作品タイトル不明
第二百九話
『漆喰を持ってこい! なに⁉ 無いだと⁉ 構わん! 泥でもなんでも、とにかく詰められるものをありったけだ!』
鬼気迫る様子で、獣人の一人が叫ぶ。
背後からの強烈な逆光のせいで、まさしく鬼の形相だ。
ただ、彼らの迫力とは、今まさに命がけの作業の真っ最中だということの表れでもあった。
なぜならその必死さでさえ簡単に飲み込むほどの、凄まじい轟音が響き続けているのだから。
本能的に足をすくませるそれは、すべてを燃やし尽くす業火の音だ。
地獄の窯の一部が崩れてしまい、どうにか穴を塞ごうと奮闘している真っ最中。
なめし皮の重装備に身を包んだ獣人たちが、吹き出す炎に手を突っ込んで果敢に煉瓦を積み直しているが、彼らの持ち上げた煉瓦に枯れ草が触れると簡単に燃え上がる。
獣人たちは毛皮が燃えないように水を被っているので、誰も彼もが体を沸騰させていた。
そんな獣人たちに押しつぶされそうになりながら、煉瓦の積み上げに指示を出している小さな人影がある。
煉瓦職人のアランだ。
魔法研究所(仮)ではいつも穏やかに煉瓦を撫でているアランだが、この場ではどんなトラブルにも動じず、鬼人の如き働きぶりを見せていた。
今、バードラの町郊外で行われているのは、新しい鉄製錬炉の実験だった。
この世界では金属精錬技術があまり進歩しておらず、原始的な炉がある程度。
掘った穴か積み上げた石の炉に鉱石を放り込み、大量の燃料でわずかな量を生産するにとどまっていた。
なんなら必要に応じて魔法使いが火炎魔法で一気に鉄を製錬し、人々が恭しくその神の金属を頂くこともあるのだとか。
いずれにせよ非効率極まりなく、おかげで金属製品全般が、びっくりするほど高価だった。
それは、この世界の文明がどうこうというよりも、大部分は需要の問題なのだろう。
魔法使いがいれば、雑兵が鎧に身を包むことの意味は薄い。盾や剣も、多少の鉄の質の差で戦いがひっくり返ることなどないのだ。
だから技術革新が起こらない。
おまけに獣人たちがいて、彼らは鉄にも劣らぬ爪と、重機のような太い腕を持っている。苦労して鉄を得て道具を作るよりも、獣人に飯を食わせて働かせたほうが安く済んでしまう。
獣人たちはその爪で畑を耕し、鉱山の岩を掘り起こし、太い筋肉で人間十人分の働きをする。
よって、鉄はますます生産されなくなるのだが、異世界人としてはここで考えるべきことがある。
そんな獣人たちに鋼鉄の道具を持たせたら、一体どうなるのか、だ。
きっと十日分の仕事を、一日で終わらせられるようになるだろう。
そうすれば今まで十人の獣人で生産していた食料を、たった一人で生産できるようになる。
暇になった残り九人は別の仕事に振り分けられるから、今までは二人しかいなかった兵士を五人にしたり、三人は学校に通ったり、銀行窓口に立つ人員だって増やせるだろう。
こうして生産性の高さが領地を豊かに、同時に強くしていくのだ。
帝国に目を付けられはじめ、大規模な戦力を整えなければならない今、生産性は文字どおりにジレーヌ領の命運を分かつことになる。
そのために必要なのが、道具を作る原料としての、鉄の大量生産だった。
要は産業革命であり、産業革命とはいわば鉄の革命のことである。
それに今のジレーヌ領では鉄を自ら生産できず、全部輸入に頼っている。
魔石鉱山が富の源泉である領地としては、鉄製品の輸入は手痛い出費だった。
この鉄製品を内製化できるだけでも島の財政はかなり改善するし、魔石鉱山で働く獣人すべてに鉄の道具を持たせられれば、ものすごい生産の増強が見込めるはずだった。
さらに自前で高品質の鉄を生産できるようにすることで、可能ならば蒸気機関にたどり着いておきたかった。
もしも蒸気機関を実用化できれば、様々な力仕事を自動化できるだけではない。
海洋航路を掌握できるはずなのだ。
蒸気船を用いれば、文字どおりにこの世界の船乗りたちを置き去りにできる。
帝国の情報を集める限り、この世界ではまだ大陸型の帝国が幅を利かせている。それは船が風任せであり、せいぜい櫂を漕いでの快速船しか存在しないせいだ。
いくら魔法使いが存在する世界でも、人や物の運搬には物理法則が適用される。
ここで天候に左右されない蒸気船を生み出せれば、まとまった軍勢の計画的な高速運用が可能となり、馬と獣人による行軍しかできない大陸型の帝国軍を翻弄できるはずだった。
それと、もうひとつ。
帝国中枢にいるのが本当に寄生生物系の魔物だった場合、危険を冒して倒すよりも、遠い遠い土地に逃げるのを選んだほうがよいかもしれないのだから。
前の世界でも、壊滅的な病害虫から人や作物を守ってくれるのは、大きな川や、広大な海という天然の障壁だったりする。
とにかく、今この世界の人々は蒸気機関のようなものを想像だってしていないだろうが、自分や健吾はさらにその先の世界の形まで知っている。
だから即席産業革命に向けてまっしぐら!! などと、意気込んでいた、の、だが。
『どけ! 下がっていろ!』
『なにしてる! 邪魔だ! 焼け死にたいのか!』
「おい、そこ! ぼさっとしてないで、とっとと新しい煉瓦を――こ、これは、ヨリノブ様……申し訳ないのですが、離れていてもらえませんかね……」
文字どおりに体から煙を立ち昇らせながら走り回る獣人たちと、鬼気迫る様子で働く人間の職人たちの間で、自分は鼠のように右往左往していた。
現場が大混乱なのは、想定外の問題だらけなのと、その問題をどうにかその場で取り繕おうとしているせいだった。
たとえば少し離れたところでは、今まさに炉の補修に使う煉瓦が焼きだされていて、ろくに冷ます間もなく運ばれてきては、崩れた壁の隙間に積み上げられていた。
煉瓦の隙間を埋める石灰もひっきりなしに練られ、骨材になる砂利や泥を掘っては運ぶ者たちや、井戸もないからバードラの町から木桶に水を入れて担いでくる獣人たちだっている。
その大騒ぎの合間で、炉の火の色を見て温度を推測し、燃料や鉱石の追加を指示したり、次々壊れていく木製ふいごや様々な工具類の修理を突貫でやる人間の職人親方たちがいた。
自分はそこで、まったくの役立たずだった。
当初は、炉の今後の運営のため、改善点をメモしておこうなんて思ったが、そんな暇も余裕もなかったし、そもそもこの炉が明け方まで崩壊せずにいられるかどうかすら怪しかった。
というかここまで過酷な現場になるとは露ほども思っておらず、自分の知識チートは果たして本当に正しかったのかと、泣きそうなくらい不安になってしまっていた。
異世界から来て、産業革命の大枠を知っていて、この世界ではまだ開発されていない製錬炉の仕組みを知っている。
だからその構想をみんなに語るだけでたちまち実現できる……なんてふうにはいかないのだ。
この世界では誰も挑戦していない技術を形にしようというのだから、誰も直面したことのない問題が噴出する。
自分がどれだけ知識チートを語ろうとも、アランをはじめとした町の職人たちが、知恵を絞って手探りで進むしかない。
おまけにまったく新しいことだから、作業手順を事前に計画したところで、気休め程度のものでしかない。
あれがない、これが足りないと、その場になって初めてわかることだらけだし、足りない物を補充する手順についてまでは考えていなかった、なんてことが山ほどある。
しかも製錬のための巨大な炎は、文字どおりに命の危険を伴っていた。
自分が勇ましく提案したのは、人の命を簡単に奪いかねない危険な作業なのだと、全然気がついていなかった。
新しく作りたいのは高炉形式だから、煙突状の炉を作り、炉の上から燃料の木炭と鉱石を交互に入れていき、下からふいごで強い風を送り込み続ければいいと、言葉で書くなら簡単だ。
しかし高炉のてっぺんから燃料と鉱石を放り込むには、櫓を立てなければならない。
いかにも簡単に聞こえるが、火を入れたら猛烈な熱でかんかんになっている炉に沿うような形で、ということを忘れていた。
煉瓦の厚みが足りなかったのか、放射される熱によって櫓の梯子はたちまち煙を上げ、一部が燃え出した。
慌てて水をかけ、補強し、炉から距離を空けたが、そんな不穏な梯子に登るのは重たい木炭と鉱石を担いだ獣人たちということも想像できていなかった。
不穏な音を立ててぐらぐら揺れる梯子と櫓を登りきったら、今度は地獄の業火が噴き出す炉の入り口めがけ、重い燃料と鉱石を放り込まねばならない。
その危険と恐怖は、その場に立ち会ってみないとわからないし、見ているだけで息が止まった。
ましてや炉の一部が崩れて炎が噴き出す場所に煉瓦を突っ込むなど、どれほどの勇気と苦痛に耐える必要があるのだろうか。
文明の火、といえば聞こえはいい。
けれど文明とは、産業とは、これほどに荒々しいものなのだ。
こんな恐ろしいことを気楽に提案してしまったことを、自分ははっきりと後悔していた。
知識と実践の間には、大きな、とても大きな溝がある。
現場を知らない自分が軽々しく口にすべきことではなかったのだ。
今まではたまたまうまくいってきただけで、ついに化けの皮が剥がれる時がきた。
これはもう、一度中止にすべきだ。
そうすることが、知識チートだ! なんて張り切って提案した間抜けの、最低限とるべき責任なはずだから。
高炉はもはや制御できるとは思えない状況で、職人や獣人たちが命がけで維持している。
まだ取り返しのつくうちに……と思った瞬間だった。
「くそぉぉ! 気を付けろ!」
もう何度目かわからない炉のひび割れから、火炎がほとばしる。
近くで補修していた獣人が火の粉をまともに浴びて倒れ込む。
あっ、と自分が声を上げる間もない。
桶を手にした者たちが駆けつけて水をかけ、倒れた獣人が立ち上がろうとするのを、みんなが助けようとする。
そのすべてが、無音映画のように見えていた。
人々が必死になって、自分の浅はかな思いつきに付き合わされている。
駄目だ、言わないと、今すぐ言わないと。
やっぱりやめましょう。
その叫びは、別の声でかき消された。
『火傷など問題ではない!』
立ち上がった獣人が、びしょぬれの泥だらけのまま叫んだのだ。
そして泥のゴーレムさながらに、火を噴きだす炉に突進し、右手に握り締めたままだった煉瓦を押し込んだ。
『次の煉瓦だ!』
その迫力に、周囲の者たちも我に返り、次々に必要な物をもって駆けつけた。
何人かは桶を手にして、炉を修復する者たちに水をかけていく。
人も獣人も関係ない。
その様子に呆気に取られていた自分は、ついに火炎を堰き止めた者たちが叫ぶのを聞いた。
「我らで魔法を越えるのだ!」
それは、鉄鍛冶職人の親方だったし、呼応したのは獣人だった。
『魔法がなくともこれだけの火を起こせるのだ! ワレラの手で、魔法使いに並ぶのだ!』
それはこの世のどこで叫んでも、不穏な雄たけびだったかもしれない。
けれどこの場で非難する者はいなかった。
いるはずがない。
なぜなら、高炉の大まかな枠組みを話した時、鉄鍛冶の親方たちがまさに「そんなのは魔法使いの領分だ」と慄いたが、そんなことはないときっぱり言った奴がいたのだから。
むしろ魔法使いに頼っていてはこれからの需要に適応できないから、魔法使いでもおいそれと使えないだけの炎を生み出す必要があるとぶち上げた奴がいた。
彼らはそうやって煽り立てられ、そして、それはできるはずのことなのだと信じて取り組んでくれた。
魔法使いとは、ただそれだけで貴族身分であり、超常の力を持つような特権階級だ。
それを持たぬ者たちの鬱憤というのは、常に心の奥底にあったのだろう。
それは人だけでなく、獣人たちならなおのこと。
だから自分はようやく、みんながなぜこれほど命がけで挑んでいるのかを理解した。
島で偉い大宰相様がそうしろと言ったから、だけでこんなに夢中になるはずがない。
ファルオーネはいみじくも言った。
ヨリノブ殿の世界では、魔法使いでなくとも魔法を使えるのだな、と。
人も、獣人も、地獄の窯のような出来損ないの高炉を維持するのに必死だった。
それは、彼らが世界の脇役から、主役に手を伸ばそうとするための狼煙なのだ。
中止にしようだなんて、言えるはずがなかった。
自分にできるのは、ただ祈ることだけ。
死者が出ず、けが人が出ず、炉がこれ以上崩壊しないようにと。
そして、どうか、どうか鉄が溶けますようにと。
墨汁のような黒い空に、真っ赤な炎と火の粉が飲み込まれていく。
世界の始まりの光。
あるいは魔法の世界の終わりかもしれない光が、煌々と夜空の下で輝いていた。
夜が明けてから、その日の一番船でクルルがバードラに渡ってきた。
そのクルルは、白い煙が立ち上る泥濘の中、点々と人と獣人が倒れて眠りこける様を見て、呆気に取られたらしい。
そしてそんな現場でぽつねんと立ち尽くし、未だ煙を上げる炉を見つめる間抜けな大宰相を、見つけたらしかった。