軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

冷めゆく紅茶

王都の朝は、薄曇りだった。

夜半の雨で石畳は黒く濡れ、行き交う馬車の車輪が泥を跳ねる。

その鈍い音が、やけに静かな邸内に響いていた。

セリーヌ・リュミエールは、朝の書斎で一通の報告書に目を通していた。

淡く香るのは、紅茶ではなくインクの匂い。

そこに記されていたのは、たった二行の文だった。

――エインズワース家、取引停止。

――バートン家、連盟より支援解除。

それは報告書というより、死の宣告のような通知であった。

セリーヌは手を止め、短く息を吐いた。

窓の外では、曇天の光が灰色の庭に落ちている。

「……終わったわね」

その呟きに、感情はなかった。

彼女にとってこれは“復讐”ではない。

あの日、約束が壊れた瞬間にすべては決まっていたのだ。

扉の外から、ノックが響いた。

「お嬢様、リリア・バートン様が面会を希望されています」

セリーヌのまつげがわずかに動く。

「理由は?」

「お詫びを申し上げたいと」

セリーヌは報告書を閉じ、机の上に静かに置いた。その仕草だけで、答えはもう決まっているようだった。

「……そう。では、紅茶を淹れてちょうだい。

私が飲み終えるまでの間だけ、お相手してさしあげるわ」

温室には、夜明けの名残がまだ漂っていた。

水滴を含んだ薔薇がわずかに首を垂れ、光を吸い込むように静まっている。

磨かれた床石に映る二つの影――セリーヌと、リリア・バートン。

リリアは両手を胸の前で組み、震える指先を隠すように立っていた。

「……お時間をいただき、ありがとうございます」

声は細く、どこか擦れている。

セリーヌは対面の椅子に腰を下ろし、紅茶を注いだ。

琥珀色の液体がカップに満ちる音だけが、会話の代わりに響く。

「構いませんわ。私の茶が冷めるまでは」

リリアはその意味を理解し、唇を噛んだ。

「私……どうしても、お詫びを申し上げたくて」

「お詫びを?」

セリーヌは紅茶の香りを確かめるように目を伏せた。

湯気が薄れ、静かな空気の中で声だけが聞こえる。

「では、お尋ねしますわ」

ゆっくりと顔を上げる。灰青の瞳が、真正面からリリアを射抜いた。

「何を詫びるつもりなのかしら? 裏切りを? それとも、立場の損失を?」

「そ、そんな……!」

リリアの唇が震える。

「……私は、ただ――」

リリアは必死に言葉を探した。

セリーヌは微動だにせず、その様子を見つめていた。

「“ただ”――ね」

セリーヌがゆっくりと紅茶を口にした。

「責任を逃れる人は、決まってそう言います。“ただ、仕方がなかった”“ただ、そうするしかなかった”――けれど、選んだのはいつだって本人なのですよ」

リリアの頬が引きつる。

視線を落としたまま、握った手が白くなる。

「……違うんです。私は……信じていたのです、アルフレッド様を」

「信じていた?」

セリーヌはわずかに笑った。

その笑みは、哀れみすらも帯びていた。

「いいえ、あなたが信じていたのは――“自分が愛されている”という幻想ですわ。彼の誠実も、私の信頼も、あなたにとってはただの飾りだったのでしょう」

「そんな……私は、そんなつもりじゃ――!」

「ええ、そうでしょうね」

セリーヌの声が重なった。

「“そんなつもりじゃなかった”。でも、壊してしまったのは事実なのですよ」

リリアは息を詰まらせ、椅子の縁を掴んだ。

爪が震え、かすかな音を立てる。

それでもセリーヌは一歩も動かない。

「あなたが壊したのは、私の婚約でも名誉でもないわ」

静かな声が、薄曇りの朝に溶けていく。

「“信頼”よ。一度失えば、どんな愛でも取り戻せないもの」

リリアの視界が滲む。

けれど、涙を流すことはできなかった。

その資格さえ、もう自分には残っていないと悟っていたから。

セリーヌは立ち上がり、視線を一度だけリリアに落とした。

「――もう、よろしいですわね。紅茶が冷めてしまうわ」

それだけを告げて、彼女は扉へと向かった。

背を向けたまま、声の温度だけがわずかに変わる。

「あなたのために言っておきます。後悔は、誰にも聞こえないところでするものですわね」

扉が閉まる音が響き、温室は再び静まり返った。

リリアの前には、もう誰もいない。

冷めた紅茶の表面に、震える涙の粒が落ちた。