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「ただの香り袋だろう」と夫に捨てられました。では、王都の厄除け香は本日で回収いたします

作者: Sophia Rose

本文

夫が私の香り袋を踏みつけた音は、思っていたよりも軽かった。

薄絹の袋が破れ、中に詰めていた乾燥薬草と白銀花の粉が、淡い煙のように床へ散る。

侯爵家の朝食室には、蜂蜜を溶かした紅茶の香りと、焼きたてのパンの香ばしさが満ちていた。そこへ、私が毎朝調合している厄除け香の清らかな香りが、最後の抵抗のように広がった。

「リディア。いい加減にしてくれないか」

夫である侯爵グレン・アシュフォードは、苛立った声でそう言った。

私は床に散った薬草を見下ろした。

「いい加減に、とは何のことでしょう」

「その無意味な香り袋作りだ。侯爵夫人が朝から使用人のように薬草を刻むなど、外聞が悪い」

グレンの隣には、淡い桃色のドレスを着た女性が座っていた。

セレナ・リース。

グレンの幼馴染で、先月からこの屋敷に滞在している未亡人だ。

彼女は私の作った蜂蜜入りの薬草茶を両手で包みながら、申し訳なさそうに眉を下げた。

「ごめんなさい、リディア様。私が薬香室を少しお借りしたいと言ったせいで……」

「セレナのせいではない」

グレンは即座に彼女を庇った。

「お前が大げさなのだ。香り袋など、ただの貴族夫人の暇つぶしだろう。王都の孤児院だの診療所だの産院だのに配る必要がどこにある」

私は静かに視線を上げた。

「必要があるから、配っております」

「必要などない」

グレンは吐き捨てるように言った。

「セレナは最近、夜に眠れないそうだ。あの薬香室は日当たりも風通しもいい。彼女の療養部屋にする。お前は今日中に中のものを片づけろ」

「薬香室を、ですか」

「ああ」

「調合台も、乾燥棚も、保管棚も、すべてですか」

「当然だ」

セレナが小さく咳き込む。

グレンはすぐに彼女の背へ手を添えた。

「ほら見ろ。セレナは身体が弱い。お前の妙な薬草の匂いより、彼女のための静かな部屋のほうが大切だ」

私は、足元の破れた香り袋を拾い上げた。

袋の口には、王宮薬香局の小さな銀糸印が縫い込まれている。

これは、ただの香り袋ではない。

王宮薬香局に正式登録された、厄除け香。

王都の湿気に集まる魔虫を避け、産院の空気を清め、孤児院の子供たちを眠らせ、診療所の病室に入り込む瘴気を薄めるためのもの。

けれど、グレンは一度もそれを知ろうとしなかった。

「分かりました」

私がそう答えると、グレンは満足げに頷いた。

「ようやく聞き分けたか」

「はい。薬香室は本日中に明け渡します」

「それでいい」

「ただし」

私は破れた香り袋を、朝食卓の上に置いた。

「アシュフォード侯爵家名義で王都各所へ納めていた厄除け香は、すべて本日付で回収いたします」

グレンの眉がぴくりと動いた。

「何?」

「薬香室を閉じる以上、調合、乾燥、封香、品質確認ができません。王宮薬香局の規定では、製造責任者が保管環境を失った場合、流通中の登録香は速やかに回収する義務があります」

「何を馬鹿なことを」

「馬鹿なことではありません。正式な規定です」

「たかが香り袋だろう!」

グレンが声を荒げた。

私は彼を見つめた。

「では、たかが香り袋を回収しても問題はありませんね」

朝食室が静まり返った。

セレナが不安げにグレンを見上げる。

「グレン様……?」

「リディア、脅しているのか」

「いいえ。手続きです」

私は背筋を伸ばした。

「本日正午までに、王都南診療所、東区孤児院、王宮指定産院三か所、王立夜警詰所、下町の共同井戸管理所へ、回収通知を出します。午後には王宮薬香局へ製造環境喪失の届出を提出いたします」

「勝手な真似は許さん」

「勝手ではありません。製造責任者は私です」

「侯爵家の金で作っているのだぞ」

「いいえ」

私は首を横に振った。

「材料費の七割は、私の持参金から出しております。残り三割は王宮薬香局からの補助金です。侯爵家の会計から出ているのは、運搬に使う馬車代だけです」

グレンの顔がわずかに強張った。

彼は知らなかったのだ。

いいえ、知ろうとしなかった。

私が毎朝、なぜ夜明け前に起きていたのか。

なぜ手袋をしても指先に薬草の色が染みていたのか。

なぜ王都の医師や助産師たちが、侯爵家に礼状を送ってきていたのか。

彼は一度も、開封された礼状に目を通したことがなかった。

「リディア」

グレンは低い声で言った。

「お前は侯爵夫人だ。家の名誉を考えろ」

「考えたから、正式に回収します。品質保証できないものを出し続けることこそ、家の名誉を傷つけます」

「屁理屈を」

「では、薬香室はそのまま残しますか?」

グレンは黙った。

隣でセレナが小さく袖を掴む。

「グレン様、私……やっぱり別の部屋でも……」

「いや、君が遠慮することはない」

グレンは私を睨んだ。

「薬香室は明け渡せ。だが、香り袋の回収など認めん」

「認めていただく必要はありません。製造責任者として、私が判断します」

「夫に逆らうのか」

「王宮薬香局の規定に従うだけです」

私は一礼した。

「では、失礼いたします。午前中は少し忙しくなりますので」

そうして、私は朝食を一口も食べずに部屋を出た。

廊下に出ると、侍女のマリが青ざめた顔で待っていた。

「奥様……本当に、回収なさるのですか」

「ええ」

「ですが、王都南診療所は今、熱風邪の子供が多いと……」

「だからこそ、無責任な供給はできないわ」

私は破れた香り袋を手の中で握った。

「薬香室を失った状態で作ったものを、いつも通りの効き目だと偽って渡すほうが罪になる」

マリは唇を噛んだ。

「旦那様は、何もご存じないのですね」

「知る機会はいくらでもあったわ」

私は薬香室へ向かった。

扉を開けると、乾いた薬草の香りが迎えてくれる。

白銀花。

月桂草。

眠り菫。

火除け薄荷。

井戸清めの青苔。

棚には、用途ごとに分けた薬草瓶が並んでいる。壁には乾燥途中の束が吊るされ、中央の調合台には、今朝仕上げるはずだった産院用の香り袋が置かれていた。

私はそれをそっと箱に戻した。

「マリ。王宮薬香局への届出書を用意して。理由は、製造環境の喪失。責任者はリディア・アシュフォード。回収対象は、王都全域に納入している登録厄除け香すべて」

「はい」

「それから、各施設への通知も。謝罪文を添えて。必要であれば、王宮薬香局から代替品を手配していただくよう申請する、と」

「すぐに」

マリが走っていく。

私は一人、薬香室の中央に立った。

窓から差す朝日が、調合台の上を白く照らしている。

この部屋を作ったのは、私がこの家に嫁いできた翌年だった。

最初は小さな趣味の部屋だった。

けれど、下町で魔虫による熱病が流行したとき、私の作った香り袋が井戸端の虫を遠ざけた。

産院で夜泣きの止まらない赤ん坊が続いたとき、眠り菫の香が母親たちを眠らせた。

孤児院で冬に瘴気咳が広がったとき、白銀花の香が病室の空気を清めた。

それから王宮薬香局の検査を受け、登録香として認められた。

アシュフォード侯爵家は、王都の暮らしを陰から支える名家として評判を得た。

グレンはその評判だけを喜んだ。

誰が何をしているのかは、気にしなかった。

昼前、最初の使者が来た。

王都南診療所の医師だった。

「奥様、回収とはどういうことですか!」

白髪混じりの医師は、薬香室の前で帽子を握りしめた。

「申し訳ありません。製造環境を維持できなくなりました」

「ですが、今週は熱風邪の子供が十六人も入っております。あの香がなければ、夜間の魔虫避けが……」

「王宮薬香局に代替品の緊急手配を申請しています」

「代替品では効きが弱いのです。奥様の調合は、王都南区の湿気に合わせてある」

私は胸が痛んだ。

「ご迷惑をおかけします」

「奥様のせいではないのでしょう」

医師は静かに言った。

「薬香室を閉じると聞きました。まさか、侯爵閣下が?」

私は答えなかった。

けれど沈黙だけで、医師は理解したようだった。

「……分かりました。診療所として、王宮薬香局へ意見書を出します」

「意見書?」

「王都南診療所は、アシュフォード侯爵夫人リディア様の登録香を継続供給する必要がある、と」

「それは」

「患者を守るためです」

医師は深く頭を下げた。

「奥様。どうか、ご自分を安く扱わないでください。あなたの香で助かった者は、大勢おります」

彼が帰ると、次は東区孤児院の院長が来た。

続いて、産院の助産師。

夜警詰所の隊長。

共同井戸管理所の老人。

皆が困惑し、驚き、そして最後には同じことを言った。

「王宮へ申し立てます」と。

夕方になる頃には、侯爵家の門前に何台もの馬車が停まっていた。

グレンは執務室で苛立っていた。

「何なのだ、これは!」

彼の机には、王都各所から届いた抗議文が山のように積まれていた。

「南診療所からは供給停止への再考願い。東区孤児院からは継続嘆願。王立夜警詰所からは夜間巡回への支障報告。産院からは清浄香停止による出産環境悪化の懸念。井戸管理所からは魔虫増加の危険……」

グレンは書状を床へ投げ捨てた。

「なぜこんなことになる! 香り袋だぞ!」

私は執務室の入口に立っていた。

「ただの香り袋ではないと、朝に申し上げました」

「黙れ!」

セレナは長椅子に座り、落ち着かない様子で指を絡めていた。

「グレン様、やはり薬香室はリディア様にお返ししたほうが……」

「今さら退けるか」

「けれど、皆様お困りのようですし」

「セレナ」

グレンは彼女に優しく声をかけ、それから私に向き直ると険しい顔になった。

「リディア。回収を取り消せ」

「薬香室は?」

「それはセレナが使う」

「では、回収は取り消せません」

「なぜ分からない。お前が今まで通り作ればいいだけだろう」

「どこで作るのですか」

「厨房でも物置でも使えばいい」

私は思わず息を止めた。

厨房。

物置。

王宮登録香を、そのような場所で作れと言うのか。

「王宮薬香局の規定では、登録香は専用室での調合が義務づけられています。湿度、温度、乾燥期間、保管容器の管理記録も必要です」

「細かいことを言うな」

「細かいことが、人の命を守ります」

グレンは顔を赤くした。

「お前はいつからそんなに偉くなった」

「偉くなったつもりはありません」

「侯爵夫人の役目は、夫を立て、家を守ることだ」

「私は家を守ってきました」

「薬草遊びでか?」

その言葉に、胸の奥で何かが静かに切れた。

大きな音はしなかった。

ただ、もう戻らないと分かった。

「分かりました」

私は机の上に、一通の書類を置いた。

「これは何だ」

「王宮薬香局へ提出する製造責任者変更不可の届出です」

「変更不可?」

「アシュフォード侯爵家が今後、私の名を使って登録香を製造・流通させることを禁止する申請です」

グレンが書類を掴んだ。

「ふざけるな!」

「ふざけておりません」

「侯爵家の名で得た登録だ!」

「いいえ。登録名義は、リディア・アシュフォード個人です。侯爵家は後援者として記載されているだけです」

グレンの手が震えた。

彼は初めて、登録証を読んだのだろう。

「お前……私に恥をかかせる気か」

「恥をかかせているのは私ではありません」

「誰だと言うのだ」

「香り袋を踏みつけ、薬香室を奪い、規定を無視して作れと言った方です」

セレナが顔を伏せた。

グレンは怒鳴ろうとした。

そのとき、執務室の扉が叩かれた。

「閣下。王宮薬香局の方がお見えです」

入ってきたのは、濃紺の制服を着た女性だった。

王宮薬香局副局長、エルヴィラ・ノートン。

彼女は私を見ると、わずかに表情を和らげた。

「リディア様。届出、確かに受理いたしました」

「お手数をおかけいたします」

「いいえ。むしろ、迅速な回収判断に感謝いたします。登録香の品質維持において、非常に適切な対応です」

グレンが慌てて立ち上がった。

「副局長殿、これは誤解です。妻が少々大げさに」

「大げさ?」

エルヴィラ副局長は、冷ややかにグレンを見た。

「専用薬香室を製造責任者から取り上げ、登録香の製造環境を失わせたことが、大げさだと?」

「いや、それは家庭内の部屋の使い方で」

「登録室は、王宮薬香局が検査済みの製造設備です。勝手な用途変更は、登録条件の重大な変更に当たります」

グレンは言葉を詰まらせた。

「しかし、侯爵家としては王都への供給を続ける意思が」

「製造責任者はリディア様です」

「私は夫です。侯爵家の当主として」

「登録香の責任者権限は、夫のものではありません」

エルヴィラ副局長の声は、淡々としていた。

「また、王都南診療所、東区孤児院、王宮指定産院、夜警詰所、井戸管理所から、リディア様の登録香の継続供給を求める緊急嘆願が届いております」

グレンの顔色が変わった。

「そんなに……」

「はい。さらに、王宮衛生評議会からも照会が入りました。王都の公衆衛生に関わる登録香を、一侯爵家の私的都合で停止させたのか、と」

部屋の空気が凍った。

セレナが震える声で言う。

「グレン様、私、本当に薬香室はいりません。リディア様にお返ししましょう」

「黙っていろ」

グレンは苦々しく言った。

けれど、彼の声にはもう朝のような勢いはなかった。

「リディア。薬香室は戻す。だから回収を取り消せ」

私は彼を見た。

「戻す、とは」

「だから、お前が使えばいいと言っている」

「セレナ様の療養部屋にはなさらないのですか」

「別の部屋を用意する」

「そうですか」

私は頷いた。

「では、王宮薬香局の再検査後、問題がなければ製造を再開いたします」

「再検査?」

「一度、製造環境喪失の届出を出しましたので」

エルヴィラ副局長が続ける。

「再登録検査には最短で三日かかります。乾燥棚、保管瓶、調合器具、換気、記録簿を確認します」

「三日も止まるのか!」

「侯爵閣下が薬香室を取り上げた結果です」

エルヴィラ副局長は容赦なかった。

「なお、王宮薬香局としては、リディア様に王宮直轄の薬香室を提供する用意があります」

私は驚いて顔を上げた。

「直轄の薬香室、ですか」

「はい。王都東庁舎の一室です。以前から、リディア様の調合を王宮管轄で安定供給できないかという話が出ておりました。今回の件で、必要性が明確になりました」

グレンが愕然とした。

「待て。それでは、アシュフォード侯爵家の功績が」

「功績?」

エルヴィラ副局長は首を傾げた。

「功績は、リディア様個人のものです。侯爵家のものではありません」

グレンの顔が赤から青へ変わっていく。

「リディア、お前はそれでいいのか。侯爵家を捨てる気か」

「私は、王都の人々に必要な香を届けたいだけです」

「妻なら夫の家に尽くすべきだ!」

「私は尽くしました」

私は静かに言った。

「ですが、踏みつけられた香り袋を、もう一度同じ場所へ差し出すつもりはありません」

グレンの口が開いたまま止まった。

セレナが小さく泣き出した。

「私のせいで……」

私は彼女を見た。

「セレナ様」

「はい……」

「本当に療養が必要でしたら、王都南診療所を紹介します。夜眠れないのでしたら、眠り菫の香が合うかもしれません。ただし、医師の診断を受けてからです」

セレナはぽろぽろと涙を落とした。

「リディア様……私、あなたのものを奪うつもりでは……」

「奪うつもりがなかったのなら、次からは誰かの部屋を欲しがる前に、その部屋が何を支えているのかを確認なさってください」

彼女は何も言えなかった。

翌日、王都では少しだけ混乱が起きた。

夜警詰所では魔虫避けが足りず、巡回兵たちが腕を刺された。

産院では清浄香の代替品が弱く、助産師たちが窓辺に古い香皿を並べてしのいだ。

孤児院では眠り香がなく、幼い子供たちが夜中に泣いた。

そのたびに、王都の人々は知った。

侯爵夫人が配っていた香り袋は、飾りではなかったのだと。

三日後、私は王都東庁舎の薬香室に立っていた。

そこはアシュフォード家の薬香室より少し広く、窓の向きも良かった。乾燥棚は新しく、保管瓶には王宮薬香局の銀印が入っている。

マリも私について来てくれた。

「奥様、いえ、リディア様。白銀花の乾燥具合、問題ありません」

「ありがとう。南診療所分を先に仕上げましょう」

「はい」

調合台の上には、新しい薄絹の袋が並んでいる。

私は薬草を量り、香を合わせ、銀糸で口を閉じた。

指先に懐かしい香りが戻ってくる。

そこへ、エルヴィラ副局長が入ってきた。

「リディア様。王都南診療所から礼状です。孤児院からも」

「まだ再開したばかりですのに」

「待っていたのでしょう」

彼女は微笑んだ。

「それと、アシュフォード侯爵家から面会願いが来ています」

私は手を止めなかった。

「どなたからですか」

「侯爵閣下です。謝罪したいと」

「お断りください」

「承知しました」

迷いはなかった。

あの家に戻れば、また同じことが起きる。

必要なときだけ私を持ち上げ、理解する気もなく、都合が悪くなれば「妻なのだから」と押さえつける。

私はもう、誰かの名誉のために香を作るつもりはなかった。

「それから、もう一件」

エルヴィラ副局長が書類を差し出した。

「王宮衛生評議会より、リディア様を王都厄除け香管理官補佐に推薦したいとのことです」

マリが目を丸くした。

「管理官補佐……!」

「正式な官職です。登録香の調合だけでなく、王都各区の気候や衛生状態に合わせた香の配分計画にも関わっていただきたいそうです」

私は書類を受け取った。

そこには、私の名が記されている。

リディア・アシュフォード。

いいえ。

私は羽根ペンを取り、少し考えてから、署名欄にこう書いた。

リディア・ベルフォード。

嫁ぐ前の、私の名。

「リディア様……」

マリが息を呑む。

「侯爵家には、離縁の申立書を出します」

私は静かに言った。

「薬香室を奪われたからではないわ。香り袋を踏まれたからでもない」

窓の外では、王都の屋根が夕日に染まっていた。

「私が何を守っていたのか、最後まで知ろうとしなかったから」

エルヴィラ副局長は深く頷いた。

「王宮薬香局は、リディア様の判断を尊重します」

その日の夕方、最初の再供給分が王都南診療所へ運ばれた。

翌朝、孤児院の子供たちから手紙が届いた。

つたない文字で、こう書いてあった。

『いいにおいがもどってきました。きのうはよくねむれました』

私はその手紙を、調合台の前にそっと飾った。

香り袋は、ただの袋ではない。

目に見えない不安を和らげるもの。

眠れない夜を少しだけ短くするもの。

清められた空気の中で、誰かが明日を迎えるためのもの。

だから私は、今日も薬草を刻む。

誰かの夫に認められるためではなく。

侯爵家の名誉を飾るためでもなく。

この王都で暮らす人々が、少しでも穏やかに息をできるように。

白銀花をひとつまみ。

眠り菫をふたつまみ。

火除け薄荷を少し。

最後に、封じ香の銀粉を落とす。

薄絹の袋を閉じると、淡く清らかな香りが部屋に広がった。

私はそれを掌に乗せ、微笑んだ。

今度こそ、この香りは踏みつけられない。

正式な記録と、必要としてくれる人々の手で、守られているのだから。