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その元奥様、犯罪者ではありませんこと?

作者: 蟹子@【聖女様、夫は〜】コミカライズ進行中

本文

「ルピナス・エルフォード!本日を以って君との婚約を破棄し、僕はこのユリシアを未来の妃とする!」

煌びやかな大広間に王太子の声が高らかに響く。

今日の為に王都へ集められた貴族達、飾り立てた花々とシルクのテーブルクロス、場を盛り立てる為に弦を鳴らしかけて止まった楽団。

本来ルピナスと王太子の婚約パーティーであった会場は、華やかさと祝いのムードを置き去りにしんと静まり返った。

「畏れながら殿下、そのお言葉の意味をお分かりでいらっしゃるのですか」

避けられるように開かれた空間に、ぽつんと取り残されていた令嬢こそ、たった今婚約破棄を受けたルピナス・エルフォード。

公爵家の娘としてデビュタントと同時に王太子との婚約が結ばれ、今この時まで妃教育に身を費やしたあげく、婚約者に手さえ取られなかった哀れな女である。

...と、この壇上で見下ろす王太子殿下は侮っているのだろう。

彼に腕をわざとらしく絡ませて「ごめんなさい」とばかりに瞳を潤ませるユリシア嬢のあざとさたるや、実に演技派なことで。

「ふん、分かっているさ。これで愛のない婚約は終わりだ。僕は真実の愛を見つけたのだから」

「ああ、王太子殿下...!」

二人は見つめ合うと、互いの両手を握り合わせる。

「ユリシア、君こそ運命の女性だ!」

「嬉しいっ、なんて情熱的な人なの...!」

本当におめでたいですこと。主にその頭が。

だが残念な事に、おめでたい王太子殿下とユリシア嬢はご自分たちの振る舞いの意味をさっぱりお分かりでないらしい。

妃教育を終えた令嬢に婚約破棄を一方的に告げるということは、王家の機密を抱えた人間を放逐するという事である。

そんな事は到底王家として許す訳にはならないので、本来ならば側室に置くか王の愛妾の一人として召し抱えられるか、最悪の場合は機密ごと処分へ落ち着くだろう。

だがこちらとて腐っても王家に連なる公爵家。心変わりなんて易い理由で契約に反する王太子には、異を唱える権利くらい欲しいものである。

「ではこちらから条件を一つ。陛下よりお許しを頂けるなら、喜んで婚約破棄をお受け致しましょう」

「条件だと?くだらない...」

「良い、申しなさい」

王太子が眉を寄せたところで、国王が疲労し切った表情で遮り、王座から立ち上がる。

「王太子の行いは許される物では無い。そなたの出す条件であれば何なりと呑もう」

愚息の行いはもはや取り返せないが、混乱した場を納める為には聞き入れるべきだと判断したのだろう。

ルピナスは真っ直ぐに国王を見上げると、礼の姿勢を取ってから口を開いた。

「殿下との婚約破棄の手続きが済み次第、わたくしとイライアス殿下との婚姻を結ばせて頂きたく存じます」

「イライアスだと?こちらとしては有難い申し出ではあるが...そなた、それで本当に良いのか」

イライアス殿下は目の前の王太子の兄君に当たる。しかし彼は聖職者の為に王位の継承権を持たず、さらには先日夫人が離縁届を置いて失踪したばかり。

はっきり言って現在の王家にとっては、悩みの種でしかない人物であった。

「兄上と結婚するのか?はっ、ついにおかしくなったかルピナス!」

「ルピナスさま、お可哀想...」

王太子とユリシア嬢は嗤うが、ルピナスは心の奥で彼以上に込み上げる笑いが止まらなかった。

イライアス殿下に嫁げば国家機密は漏れず処分から免れ、妃教育からも完全に解放され、その上お世継ぎの重圧も無くなる。

そう、産まれながらに神に選ばれた聖職者は、聖なる力と引き換えに子を作る能力を奪われているのだ。

つまり、わたくしは男性と触れ合わず、子供も産まなくていい!

男女の触れ合いなんて滑稽だわ。

口で「ぎゅー」やら「ちゅー」やら言いながらイチャつく殿下とユリシア嬢を散々見せつけられれば、もうたくさん。それに、出産とは鼻から大きな瓜を出すくらい痛いというじゃありませんこと?

痛みも必要以上の触れ合いも望まないルピナスにとって、これ以上の好条件があるだろうか。

「ええ。是非ともお願い申し上げます」

見た事もない程の晴れやかな笑みを浮かべた彼女に、王太子とユリシア嬢は気味悪そうに顔を歪ませた。

————

「良く来てくれましたね。しかし、このような有り様で申し訳ない」

迎えたイライアス殿下は王太子と同じ金髪に碧眼ではあったが、優しげな面立ちに落ち着いた印象を与える青年だった。

彼は聖職者らしく金刺繍の入った白のサーコートに身を包み、司祭らしき帽子を傍らに下ろす。

広がる袖から覗く手には枝分かれするような聖紋が指先まで覆い、どことなく彼の存在そのものが淡く光っているようにさえ感じさせた。

しかし、通された客室は実に殺風景。

仮にも王家の人間だというのに装飾どころか絨毯も無い。出された茶器は到底王家御用達の白磁とは似ても似つかぬ粗悪品だった。

「元妻が出て行ってからこの有り様でして...。戦から戻ったら何もなかったのです。まともなおもてなしも出来ず、お恥ずかしいばかりです」

申し訳無さそうに謝る彼は、一方的に出て行かれるほどに妻を虐げるような人間とは思えない。ルピナスはカップをソーサーへ優雅に下ろすと、彼を伺う様に首を傾げた。

「お噂には聞いておりましたが、いったい何が...。事のあらましを教えていただけませんこと?」

「もちろん、お話し致しましょう。あれは彼女...、アデラインがやって来た夜のことです」

・・・

「把握は承知ですが、夫婦となる貴女に改めて確認をしておきましょう」

彼女を迎え入れた初夜。ベッドの端に掛けていたアデラインへ、歩み寄ったイライアスは穏やかに話しかけた。

「まず、聖印保持者の私は子を残せません。ですから貴女に閨事を求めず、いずれは同じく聖なる力を宿した養子を迎える事となるでしょう」

これは彼女との婚約の段階で書類上の契約を交わし、擦り合わせてきた内容だ。だが清く正しき聖職者として育てられたイライアスには、これから妻となる人の心へ寄り添うべきだと感じていた。

特に子を残せない自分との政略結婚は、体の良い生贄の様なものである。彼女に重責を負わせてしまうのは明白なのだ。その上、今は時期も酷く悪かった。

「現在西部へ魔物の侵攻があり、一週間後には魔物との戦が控えています」

ようやく輿入れとなったその日に魔物が国へ攻め入ったのだ。だが、数ヶ月前から準備を重ねた婚姻の日取りだ。急遽遅らせるという訳には行かなかった。

「新婚でありながら、癒しと浄化の力を持つ私は 神聖騎士(パラディン) として戦に従事する責を避けられません。規模を見るに、三年はおそらく戻れないでしょう。その間に屋敷を任せる苦労を掛けますが、手紙で報告を頂けますか。こちらもその都度...」

「結構です」

「...はい?」

遮るように発した彼女へ、イライアスは聞き返す。

しかしアデラインは何やら「やっぱりこう来たわね」などと呟くと、キッとこちらを睨みつけた。

「営みも、子供も、連絡も求めません。それよりも帳簿を見せて下さい。貴方の屋敷は無駄が多すぎます」

「無駄、ですか...?」

何の事かとますます困惑すれば、彼女はふん、と鼻で笑って手を差し出した。

「廊下を歩くだけでも豪華な笏に壺に、無駄に高価そうな調度品の数々。間違いなく領地と家計は赤字でしょう。帳簿を下さい。わたくしが屋敷を立て直し、整えます。貴方は何もしなくて結構ですから、戦でも愛人でもお好きにして下さい」

「はあ...?」

アデラインとは、このような女性だっただろうか。見合いの席彼女はもっと穏やかで、感情も伝わる女性だったはずだ。しかし今、彼女の考えていることが全くわからない。

「貴方がどんな嘘を吐こうとも、数字は嘘を吐きませんので」

「はあ...」

アデラインの言っている事はどうにもズレている様に感じたが、この家に嫁いだのならば重要なものが何か、それをどう扱うべきかは分かるはず。

これほど自信に満ちた本人が屋敷を“整える”というのなら、夫として任せるべきなのだろう。

「いいですか。わたくしが赤字を終わらせ、抜け一つない完璧な帳簿を付けて見せます」

「それは...、頼もしいですね」

彼女のやる気がどこから来たのかはわからない。だがどちらにしろ、戦場は迫っているのだ。妻に任せて屋敷を空けなければならない事には変わりない。

イライアスは「では、週ごとに文を交わし報告と確認を...」と言いかける。

「結構です」

しかし彼女はまたそう言うなり、彼を部屋から締め出したのだった。

・・・

「...戦場から都度、屋敷の様子を伺う文を書きましたがどれにも返信はありませんでした。こちらも戦の只中ですから、屋敷が気になるという理由で帰宅する訳にも行かず...」

はあ...、とイライアスは重いため息を吐く。

「そして3年後ようやく家に戻ったら何もかもなくなっていて、使用人も半数がいなくなり...。机の上には離縁状だけが残されていたのです」

「なるほど...」

この屋敷の異様な殺風景さは、そんな経緯が生み出していたのか。ルピナスはしばらく考え込むと、イライアスへと視線を上げる。

「イライアス様、その彼女の付けた帳簿を見せて頂けますか?」

「構いませんが...理解できるかどうか」

「どういう意味ですの?」

イライアスは立ち上がると、部屋を出て行く。

そして静かに戻るなり、ルピナスへ帳簿を差し出して苦笑する。

「...こういう意味ですね」

差し出された帳簿をぱらり、とめくったルピナスは目を見開いた。

「何ですのこれは。読めないわ」

「読めないでしょう。残された使用人達と解読を試みましたが、これが難解で」

そう、帳簿の字はまるでのたくったような、文字とも判別がつかない様な何かがびっしりと記されていたのだ。

筆圧も強く、何度も書き直したのか擦れも酷い。かろうじて読めるのは丸に近い0といくつかの数字が飛び飛びにだけ。これでは帳簿の意味が無かった。

「並び的に、これは売り払った物のリストでいいのかしら...。0は読めますけれど、法外な値段で屋敷の物品らしきものが売却されていますわね」

帳簿に並ぶ、文字として読めたとしても目が滑るような0の並び。どう考えても、売られたものはただの飾りではないだろう。

「ええ、調度品と彼女は表現しましたが、あれらは国宝であり聖遺物です。我が家に嫁ぐに当たり、その価値と恐るべき力を彼女は知っていたはず」

イライアスは憔悴し切った声で続ける。

「この屋敷は遺物保管庫のようなものですから、基本的に客人は招きません。私自ら司祭として常に管理する為、専用の台座と覆いを被せて魔力の漏れを防いでいたのに、その全てが売り払われてしまったなんて...」

目元を抑えて嘆く彼に、ルピナスは大きくアメジスト色の目を見開いた。

「ま、まさか聖遺物を軒並みすべて売られてしまったのですか...!?元奥様とはいえ、犯罪者ではありませんこと!?」

「はい。しかもどこに売ったのやら、あれが悪意ある者に利用されれば恐ろしい被害が予測されるでしょう。現在、国としては秘匿しておりますが、明るみになるのも時間の問題です」

なんて事だ。これはただの離婚騒動では収まらない。国家を揺るがす大問題であり、血の気が引くほどの大損害と災害の前触れである。

「それで、元奥様はどこへ...」

「魔術師の総力を上げて目下捜索中ですが、遺物もアデラインも消え失せた様に見つからず。ただ、彼女を乗せた幌馬車の主人は“やっと自由よ。これから私、カフェを開くわ”と言うのを聞いたとか...」

「カフェですって...!?」

国家の聖遺物を売り払い、それらを任されて来たであろう聖職を兼ねる使用人を軒並み解雇し、王家の血に連なる兄君の屋敷をもぬけの殻にしておきながら、能天気に“カフェを開く”とは...!?

「ご両親の伯爵夫妻によると、初夜の前日までは非常に優秀で愛国心も強く、遺物の取り扱いの勉学にも励む娘であったとか...。あの夜にいきなり人格が変わったとしか説明がつかないのです」

恐ろしい。聖遺物が世に放たれたとなれば、その被害は自然災害どころでは済まない未曾有の危機となるだろう。

...だが、何とかするしかない。何とかしなければ国は崩壊する。ルピナスは絶句と震えをなんとか抑え込むと、帳簿をじっと見つめ直した。

「とりあえず、出来ることをやりましょう。私の魔法であれば、お力になれるはずですわ」

ルピナスの魔法、それは復元魔法。

別名、“物を治す魔法”。あまりにも単純で、使用したとて誰にも気づかれぬほどに地味だった。

そんな魔法は王太子からも学園の生徒達にも笑われるばかりで、生活に役立つ以外は必要のない魔法だと思い込まれていたのだが。

実はそうではない。

全くもって無用ではないのだ。

彼女が王妃候補となった理由として、その魔力の特異さと有用さは大きな一つだったのだから。

「...この帳簿は、元はイライアス様も付けておられたのですよね」

彼女は帳簿へ手を翳す。

目を瞑って魔力を込めれば、帳簿の上の文字が踊り出す。生き物の様にくねくねとのたうったそれらは消えてはまた現れ、また消えると現れ、そして、何度目かの繰り返しの後に流麗な文字へと姿を変えた。

「これは...、私の字です。私が最後に付けたものです」

イライアスが目を見開く。

翳していた手をするりと退ければ、そこには元あった彼の字が記されていた。それらの膨大な並びは屋敷に置かれた聖遺物の数々。かつてあったはずの記録がこの目で全て読み取れるようになっていた。

「この記述...。ただの会計帳簿ではなかったのですね」

「ええ。地下倉庫を含め屋敷内に置かれたすべての聖遺物の管理表です。2枚目には屋敷全体の会計帳簿、という形で月毎に合わせて王家へ提出していたものでした。ですがあの解読不能な上書きは、それらの表の中身を全て売り物として扱ってしまったようで...」

重要な聖遺物の管理表を、まさか商品の在庫管理表のように扱ってしまうなんて。わざわざ妻として潜り込みそのような凶行に出るとは、彼女は国に強い恨みでもあったのだろうか。

...いや、犯罪者の感情に寄り添うよりも、まずは問題の解決が先だ。ここで自らの力を使わずしてどうする。

「わかりましたわ。ではとりあえず、こちらの聖遺物を“復元”いたしましょう」

不敵に笑った彼女に、イライアスは目を丸くした。

————

「“月光の王笏”があったのはこちらですか?」

ルピナスが廊下の一角に向き合うと、イライアスは頷く。

「ええ、間違いなくここに」

その場には台座どころか、何かがあった跡形も無い。彼の言葉を受けたルピナスは「では始めましょう」と微笑んで手を翳した。

手を翳した先に強く意識を込める。

さあ、元に戻って。この空間ごと、全てを元あった状態へ——.....!

すると、足元に荘厳な台座がどこからか滑る様にヴン、と音を立てて現れ、ひゅるっと何かが飛来する音と共に豪華な銀の笏が出現する。続いて荊のように白銀の覆いが周囲へ組み上がり————

———その場には、きっちりと台座へ納められた“月光の王笏”が鎮座していた。

「な、何が...。これは一体...!?」

イライアスが口元を抑え、まじまじと王笏を眺める。姿形も、置かれた角度まで寸分たりとも違わない。そしてこの覆いから溢れ出んばかりの強大な魔力。まごうことなき聖遺物だ。

「“復元”いたしましたわ。私の魔法は“物を治す力”ではなく、“あらゆる物を元の状態へ戻す力”。つまりは限定的な時間操作に近い物ですの」

「何ですって...!?」

イライアスは蒼く透き通った瞳を大きく見開き、金の睫毛を瞬かせた。

“あらゆる物を元の状態へ戻す力”

そんな人智を超える魔法が、この世に存在していたなんて...。

「魔法の全容を知られれば身動きが取れなくなりますので、両親と国王陛下以外にはあえて“地味な魔法”であると知らしめておりました」

婚約破棄を受けたあの日に、国王がすんなりとルピナスの条件を呑んだ理由。それは彼女の恐るべき魔法を王家の外へ逃さぬ為の、最大限の歩み寄りだったのだ。

「つまりは、貴女自体がほぼ国宝のような存在であったと...!?」

「そういう事ですわ。さあ、驚くのは尚早ですわよ、どんどん“復元”して参りましょう!」

「た、頼もしい...!」

それから一週間。

ルピナスの復元魔法によって、屋敷はすっかり見違えていた。

「“芽吹きの水瓶”、“光芒の長弓”、“雨招びの笛”...間違いなくこれで全てです。全ての遺物が元の場所に戻りました...!傷一つなく、魔力漏れもなく...!」

帳簿に記された聖遺物管理表にチェックを付けていたイライアスが、安堵の表情と共に肩を下ろす。

「未曾有の危機は防がれました...!誰も傷付かず、命を失わずに済んだのですね...」

彼の涙を目尻へ滲ませた表情に、ルピナスは大きな誇らしさと喜びを感じていた。

何故ならイライアスはルピナスが復元作業に注力するにあたり、「せめて私に出来ることを」と真摯に荒れ果てた屋敷の環境改善に奔走したのだ。

作業の合間に使用人の少ない屋敷で紅茶を淹れ、適切なタイミングで好みに合わせた食事を手配し、疲れた頃を見計らっては香りの良い菓子や毛布を差し入れた。

イライアスの行いはどれも気遣いに満ちていながら、一度たりとも押し付けがましさを感じさせる事は無かった。

「癒しは司祭の本分ですから」

彼の見せた癒しの力は直接触れるでもなく、柔らかな空気に包まれるように疲労をゆっくりと取り除く。

それはイライアス本人の性質を表すように温かな感覚で、ルピナスの心の強張りさえも解くようで。

魔法の行使で疲れ切った彼女を、穏やかな眠りへと導いた。

「私は生まれつき聖紋がありましたから、癒し以外の生き方を知りません。ですから、きっと貴女には物足りない夫でしょう」

そう微笑んだ彼は、どこか寂しそうだった。

そんな彼はこちらに寄り添うけれども、決して触れない。気遣うけれども、過度では無い。

まるで手負いの獣を時間をかけて慣らすように、そっと毛布のような安心感を与えるのだ。

公爵家で育ったルピナスは使用人から受ける世話には慣れていたが、これほど居心地の良さを感じる事は今までに無かった。

ただでさえ、王妃候補だったのだ。

誰も彼も気を遣って、こちらの望みへ先回りする事にばかり必死だった。どこか怯えたようで張り詰めた献身や見返りを求める過度な奉仕は、こちらの肩が強張るばかりだった。

———けれど、イライアスは違った。

執着でも、支配でも、崇めるような奉仕でもない。

「ルピナス・エルフォード公爵令嬢。私イライアス・フォン・アルタリア、王国最高司祭並びに王家の血を引く者として、最大限の感謝と心よりの謝罪を申し上げます」

イライアスは穏やかに告げると、胸に手を当て深く頭を下げた。

「私は何も出来ていないというのに、貴女は驚くほどの偉業を成されました。あまりの内容故に公に出来ない事柄ではありますが、王国へ然るべき見返りを求めるべきかと思います」

彼はゆっくりと頭を上げると、誠実さに満ちた瞳でルピナスへと向き合った。

「王国の危機を救った貴女は、私と共にこのような遺物管理庫で、血の繋がらぬ聖紋保持者の育成に縛られるべきではありません。貴女の望むまま生きられるよう、私から父上に取り計いましょう」

イライアスはそこまで言うと、少し寂しそうに眉を下げた。

「...このような危機に直面してなお、前向きな貴女の笑顔は美しかった」

「魔力が尽きかけても国民への被害を食い止めるため、毎日魔法を行使し続ける姿に大きな感銘を受けました。...このまま貴女を側で支えられたらと思う程には」

彼は熱のこもった瞳でそう溢す。

そしてはっと慌てたように口元を抑え、目を逸らした。

「...いえ。今のはあまりに個人的な...聖職者にあるまじき感情でした。どうかお忘れ下さい」

再び頭を下げた彼の表情は、こちらからは伺えない。だがその声はどこか優しさの中に、悲しげな色を纏わせているようだった。

「どうか貴女の門出に輝かしき未来と、女神ハルイアの祝福を」

顔を上げ、切なげな微笑みを浮かべた彼はやはり穏やかで————

「まったく、だから時期尚早ではありませんこと?まだ復元作業は終わっておりませんわよ」

「へ...?」

きょとんと目を丸くするイライアスの目の前で、ルピナスはパチンと指を鳴らす。

「だって、“一番ここに戻すべきもの”がまだ残っているでしょう?」

ひゅるりとその場に現れたのは、黒髪の女性。

いかにも清楚なドレスに身を包んだ彼女は「は...?」と固まった姿勢のまま、間抜けな声を上げた。

「アデライン様、ようこそお帰りなさいませ」

にっこりと微笑んだルピナスへ、アデラインはぞっと肌を粟立たせる。

そう、元に戻せるのは物だけではない。

人間———つまりこの屋敷からアデラインすらも、彼女の魔法は元の屋敷へ呼び戻したのだ。

「な、なんで...私は今隣国で、カフェの為の店舗を...」

訳の分からない妄言を吐く彼女に、呼び出したルピナスは微笑みを崩さずに告げる。

「アデライン・ヒューザー伯爵令嬢。王国最高司祭の妻として、貴女を横領と国有財産の不法処分、文化財保護法違反、公文書改竄、そして国家反逆、さらには外患誘致の罪で捕らえます」

「!」

ルピナスによる罪状の読み上げを聞いたイライアスが、咄嗟に白銀の荊をアデラインの周囲に出現させた。荊は見る見るうちに組み上がり、彼女を檻のように覆い尽くす。

「えっ...!?やだ、嘘!なんで!!こんなのシナリオと違うわ!!」

アデラインは荊に覆われたまま、艶やかな黒髪を振り乱した。

「初夜で記憶が戻った私は完璧な帳簿を付けて、屋敷の赤字を整えて、三年の白い結婚に別れを告げるんでしょ!?ちゃんと後任の誰にも読めないように日本語で書いたもの!これから薄情な夫から逃れて、私は隣国で溺愛されるの!!たまたまお忍びでカフェに来た王子と結婚するんだからッ!!」

叫ぶ内容は要領を得ず、脈絡も無ければ意味も不明である。利己ばかりを必死に叫ぶ口の端は、白く泡立った唾液を飛び散らせた。

「なんとおぞましい...悪魔憑きでしょうか...」

思わず後ずさって浄化を始めるイライアス。

「...そうかもしれませんわね。でなければ狂っているとしか思えません。ですが、罪は罪ですわよ」

ルピナスはすぱりと言い切ると、喚くアデラインを置いてイライアスを振り返った。

だって、今はそれどころでは無いのだもの。これからのため、先ほどの話の続きをするべきだわ。

「ねえ、イライアス様。わたくし、ここから出て行く気はありませんわよ」

ルピナスはイライアスの瞳をじっと見つめる。

「今まで生きてきて、これほど居心地が良い生活は初めてでしたの。こんなに深く眠れたのはここだけよ。あなたの癒しの力を手放してなるものですか」

せっかくこの環境に落ち着いてきたのだ。王国に祭り上げられて、よくわからないポジションに留め置かれて腫れ物扱いなんてまっぴらである。

「私は貴方の妻でいたいのです」

堂々と言い放った彼女に、イライアスは思わず浄化の手を止める。そして震えを抑えるように、その手を胸元でぎゅ...と握りしめた。

「それは...つまり、私を選んで下さるということですか...?」

「もちろん。これからも支えてくださるでしょう?イライアス様」

ルピナスのアメジストの瞳を細めた美しい笑みは、驚きに息を呑んだイライアスの頬を綻ばせた。

彼は噛み締めるように頷くと、彼女の手を掬うように取る。

「はい、必ず...!生涯をかけて、貴女をお支えする事を誓いましょう」

初めてそっと触れ合った指先は、あの癒しの光と同じく温かい。

彼の長い指に刻まれた聖紋が、二人を祝福するようにぽわ、と淡く光を放つ。

王太子から婚約破棄を受けたが、長く辛い妃教育から解放され、売られた聖遺物は元に戻り、最後に罪人はめでたく捕らえられた。

これからようやく彼との生活が始まる。穏やかで優しく、寄り添い合うような静かな暮らしが。

使用人を新たに雇い直そう。庭に大好きな薔薇を植えて、気に入った茶器を揃え直すのもいいわ。彼の淹れてくれた紅茶を傍らに編み物をして、迎えた聖紋の子を二人で育てるの。

王太子殿下のように運命の恋でもなければ、情熱的な愛でもない。けれど、きっと温かくて悪くないわ。

ルピナスの胸の内を、イライアスの優しい体温と幸福感がじわりと満たしていく————...

「こんなの全然テンプレじゃないっ!!私の能力無双はどこにいったの!!」

背後でぎゃんぎゃんと喚くアデラインの声は、もはや二人には聞こえることもないのだった。