軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第98話 私はパシリじゃない!決死の逃走

「……アハ、アハハハ……」

青く澄み渡る、泥靴村の空。

その下で、ハルバード随一のエリート刻印師であるゼノスは、寝巻き姿のまま泥だらけになって座り込んでいた。

彼の虚ろな瞳には、ただただ平和な雲が流れていくのが映っている。

(……世界は、滅亡しないんだ……)

毒でも、殺戮兵器でもなかった。

自分はただ、師匠の手紙に踊らされていただけだった。

徹夜で馬を飛ばし、命を削って魔石を彫り……その結果完成したのが、泥沼の工事に使う『ただのミキサー』だったのだ。

「……ゼノスおじちゃ〜ん、こわれちゃった?」

黄色いヘルメットを被った幼児が、コテンと首を傾げてゼノスの顔を覗き込んだ。

「放っとけ。どうせ勝手に一人で早とちりして、勝手にパニックになって、勝手に電池切れしただけだ。昔からこいつは、頭が良い分、無駄に深読みしすぎる癖があるんだよ」

大槍を肩に担いだバッカスが、呆れたように鼻で笑う。

「それより坊主、この『生石灰』とやらのパイル何ちゃらだっけ?、次はどこに打てばいい? ミキサーの調子が良いから、このまま一気に旅館の基礎を作り上げちまうぞ!」

「うん! つぎはあそこの赤いしるしのところ!」

ゼノスが現実逃避の笑いを漏らしながら座り込んでいる横で、五歳児と熊メガネの魔導師による、地盤改良工事が再び再開されようとしていた。

「……アハハ。そうだ、私はただのパシリ……」

全てが腑に落ちた瞬間。ゼノスは限界を迎え、糸の切れた操り人形のように泥の上へ崩れ落ちた。

***

「……ん、うぅ……」

ゼノスが目を覚ますと、そこは板の間に真新しい木棚と、竹で編まれた脱衣カゴが整然と並べられた見慣れぬ部屋だった。

「あら、やっと気がついたのねん?」

ドスッ、という地響きのような足音と共に、頭上から野太い声が降ってきた。

ゼノスが顔を上げると、そこには、見上げるほどの巨躯で奇妙な服を着たマダム・ゴンザレスが、扇子を手に立っていた。

「ヒッ……!? な、なんだお前は……!?」

「アタシはマダム。この極上温泉の女将よ! 全く、アンタあんな所で白目剥いてぶっ倒れてるから、人足たちに運ばせたのよ。さっさと温泉に入って泥を落としてきなさ〜い!」

「お、温泉……?」

マダムに気圧され、這うようにして奥の引き戸を開けたゼノスを待っていたのは、美しい和風リゾート空間だった。

「〜〜〜〜〜ッ……!」

湯船に身を沈めた瞬間、変な声が漏れた。

三徹の疲労と、あの勘違いによる精神的消耗が、極上の湯によって溶けていく。

(……私はただ、あの幼児の土木作業のパシリをさせられていただけだったんだ……)

そのときだった。

『ズドンッ!!』

『ギュルルルルルッ!!』

『ジュワアァァァァァッ!!』

(……ハッ!?)

ゼノスは弾かれたように立ち上がった。

今の音は、自分が調整した竜巻魔法だ。

ゼノスはマダムが用意した浴衣を急いで羽織ると、濡れた髪のまま温泉を飛び出した。

そこで彼が見たのは、バッカスが地面から大槍をズボォッ! と引き抜く瞬間だった。

「……なんだ、これは」

ゼノスは吸い寄せられるように近づき、地面に露出しているその岩の表面にペタリと触れた。

まだほんのりと温かい。

先ほど、師匠が大槍で深く長い縦穴を開けていたことを思い出し、ゼノスの優秀な頭脳は、これがただの表面の岩ではなく、地中深くまで続いていると思い至る。

だが、ゼノスを戦慄させたのはその工法ではなく、この岩から『魔力をほとんど感じない』ことだった。

(馬鹿な。泥を瞬時に岩の柱へと変質させるなど、建設現場でも見たことがない。この岩を作るのにどれだけ圧縮しなければならないか検討もつかない。なのに、触ってもピリッと来る残滓を感じない。これは魔法ではないということか?しかも私が寝ている間にこれだけの数を作ったのか…)

あり得ない。いろいろな法則を根底から無視している。

ゼノスはゆっくりと視線を上げ、泥沼の奥で作業を続ける師匠と五歳児を見た。

「よーし! つぎの穴! いくよー!」

「おう!」

ギュルルルルルッ!!

遠くから、自分が死に物狂いで調整した『竜巻魔法』の駆動音が響く。

だが、その後に続いたのは魔法の炸裂音ではなく、泥と『謎の白い粉』が混ざり合って放つ、ジュワアァァァッという激しい沸騰音だった。

(……師匠がこれを考えた? いや、違う。私に渡されたあの木板に描かれた仕様図……あれは師匠の字じゃなかった。もっと、子供っぽ……い……)

ゼノスはゴクリと唾を飲み込んだ。

そして、もう一つの残酷な事実に気づいてしまう。

(仕様に近づけるため安全マージンのリミッターをずらし、城門すら吹き飛ばす威力を持たせたあの『風魔法』は……ただ、あの幼児が考えた『粉と泥をかき混ぜるための泡立て器』だったのか……!?)

魔法を神秘の力でも兵器でもなく、単なる『便利な土木ツール』としか見ていない。

「……あ、あの子供は……一体何者なんだ……!?」

毒の粉で世界を滅ぼす虐殺者ではなかった。だが、あの黄色い帽子を被った幼児は、魔法使いの 常識(プライド) を根底から粉砕する、別の意味で恐ろしいバケモノだった。

「あ! ゼノスおじちゃん、おきた!?」

ビクゥッ! とゼノスの肩が大きく跳ねた。

見れば、いつの間にかカイトが短い足でトテトテと駆け寄ってきて、満面の笑みで見上げていた。

「おじちゃんのおかげで、ミキサーぜっこうちょうだよ! ありがとね!」

「ヒッ……い、いえ……」

「あのね! おじちゃん。つぎは『お水を使って木をガガガって切るまほう』とか、『おっきな石のローラーをブルブルふるわせてお道をたいらにするまほう』ってできない?

(……水で木を切る!? 石を震わせる!? 金貨が何十枚も吹っ飛ぶような加圧と振動の複合魔法を、そんな作業に使うだと……!)

ゼノスの優秀な頭脳は、即座にその意図を理解し、同時に悟った。

ここに居たら、自分のエリート人生(と寿命)が、土木工事のパシリとして終わる。

(……即刻ハルバードへ帰らないと、別な意味で命がヤバい!!)

「あ、あの! 素晴らしいアイデアですが、その刻印には『精密機材』が必要です! それに工房が今無人なので、至急戻らなければいけません! ではっ!!」

「あ、おじちゃん!?」

ゼノスはまだ濡れた髪を振り乱し、脱ぎ捨てていた上着をひったくると、粗朶道を走った。

「私は、パシリじゃないんだああぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

泥靴村の空に、今度は「逃走」の叫びが木霊する。

ゼノスは、安堵の涙を撒き散らしながら、全力で馬を走らせるのだった。