軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

コミカライズ開始&書籍2巻発売記念/冥府の元王女-②

冥府は基本的に肌寒い。辺境の火山地帯まで行けばまた違うものの、少なくともアクアマリンが住んでいる魔王城付近の森はベルハイムでいう秋冬の気候である。

寒空のもと城の大時計が六の鐘を打つと、黒い森の小さな小屋ではベッドの上の毛布がもぞもぞ動く。

(…………もう朝なの?)

ぼーっとする頭で起き上がり、肌を切り裂くような冷たい水で顔を洗う。瘴気を浴びるようなものだが洗顔と湯浴みは命よりも大事だった。

清潔なドレスに着替え、金色の髪を結いあげる。冥府のアクセサリーは趣味が悪いのでここに来たときにつけていたものを大切に使い続けている。

朝食がわりのホットミルクを飲んで温まり、あまり気に入っていないごわごわした毛皮の上着を羽織ると、アクアマリンは魔王城に出勤した。

更衣室に入ると、中にいた魔物の視線が一斉に向けられる。

「あらぁ、模倣じゃない。まだ生きていたのね」

「今日は何に化けるのかしら?」

「きゃはは。ねえねえ、明日、あたしになってくれない? たまには仕事休みたいのよ」

若いメドゥーサがアクアマリンの肩を小突く。

アクアマリンは眉間に険を寄せて彼女を睨みつけ、サッサッと服を払った。

「汚い手で触らないでくれる」

「はあ!? 今、なんて言ったの!」

メドゥーサが声を荒らげると、頭の蛇もシャーッとアクアマリンを威嚇する。

アクアマリンはメドゥーサの頭からつま先まで目を走らせると、はぁとため息をついてみせた。

「爪も蛇……髪もぼろぼろじゃないの。そんなんだから魔王様に相手にされないのよ」

「なんですって!」

乾いた音と同時にアクアマリンの頬に熱が走る。

頬を打たれたのだ、とすぐに理解した。

「人間風情がデカい顔してるんじゃないわよ! 石にして火山に投げ込んでやってもいいのよ!?」

「まあまあネリッサ、そのくらいにしておきな。こいつ、一応魔王様のお許しを得てここにいるんだから。勝手に殺したらあたしたちが叱られちゃうわ」

友達に宥められると、メドゥーサのネリッサはフンと高い鼻を鳴らし、捨て台詞を吐いて更衣室を出ていく。

「ふん。とっとと冥府から出ていきなさいよ。まがいものめ」

しんと静まりかえる更衣室。アクアマリンは頬を撫でるとロッカーから使用人服を取り出した。

人間の世界では時代遅れもいいところの、古ぼけたゴシック調の重たい服だ。

これを着る屈辱にももう慣れたが、それでもときどき自分を見失いそうになる。

元王女だとかなんだとか言ってもアクアマリン自身がアクアマリンたるものは何もない。魔王が見抜いたとおり模倣の力も大幅に消耗してしまっている。どれほど馬鹿にされても言い返す気にはならなかった。

だからせめて、自分が自分を大切にしないといけないと思った。

爪は綺麗に切りそろえ、精油を塗って磨いている。身にまとうものも清潔を心がけ、アラクネが営む反物屋から布を買い付け自ら縫っている。

自活能力こそないが、おしゃれや身だしなみに関することは、ベルハイム時代からこだわりを持ってやっていた。

「今日のシフトは……掃除係ね」

箒と雑巾を持って城内を清掃していると、廊下で誰かがうずくまっているのを見つけた。

「こんなところで何をしているの?」

声をかけてのぞき込むと、特徴的な麻のマントと白いマスクを付けている。

ブギーマンだった。

行きつけの酒場でもよく見かける小型の魔物である。

「は、腹と頭が痛い……」

どうやらこのブギーマンは体調を崩して動けなくなってしまったらしい。

魔族は人間よりも丈夫な身体を持っているが病と無縁というわけではない。無茶をすれば風邪をひくし、変なものを食べれば腹を壊す。だから医者のような職業をしている魔物もいると耳にしたことがある。

「たすけて…くれ……」

かなり弱っていているようだ。

ブギーマンが力なく伸ばしてきた手を、アクアマリンはため息交じりに握ってやった。

「仕方がないわね。あなたくらいならおぶえるから、どこに連れて行けばいいか教えてちょうだい」

「感謝する、人間よ……」

ブギーマンが背負えるサイズでよかった。

そう思いながらアクアマリンは彼を背中におぶい、寮の部屋まで送り届けたのだった。

無事に一日の仕事を終えると、アクアマリンはいつもの酒場に向かった。

今日もシードルとハムの皿を頼み、カウンターの隅で静かに過ごしていたのだが。フロアの方では穏やかではない大声が飛び交っている。

「……喧嘩でもしているの?」

目の前でレモンを切っている吸血鬼のバーテンに訊ねると、彼は何でもないように答える。

「この時期にはよくあることです。初物の赤ワインや果実酒が出ると、つい飲みすぎてしまうみたいで」

「ふぅん? そういうものなのね」

王女だったころは初物だとか気にしたことが無かった。常に最上級のものを用意させていたから、きっと初物だったとは思うけれど。

「特に今年は食糧危機が空けて初めての収穫なんで。格別ですよ」

切り終えたレモンを容器に移すと、バーテンは改めて騒ぎが起こっているほうに目を向ける。

「……でもまあ、ちょっと珍しいですね。あのゴブリンのお客さん、いつもは紳士的に飲まれる方なんで」

「羽目を外しては美味しいお酒も台無しだわ」

「……そうですね」

始まった取っ組み合いを横目で見ながらアクアマリンが呟くと、バーテンは端整な顔を緩ませて微笑んだ。

その麗しい表情を見てアクアマリンはふと考える。

(この吸血鬼は、いったいどれほどの女性を泣かせてきたのかしらね?)

魔族の容姿はさまざまだが、亜人など人間に近い見た目の種族もかなりいる。

この男も輝く銀色の髪に深い臙脂色の瞳をしている。かなり背が高いところと尖った犬歯を覗けばほぼ人間といっても過言ではない。もしベルハイムにいたならば、社交界でずば抜けた人気を誇っただろう。

(……まあ、どうでもいいことね)

社交界にはもう縁がない。異性関係も一通り遊びつくした。

今まで利用しては捨ててきた男たちには申し訳ないことをしたと思っている。そういう反省もあって、恋愛事からは距離を置くことに決めたのだ。

「では僕はこれで。追加の注文があったら声をかけてください」

「ええ」

バーテンが離れていく。

アクアマリンはフォークで薄切りのハムをすくい、口元に運ぶ。

美味しい。何の肉か分からないけど、とても美味しい。

(ここは家から近くて通いやすいけれど、治安が悪化するようであれば、しばらく別の店にしたほうがいい?)

人間の自分は、暴力沙汰に巻き込まれたらまず一番に怪我をしてしまう。

しかし初物の酒が理由ならば、どの酒場も状況は同じかもしれない。

(いよいよ料理を覚えるときが来てしまったかしら……)

自炊のことを考えると気が重くなる。布からドレスを縫うのは楽しいのに、肉や野菜から一品を仕上げるのはとてつもなく難しい。

(でも、あと一年もしないうちに死ぬのだから無理をする必要もないんじゃないかしら)

ポケットからクリスタルを取り出す。

今朝見たときと色味は変わらないように見えるが、確実にカウントダウンは進んでいる。

(時間は限られているもの。何に使うかはよく考えないと)

酔っ払いの喧嘩に巻き込まれたらそのときはそのときだ。

冥府に置いていかれた日から先のことを考えるのは止めた。どうせ力では敵わないのだ。どうせ死ぬなら最後まで自分らしく生きたい。やらないで済むことはやりたくないし、ろくでもない魔物なんかに迎合もしない。

(――そろそろ帰りましょう。明日も仕事だわ)

クリスタルをポケットに戻して席を立つ。

確か明日のシフトは門番だった。

ガーゴイルのガイルとペアを組んで約束なしで訪れる客を追い払う仕事だ。もう慣れたものである。いつものようにガイルと雑談をしながら一日が終わっていくだろう。

――しかし翌日城でとんでもない事件が起きることを、このときのアクアマリンは露ほども想像していなかった。