作品タイトル不明
第二百四十三話
◇◇◇クルル◇◇◇
ジレーヌを出立する際、主人であるイーリアに言われたことがいくつかある。
まず、頼信にいつまでも怒っていないこと。
必ず無事に戻ること。
それから頼信が無理をしそうなら、止めること。
三つ目を口にする時、イーリアは心苦しそうだった。
イーリアは飄々としているように見えて、他人の好意を怖がっているところがある。
頼信たちが自分のために無茶することを、本人はまったく望んでいないのだ。
クルルとしては頼信にもっと無茶をさせるくらいでちょうどいいのではと思っているのだが、なんであれ最愛の主人の顔を暗くすることは望まない。
重々しくうなずいていたら、四つ目を耳打ちされた。
頼信との関係を進めてくること。
イーリアの顔を見返したクルルは、その時だけは、不忠の従者だった。
こうしてゾノフスにやってきたわけだが、やはり現地に来るとあれこれと難しさが明らかになってきた。
ただ、頼信はフローネとやらに言われた一言で少し吹っ切れたようで、ようやく自分たちのやりたいことを、支配者らしく言えるようになった。
けれどその頼信は、奴隷交易を実際にどう停止させるかとなったら、言葉が止まった。
どんなことでも奇妙な知識でどうにかしてきた鉱山帰りでさえ、難しい話なのだ。
そしてクルルが役に立てるとすれば、魔法関連くらいしかない。思いつく解決法も、魔法で吹き飛ばすのがせいぜいといったところ。
だからいっそ命じてくれさえすれば、喜んで魔法を放つのにと、クルルなどは思う。
フローネとの会話の後、クルルは部屋に戻り、硬い魔石を手の中で弄びながら、自分の凡庸さに呻いていた。
「現場を見に行きませんか?」
それが、急に頼信からそう提案された。
現場というのは、奴隷獣人たちの働く現場、ということらしい。
そんなものを見に行ってどうするのか、という疑念が顔に出ていたのだろう。
頼信はいつもの苦笑いを見せて言った。
「頭の中だけで考えていると、すぐ足を踏み外しますから」
頼信の卑屈な態度が好きになれないクルルだが、こういう慎重さは嫌いではない。
それにロランの連中もあのルベールとかいう魔法使いも、相手を見誤ってひどい目に遭った。
ならば自分たちもまた、きちんと足を使って調べて損はないだろう。
それからクルルとしては、誘われたのが単純に嬉しかった。
「ま、お前にしては良い判断だ」
どの判断が良かったのかはあえて曖昧にしておいたが、ほっとしたように笑う頼信に、クルルの尻尾は機嫌よく揺れていた。
◆◆◆
奴隷獣人はゾノフスの町にもちょくちょくいるが、大々的に動員されているわけではない。
労働内容も家事手伝いとか商品の荷運び、あるいは建築のための資材を運ぶことが多いようで、ロランと大差ないと言えばそうだし、いまいち全体像の把握には至らない。
ただ、クルルの耳は、道行く獣人から向けられるあまり好意的ではない気配を、もちろん敏感に察知していた。
おそらくバダダムたち体格の良い獣人を連れていることもあり、支配者側におもねっていい目を見ている裏切り者、とでも思われているのだろう。
そんなのはもう慣れっこだったし、やるべきことをやるだけだ。
頼信の発案が、ヴォーデンの典型的な奴隷獣人たちの様子を見たいというものだったので、一行はゾノフスから北上し、海辺を目指すことになった。
農業や岩塩鉱山の採掘に従事する獣人たちもいるが、数がさほど多くなかったり、距離が遠いとのことだった。
それからその土地の有力者の裁量で奴隷の扱い方がだいぶ変わるので、やはり漁に従事する獣人たちが全体の実情に近いというのが、フローネの弁だった。
土地が痩せているヴォーデンでは、魚は重要な食料となる。可能な限り安く、継続的に、大量に魚を獲る必要があるため、漁場にいる奴隷獣人たちは大体どこも同じ待遇なのだと。
奴隷獣人の相場も魚の値段を基準にしているというので、ヴォーデン属州で最後の最後まで奴隷獣人が残るとしたら、漁場だろうとフローネは言っていた。
つまりヴォーデンの連中は、自らが生きる糧を最後の最後まで、獣人たちに獲らせようというのだろう。
その傲慢さと理不尽さに、クルルは大きくため息をつく。
そんな折りのことだ。
馬に乗れない大宰相様のため、 仕(・) 方(・) な(・) く(・) 同じ馬に乗っているクルルの腰に回された腕が、強張った。
「あの」
控えめな、頼信の声。
「すみません」
どうやら、ため息のことを勘違いしたらしい。
肩越しに軽く振り向いたクルルは、はっと鼻で笑う。
「確かに馬くらいは乗れるようになったほうがいいとは思うが」
「面目ないです……」
前の世界では家名持ちの市民だったというが、剣を振れず馬にも乗れない。
奇妙な世界だと思いながらも、颯爽と馬を乗りこなす頼信というのも、クルルには今更想像がつかない。
クルルの知っている頼信とは、まさに今クルルの後ろでしゅんとしている、情けない頼信だ。
「だが」
クルルが言うと、頼信は少しだけ顔を上げた。
「私がいれば馬に乗せられるし、バダダムやらがいれば担いでもらえる。ブンギョー、というやつだろう?」
頼信が持ち込んだ奇妙な働き方。
けれど自分の腰に回された腕の感じから、クルルは頼信の不満を感じ取る。
「それだとやはり、半人前と言いますか……皆さんがいない時に、困りますし」
クルルは前を向いたまま、くつくつと笑った。
いろんなことを見通せるのに、こいつは本当に周りが見えていない。
「お前がぽつんと一人で取り残されていたら、半刻だって生きてられないだろ。どんな状況だろうとそうなっている時点で、私たちは取り返しのつかない状況に陥っているはずだ」
クルルはそう言ってから、はっきりと身をひねって頼信を振り向いた。
「だから気にせず、私にしっかり捕まっていろ」
大規模魔法陣の「穴」に落ち、十日も眠っていたあとに目を覚ましたら、最も憔悴していたのはこの頼信だった。
クルルはその間抜けな様子を見た瞬間、胸が締め付けられるという感覚を覚えた。
それはたくさん読んでいた物語ではわかりやすい言葉で表現されていたが、クルルが感じたのはもっと別の、なにか強い使命感に似たものだった。
あくまで似たものであって、使命感と言い切れなかったのは、そこにたっぷりの優越感があったせいだ。
フローネの出してきた飲み物を不用意に飲み、泣きそうな顔でこちらを見た時も、胸の内を直接触られたかのようにぞくぞくした。
イーリアを守ろうと思うのとはまた違うその感覚は、庇護欲というやつなのかもしれない。
運命に翻弄され、理不尽に頭を低くするしかなかったクルルが、生まれて初めて体験する感情だった。
だらしないゲラリオを前にした時に感じる感覚とも近いが、頼信のほうに感じるものはもっと柔らかい。
それから、頭の奥がしびれるような感じもある。
自分の腰に回されている頼信の腕を掴み、クルルはそれを収まりの良い場所に調整する。
クルルが頼信を導くのであって、その逆ではない。
けれどクルルが危機の時は、格好いい奴になってこちらの手を取ってくれる。
そんな写本じみた関係に、クルルは深く深く、満足を覚えるのだ。
「文句があるか?」
つい口角が上がって、犬歯が覗いてしまう。
頼信は諦めに似た表情を見せてから、小さく笑った。
「滅相もありません」
クルルの耳が、朝露でも当たったかのようにぴんと揺れる。
今すぐ馬の腹を蹴って、全速力で駆けだしたくなる。
クルルは肩を揺らして笑い、四つ目の主命をクルルに告げた時の、イーリアの顔を思い出す。
あなたのお気遣いは、まったく大きなお世話ですとも御主人様。
クルルはそんな反逆を胸中で呟いて、手綱を握り直す。
それに今はこんな情けない頼信だが、きっとこのヴォーデンを覆う理不尽も、鮮やかに解決してくれるはず。
なんだかんだ、こいつは大宰相なのだから。