軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第百七十九話

***頼信④***

「ヨリノブ殿の世界の軍師は言ったそうだな。敵を知り、己を知れば、百戦危うからずと」

ファルオーネの言葉に、高校生の頃にこじらせて暗記した孫子の兵法を得意げに語ったことを思い出してやや恥ずかしくなるが、やっぱり話が繋がらなかった。

自分たちが知りたいのは、この世界の茸をはじめとした菌類についてであり、可能なら寄生虫についても知りたかった。

しかしファルオーネが複製しようとしているのは、古代帝国語の研究本なのだ。

こちらを見たファルオーネは、そんなこと百も承知、とばかりにうなずいた。

「ヨリノブ殿が探しているのは、敵のことをよく知る者たち。世の中の変わり者だったな。森羅万象に興味を持ち、森に分け入っては虫や茸の絵を描いて、家族から嫌がられているような者たちだ」

いわゆる博物学者。

前の世界にもまだ謎が満ち満ちていた時代、その世界を整理しようと立ち向かった人々がいた。

前の世界の知識チートは確かに役に立つが、それではどうにもならないことがある。

この世界ならではの知識をかき集めている人々の協力が、どうしても必要だった。

あのクウォンの山で、ヘレナは古代帝国崩壊について、ある仮説を立てた。

茸やカビのような捉えどころのない生き物が悪魔化し、人を操る魔法を覚えた結果、生み出された彼らの繁殖システムが、帝国なのではないかと。

一見すると荒唐無稽なその仮説を、自分はすんなり受け入れることができた。

なぜなら、微生物の面白雑学を聞きかじっていた自分には、いくらでも心当たりがあるからだ。

動物をゾンビ化させ、その行動を不気味なほど正確に操る寄生虫は存在する。

哀れな宿主を生きたまま苗床にする菌類など珍しくない。

菌に腹部を食い荒らされて脱落してしまっているのに、その菌に操られて狂ったように交尾行動を繰り返す蝉の哀れな姿は、ホラー映画よりひどいものだ。

もちろんその菌が蝉に交尾行動を繰り返させるのは、菌の苗床となっている腹部を相手にこすりつけ、菌が効率的に拡散できるようにするためだ。

ほかにも名前がよく知られているトキソプラズマは、鼠に寄生すると鼠の脳をいじくって、普通の鼠ならば恐れて絶対に近寄らない猫の尿の匂いを好むようにしてしまう。

それは、トキソプラズマが、首尾よく鼠ごと猫の腹に収まるためだ。

前の世界にいる、魔法を使わない連中でさえ、そういう芸当をやってのける。

ならばこの世界の生物たちは、どれほどのことをなすだろうか。

やれ菌退治だと、前の世界の常識を基準にして突撃すれば、とんでもない思い違いによって、あっさり全滅するかもしれない。

そもそも菌類の厄介さというのは人類の想像を絶しがちで、あれだけ科学技術が発展した前の世界でも、敵対する菌類を根絶できていないのだから、最も油断してはならない相手とさえ言えるかもしれない。

確かに、この世界には魔法が存在し、なにもかもを焼き払えるだけの火力が出せるかもしれないが、下手をしたらその魔法攻撃だって、前の世界にいた連中の一部の最強種は耐え抜きかねないのだ。

たとえば古細菌と呼ばれる一群がいて、彼らの中には海底の熱水噴出孔に住む者がいる。そこは数百度の熱水と硫黄が噴き出す、従来の常識では生命体が存在しえない地獄そのものの環境だ。

しかし彼らはそこにこそ楽園を見出して、見事な生態系を作り上げている。

ならば魔法の存在する世界に暮らす微生物は、どうだろう?

トカゲが竜になるような悪魔化を経た菌類がいたとしたら、どうだろう?

彼らがどれほど不死身の体を手に入れているのか、どうやって想像できるのだ?

きちんと調べて、事実を観察し、頭の中の目盛りを右に回さなければならない。

かつてのロックンローラーはこう言った。

コンサートで客の尻を蹴飛ばすために、アンプの目盛りを12に合わせろと。

普通、アンプの目盛りは10までしかないので、そのロックンローラーの言葉は心意気の話なのだが、ここは異世界だ。

ア(・) ン(・) プ(・) の(・) 目(・) 盛(・) り(・) が(・) 本(・) 当(・) の(・) と(・) こ(・) ろ(・) は(・) い(・) く(・) つ(・) ま(・) で(・) あ(・) る(・) の(・) か(・) 、勝手に思い込むべきではない。

「だが、ヨリノブ殿が言うような、暇に飽かせて森の生き物を観察し、動物も食べ残すような茸を口にする変人は、道楽貴族と相場が決まっている。そしてその手の知識を持つ連中というのは、総じて一筋縄ではいかん」

「自己紹介か?」

ルアーノの茶々に、占星術師はむしろ誇らしげだ。

「金貨を積んでも簡単にはなびくまい。この本を書いたドブリンは、たまたま金に困っていたからいいようなものだ。偏屈な道楽貴族が大事にしている秘密を覗き見ようと思えば、搦め手が必要になる。ヨリノブ殿は、相手の首に剣を突きつけるのはお好みではないだろう?」

「それは、はい」

「そこで、写本なのだよ」

ファルオーネが、長めの鬚を摘まんでくるりとひねる。

「知識を追い求める連中は、常に知識に飢えている。永遠に満たされることなどない。しかも愚かな連中の中には、相手になにかを教えると「知識が減る」と思っている者がいる。だからこちらからも、貴重な書籍を差し出すのだ。我々の世界では――」

ファルオーネが室内でも羽織っている外套を、芝居がかったしぐさでばさりと払う。

「書物こそが通貨である」

「そのための……人手、ですか」

悪そうに笑うファルオーネだが、モノに溢れた世界から来た自分には、長らく欠けていた視点だった。

と同時に、鼻の奥に校庭の土埃の匂いを思い出す話でもあった。

ゲーム機のソフトから漫画の単行本まで、貸し借りが当たり前だった子供の頃。

人気のブツを持っていれば一躍時の人で、それを餌に用いれば、誰が所有しているどんなものでも、借りることができたものだ。

「その点で、古代帝国語の文法書は悪くない逸品だ。知識を好む者たちの家には、古代帝国語の書かれた紙の切れ端の一葉や二葉、必ずあるものだからな。そこになにが書かれているかわかるかも、という誘惑には耐えられまい」

ドブリンが研究成果を見せたがらないのは、その辺りが原因かもしれない。

皆が知りたがる知識なら、出し惜しみをすることで、高値で売れる。

「しかしヨリノブ殿の目標を聞くだに、圧倒的な量が必要になるだろう? 欲しい知識の方向性は決まっているが、誰がその望む知識を持っているかはわからないのだから」

そうだった。

近隣一帯で評判の変人でも、帝国全体となれば何百人、何千人となる。

そしてそのうちの誰が本当に貴重な知識を持っているかは、事前にはわからない。

だから誰もが欲しがりそうな本を、山ほど複製する必要がある。

しかしコピー機などないし、活版印刷すらなく、すべての文字は手で写し取らねばならない。

そしてジレーヌ領の頭脳と言える魔法研究所(仮)は、今のところたったの四人である。

その内のルアーノは、魔法教団の調査のために出かける予定があるから、残り三人。

文字を読み、正確に書ける者は島の中でも限られている。

現時点で島にいる文字の読み書きができる者は、ほとんどがロランから来ている人間で、健吾やコールたちも島の行政システムやらの構築に追われている。

人手、人手、人手。

魔法がある世界なのに、魔法でも解決できない問題を前に唸っていたら、それまで静かだったゼゼルがおずおずと言った。

『あの、それと、ヴォーデン属州の悪魔のことも、ありますよね?』

「はっ!」

顔を上げると、ゼゼルが申し訳なさそうにしていた。

『ヨ、ヨリノブ様がクウォンから悪魔を連れ帰ったのなら、ヴォーデンの鉱山にいた悪魔もここに連れ帰るか……その、ヘレナという悪魔となるべく早く、対面させたほうが良いのでは、と思うのです。えっと、その悪魔の娘が、どれだけこの島で生きていけるかもまだわかりませんし……』

「いかにも! やることが多くて飽きないな!」

ファルオーネは笑いながら、ドブリンから強引に借りてきた資料類を、どさどさとゼゼルとアランの前に振り分けていく。

「だが、ヘレナ嬢をヴォーデンに連れていくのも、向こうから連れてくるのも、今すぐには無理だろう。せめてゲラリオ殿が戻ってきてからやるべきだ」

ヘレナも、あの鉱山にいた悪魔も、理性を失っているわけではない。

しかしどれだけ懐いているペットでも車の運転時には膝の上に乗せるなと言われているのだから、そこらにいる誰かに悪魔の移送を頼むわけにはいかない。

なんならふたりの悪魔が揃った途端、勝機ありと牙を剥く……かもしれない。

そんなことは思いたくないが、彼らには自分たちの知らない事情があるかもしれない。

油断していいことではない。

「というわけで、今はせっせと手を動かすべきだ。そもそもドブリンの奴が酒から覚める前にやらんとならんからな。なあに、悪魔どもは何百年も生きているのだ。そう簡単に死にはすまい!」

ファルオーネのいささか乱暴な結論だが、ゼゼルもアランも好奇心を刺激されるのか、特に嫌そうな顔をせずに振り分けられた本をぱらぱらとめくり、目を輝かせている。

ゼゼルたちも魔石の暗号解読の際、ファルオーネから古代帝国語の基礎文法を教えてもらったらしいが、ドブリンのそれは失われたはずの発音に関するものが多い。

彼らのような知的好奇心に満ちた者たちには、総じてお宝と言える知識のようだ。

ただ、自分はそんな彼らを前に、いささか申し訳ない気持ちになる。

帝国を操っているかもしれない菌を念頭に据えた、博物学者の知識を集める計画においては、ファルオーネの言い分はまったく完全に正しかった。

知識人から知識をかき集めるには、対価を差し出さねばならず、それは黄金ではなく、黄金に近い別の知識である。

本はそのまま渡したら消えてしまうが、複写することで手元に残すことができる。

相手から対価として受け取った書物を増やしていけば、交換するレパートリーも加速度的に増えていく。

そう考えれば、ファルオーネの言うとおり、徹底的に書物を増やすべき。

けれど自分には、この研究所に集う精鋭たちの頭脳を最大限活用するための、また別の計画があったのだ。

ジレーヌ領に迫りくる危機は、ひとつではない。

菌よりもよほど切実で、わかりやすい敵と、戦わねばならないのだ。

自分は大きく息を吸って、勇気を振り絞って言った。

「あの、ですね。ファルオーネさんのお話はまったくもってそのとおりなのですが」

本人を含むその他の面々も、こちらを見る。

「人手のないところ、さらに恐縮なのですが、もうお一人、どうしても別のお仕事を緊急で頼みたいのです」

ファルオーネが眉間にしわを寄せ、ゼゼルが耳を立てている。

自分は、言った。

「アランさん」

その言葉に一番驚いていたのは、この研究所では常に影が薄い感じの、元煉瓦職人だった。