。愛しているよ、クロレ」
そうして彼は、照れたように笑いました。小説の主人公のように。
ロデック様の恋のお相手は――幸いなことに、わたくしだったようです。
ずっと自信なんて持てなかったわたくし。ですがこれからは、弱気になってしまったとしても、何度でも確かめ合いながら生きていきます。
彼の言葉と、彼の物語を抱いて。もう二度と、手放そうなんて考えが過ぎらないように――。