軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

349 封蝋と塊

「さてと…書き終わったわ。マリア、いつものようにお願いね」

ローザリンデとエルンスト宛の手紙を書き終わり、ペンレストにガラスペンを置くとアデライーデはマリアに声をかけた。

「はい、ただいま」

紙箱(レターケース) の横の封蝋箱からマリアは太く短い蝋燭を取り出し火をつけると、メルトポット―猫足の小さな五徳―を蝋燭に被せ置き、メルトポットの上に小さなアイスクリームディッシャーのような形をしたスプーンを置いた。

そのスプーンに刻んだ赤い封蝋のかたまりを5.6粒入れると、封蝋はゆっくりと溶けてゆく。

マリアは封蝋が溶け始めたのを確かめると、アデライーデ用のシーリングスタンプを封蝋箱から取り出しアデライーデの手元に置いた。

アデライーデの 封蝋印(シーリングスタンプ) には、ネモフィラの花の中に瀟洒な字体で書かれたアデライーデの頭文字が浮かび上がっているデザインだ。

離宮に移ってすぐの頃、アデライーデ専用の私的な封蝋印を作るからと好みの意匠を聞かれ作ってもらったものである。

マリアは封蝋が頃合いに溶けたのを見計らって、メルトポットからスプーンを外して封筒に溶けた蝋を丸く垂らした。

アデライーデは封蝋印を手にとって、マリアの合図を待つ。

少しだけ封蝋が固まりかけた頃、マリアが「どうぞ」とアデライーデに声をかけた。アデライーデは真剣にゆっくりと真っ直ぐに蝋の上に封蝋印を置いた。

溶けた蝋がしっかり固まるまで、そのままにして印がしっかり形ついた頃合いに封蝋印をペリッと剥がす。

封蝋が固まりすぎると印が封蝋から離れなくなる。最初はタイミングが分からずに何回か封筒を無駄にしていたが、最近はほぼ失敗もなくなった。

「では、レナード様にお願いしてまいります」

できたてほやほやの手紙を銀のトレイに載せて、マリアが書斎を出ていくとアデライーデは机の引き出しにある 封蝋印帳(シーリングスタンプリスト) を取り出した。

アルヘルムの私的なスタンプは武具のモチーフでテレサは百合、フィリップは馬の蹄鉄のモチーフである。

‐‐これって皇族方のお印や 花押(かおう) みたいなものよね。文房具屋さんでアルファベットのついたものを見たことがあるけど、私専用のものを作ってもらうなんて思ってもみなかったわ。

アデライーデの公的な封蝋印はバルク王家の伝統に則ったデザインがされ、それは今でも使った事がない。正妃として公的な手紙を書く時にだけ使うので、それは王宮に大事に保管されている。

王族の封蝋印はお付き合いのある国や相手に、事前に公的なものと私的なものが押されたものが送られるようになっている。

手紙を受け取った相手は、事前に送られた封蝋印と見比べ、それが確かに本物の手紙かどうかを判断するのだ。封蝋印がない手紙は、例え筆跡が似ていても本物とされないらしい。

‐‐お手紙1つとっても、貴族や王族って大変なのね。

アデライーデがリストを引き出しにしまった時に、マリアが書斎に戻ってきた。

「アデライーデ様。お手紙は明日帝国に出していただけるようですわ」

「そう。ありがとう」

「それと、海岸へのお散歩の準備が整ったようで明日お出かけできるそうです」

「本当に?」

新年の行事やコーエン達の慶事で、ここしばらくお忍びのお出かけが全くなかった。久しぶりにメーアブルクにお出かけがしたい、海でも見たいとレナードに頼んでいたのだが、お天気の関係と警備の都合で伸び伸びになっていた。

「久しぶりねぇ。楽しみだわ」

「はい。お出かけは久しぶりです」

アデライーデはメーアブルクの市場で掘り出し物を見つける楽しみと、マリアはアデライーデをコーディネートできる楽しみを思い浮かべ、お互いにんまりと笑い合った。

翌日、良いところの商家のお嬢さんというお忍びの装いで朝からメーアブルク街を楽しみ、市場で新鮮な魚貝類をしこたま買い込んで、ほくほく顔のアデライーデは海岸線をマリアと散歩していた。

「良い買い物ができたわね。さすが港町だわ。お魚が新鮮だったわね。それに以前より外国のものが増えたんじゃない? 小物屋台も増えているみたいだし」

「……確かにお魚は新鮮だと思いますが…。よろしかったのですか? お買いになったのはお魚とか皆へのお土産ばかりでしたが」

「大丈夫よ。アルトにはお魚買って帰るって言ってあるもの」

「確かにそうですが…」

メーアブルクは以前よりズューデン大陸からの珍しい小物が増えている。現代の中東っぽい文化を持つズューデン国の珍しい布や小さな絨毯やアクセサリーを専門に扱っている店もちらほら出てきた。

初めてみる布やアクセサリーにマリアは少し興奮したが、アデライーデはさらりと見て、マリアやミアや子供達への物をいくつか買っていた。

アデライーデが興奮気味に目を輝かせて真剣に吟味して買ったのは魚介類だけであった。

‐‐一流の物に触れるアデライーデ様には、市場で買えるアクセサリーや布には興味をそそられないのかもしれないわ。

マリアはそんな風に思っていたが、現代人である陽子さんには、ズューデンのものは見知っているものが多い。絨毯も布もアクセサリーも、お値段さえ合えば現代の日本では割とすぐに手に入れられるものばかりだ。

陽子さんにとって、この世界では新鮮な魚介類の方が貴重なのだ。

お陰で護衛についてきた離宮の警備副隊長のギャレン・マルクは観光地の宅急便のお兄さんのようにアデライーデが買った魚のトロ箱を荷車を借りて離宮に配送を頼む羽目になっていた。

少し肌寒い海風が吹く海岸を散歩していると、子供達が遊んでいる光景が目に入った。バケツを持っているので、貝でもとっているのかと近づいていくと、兄らしき大きな子が他の子を叱り始めた。

「お前ら、ちゃんと貝を集めろよ! かーちゃんに怒られるぞ」

「もう集めたじゃんか」

「まだ足りねぇよ」

「もう飽きたー」

「あ! ちゃんとしろよ! これぶつけるぞ」

そう言ってバケツを置いて逃げ出そうとした弟達に向かって、近場に落ちている黒い塊をスコップですくって見せつける。

「逃げろー」

「お前らー」

兄がピッとスコップで投げた黒い塊がアデライーデの足元に転がってきた。

「あ!」

マリアとギャレン・マルクが咄嗟にアデライーデを庇うように動く。

一瞬固まったアデライーデがその黒い塊を凝視して小さく声をあげる。

「うーにー!」