作品タイトル不明
420 サーモンとディル
「それでフィリップ様はご正体をあかされたのですか?」
手早く入浴を済ませ、晩餐の為に正装をするフィリップのシャツのボタンを留めながらクルーガーは尋ねた。
「ううん。去年レナードに言われていたとおり、レナードの遠縁のボルネア男爵家の三男って言った」
どうも王様や将軍様が旗本や男爵の三男坊を自称するのは、この世界でも高貴な方の定番らしい。
「確かに男爵家の数は多く、庶民に家名はわかりづらいですからね。いつかはわかる事ですが…」
クルーガーはカフスボタンを袖に付けながら穏やかに相槌を打つ。
「うん。そうだね。なんとなく、僕が王子だって言いたくなかったんだ」
「それで、よろしいかと」
「うん」
フィリップにもご学友と呼ばれる友達はいる。だが身分の垣根を越え、ただの『フィル』として接してくれるのはこの村の子達だけなのだ。
いずれ知れてしまうだろうが、今はそれを無くしたくなかった。
「整いました」
「うん」
鏡を見ると、フィルから王子フィリップになった自分がいる。
クルーガーに先導され食堂に向かうと、アデライーデがにこやかな笑顔でフィリップを待っていた。
「久しぶりのリトルスクールは楽しかった?」
「はい。とても!」
席に着くとすぐにリトルスクールの話になり、食前酒として炭酸水で割ったアプフェルヴァイン(シードル りんご酒)が出された。
現代だと子供にシードルなんて!と思われるが、この世界ではワインへの地ならしとして飲まれることが多い。冬場にはアイアープンシュ(Eierpunsch)というカスタードのような味の卵酒などもお酒の入門編として飲まれているのだ。
今は夏なので、喉越しの良い冷やしたアプフェルヴァインを給仕が二人の前にサーブする。
薄い琥珀色のアプフェルヴァインの炭酸割りは、昔よく飲んだ◯ァンタアップルの甘みを少なくしてリンゴ酢を少し足したような味がして、陽子さんにとってはちょっと郷愁をそそる味である。
「今日は、頂いたサーモンのお料理を出してもらうのよ」
「楽しみです!」
フィリップの訪問と同時に届けられたノアーデンからのお届け物はぴっちぴちの生きたサーモンだった。なんでも船でノアーデンから来る途中で捕まえたサーモンを特製の生簀に入れ、メーアブルグから持ってきたと聞いた。
サーモンと一緒に来たノアーデンからの料理人は、アルト達と一緒に本場のサーモン料理に腕を振るってくれるというので、陽子さんもとてもこの晩餐を楽しみしていた。
「まずはサーモンの前菜2種です。こちらはスモークサーモンに刻んだ胡桃とディルを混ぜ込んだクリームチーズを添えております。本国で作り持ち込んだものとなります」
お皿の上には、ハーブを散らされ2種類のサーモン料理が並んでいた。
「こちらがスモークサーモンなの?」
「はい、保存食となりますので塩漬けにした後にブナの木を使って燻製にしたものになります」
前世で馴染みのあるスモークサーモンは一度塩漬けにしたサーモンを塩抜きし低温で時間をかけて燻煙したものが主流だが、ノアーデンのスモークサーモンは前世でホットスモークサーモンと言われるものだった。
「こちらは?」
「こちらはグラブラックスというノアーデンの伝統料理です。昔はサーモンを塩漬けにして砂浜に埋めて軽く発酵させて作っていましたが、現在では塩と砂糖、各種ハーブを混ぜたものに数日漬け込んで作るようになっています。添えてある茹じゃがいもにホヴメスタルソースを添えてお召し上がりください。お好みででスライスオニオンにレモンでもさっぱりといただけます」
ノアーデンの料理人が丁寧に説明してくれた。ソースはマスタードに砂糖やレモン汁、ワイン酢などが使われた鮮やかな黄色がベースで、サーモンの赤と刻まれたディルの緑が目にも鮮やかだった。
グラブラックスの見た目の方が前世のスモークサーモンに似ている。
ースモークサーモンはしっかり火が通っている薄切りのサーモンって感じね。燻製の香りがいい感じだわ。胡桃のクリームチーズと合わせるとすごく美味しい!
ーグラブラックス! 美味しいわ。サーモンの味が濃い! お刺身っぽくってすごくいい!
「初めて食べるけど、とっても美味しいわ! 両方とも美味しいけどグラブラックスをもっと食べたいわ」
「はい。美味しいですね。私はスモークサーモンが、気に入りました」
フィリップは生っぽい食感に慣れないのか、スモークサーモンの方が気に入ったみたいだ。陽子さんはこっそりとアプフェルヴァインの炭酸割りを白ワインに変えてもらった。
二人の称賛にノアーデンの料理人も満足そうに微笑んでいる。
サラダは食べ慣れた小エビのサラダが出てきて、次に出てきたのはロヒケイットという名の具だくさんのサーモンスープだった。
ロヒケイットはサーモンからとったスープで丸く形を整えたじゃがいもにんじん蕪を柔らかく煮て、一口大に切ったサーモンを身崩れないように入れたクリームスープである。仕上げに刻んだディルが散らしてある。
ふっくらとしたサーモンは、口にいれるだけでほろほろと砕けていきスープにサーモンの味がしっかり出ている。
料理人にアデライーデは料理のコツを聞きながら、フィリップはリネアがどんな料理を好むのかを聞きながら楽しく食事は進んでいく。
そしてメインディッシュは、サーモンのグリルにサワークリーム添えである。大きめに切られたサーモンはしっとりとしていて脂も程よく乗っているのだが、味付けがシンプルな塩味だからだろうか、いくらでも入りそうである。付け合わせには酢漬けのたまねぎのスライスと、きゅうりの薄切りを丸めたものが飾られていた。
ー久しぶりに食べるサーモンは美味しいわぁ。確か贈られて来たサーモンはまだあったはずよね。
陽子さんは本格的なノアーデン料理に舌鼓を打ちつつ、明日は残っているであろうサーモンをどう料理しようかと白ワインを飲みながらにまにまと考えていた。