作品タイトル不明
146 唐揚げと食べ物の恨み
「さてと…」
朝食を済ませマリアとお茶をしてから、アデライーデはキッチンでエプロンのリボンを結んだ。
昨日市場で手入れた魚醤を試す為だ。
買った魚醤は3種類。癖の強いもの、一般的なもの、海老で作られたもの…。どれも多少の色の濃淡はあれどぱっと見た目にはお醤油に見える。
「アデライーデ様、魚醤とはなんですの?」
「私も本で読んだくらいなのだけど、お魚を塩漬けにして1年ほど置いて発酵させたものを絞ったものらしいわ」
「腐らないのでしょうか。なんとなく瓶から臭うのですが」
「発酵だからね…」
腐敗と発酵のシステムは同じである。人にとって有益なのは発酵、有害な場合を腐敗と呼んでいるだけである。
魚に慣れないマリアは、嗅ぎなれない匂いに敏感に反応して、ちょっと顔が強張っていた。
よく使われていると言う魚醤を手に取り栓を抜くと、独特の匂いがキッチンに漂う。
--魚自体の匂いに慣れてないと、ちょっときついかもね。
マリアの顔が益々強ばるがアデライーデは小皿にとってちょっと舐めるとかなり塩っぱい。
塩っぱいがお醤油っぽい。
確かに癖はあるが、エスニック料理好きの陽子さんには許容範囲だ。
「使えそうだわ」
「そうでございますか?本当に傷んでいるわけではないのですか?」
「慣れない匂いだとそう思うわよね。窓を開けてくれる?」
ハンカチで鼻を抑えていたマリアはありがたいという顔をしてキッチンの窓を開け放った。
陽子さんは知らないが、前世のヨーロッパでも魚醤はある。
魚醤はタイのナンプラーやベトナムのニョクマムが有名だが、魚をよく食べた古代ローマではアンチョビの内臓から作られたガルムと言う名の魚醤がよく使われていたそうだ。
今でも南イタリアの方では、コラトゥーラという魚醤が使われてそのコラトゥーラを使ったパスタは郷土料理として地元では愛されている。
--確か火を通せば、かなり匂いはとんじゃうって聞いたような気がするわ
アルトに用意してもらった鶏もも肉を一口大に切って、すりおろしたにんにくと生姜そして魚醤を目分量で入れて、鶏もも肉を漬け込んでお皿で蓋をした。
マリアはササッとメモを取る。
「さてと…こっちの方ではどうかしら」
癖の強いと言われていた魚醤の蓋を取ると、さっきの魚醤よりもっと強い匂いが一気にキッチンに広がる。
「これは…」
「!!!」
マリアが堪らずキッチンの隅に後ずさりし、涙目でこちらを見ていた。
--納豆を出した時のマイクの反応と同じね。
薫が短期間留学でアメリカに行った時に仲良くなったマイクが日本に遊びに来たとき、マイクは日本で納豆とこんにゃくとフグを食べてみたいと言うので朝食に納豆を出したときと同じ反応だ。
食べやすいように卵の黄身を混ぜてあげたが、一粒でマイクは断念して「いい経験になった」とフォークを置いたのだ。
--横で大笑いしながら納豆トーストをパクついていた薫を、マイクは恐ろしいものを見るような目で見ていたわね。
ブルーチーズも同じようなもんだろうと思うが、食文化の違いはしょうがない。
「こっちの魚醤はまた今度にしましょう」
蓋を念入りに閉じると、コクコクとうなずくマリアを見てあとの魚醤はアルトと2人の時に試してみようとキッチンの隅に仕舞い棚からポテトスターチを出してきた。いわゆる片栗粉だ。
片栗粉をまぶして、じゅわーっっとちょっと低めの温度でじっくり揚げてから、高温でサッと2度揚げをする。
揚げ始めてからはにんにく醤油の良い味がキッチンに広がってゆきマリアの顔も穏やかになってきた。
「揚げると、いい匂いになってくるのですね」
「ほんとね。本当に火を通すと、匂いは気にならなくなるのね」
ちっちゃな唐揚げをつまむと、肉汁がじゅわりと広がってゆく。にんにくの香りのあとから醤油より旨味が強い感じの味が追いかけてくる。
--これは、いい感じね。
試食の準備をしてマリアにアルトを呼んでもらう間、アデライーデはレモンを串切りにして絞り唐揚げを更に盛り付けた。
「アデライーデ様、今日は魚醤をお使いになったフライですか?」
「そう、唐揚げって言うのよ」
「カラアゲ…」
「衣をつけずに粉だけはたいて揚げるから空揚げ…」
「ほぅ」
「さっ、食べてみて」
アルトは迷わず唐揚げを切ると口にするが、マリアは揚げる前の匂いを嗅いでいるのだから仕方がないかもしれない。覚悟を決めるようにして口にした。
「お…美味しい…」
「にんにくが食欲をそそりますね。もも肉だからか肉汁が豊富で柔らかい…。この味は魚醤のものですか?肉の味にも合いますね…それにあの匂いが全くない…」
実はアルトは以前メーアブルグの屋台で添えられていた魚醤を口にした事があるのだ。魚に付けて食べるんだと教えられ、ちょっとだけつけて食べたが匂いと味に慣れなかった。
アデライーデが料理に魚醤を使いたいと言い出した時には、正直止めようかと思ったくらいだったのだ。
「これ…本当に美味しいですわ…。あの匂いのソースでこんなに美味しいものができるなんて信じられない」
匂いが駄目だったマリアもすでに2個目を口にしている。
「最後の1個はレモンをかけてみて、さっぱりするわよ」
「あとを引く美味しさですね」
アルトは3個めの唐揚げをレモンをかけて食べ終わると、ちょっと遠慮しがちに厨房の皆に試作の試食をさせても良いかと聞いてきた。
アデライーデのレシピの最初の味見役はアルヘルムとなっているが、厨房の調理人とアデライーデ付きの侍女のマリアは除外されている。
しかし、一昨日アデライーデと試作に夢中になり昼の賄いと夜の賄いの仕込みをすっぽかし一人だけ沢山の料理を食べてきたアルトはみんなに拗ねられていた。
みんなはたくさんの食材を抱えて入っていったアルトを見て期待に胸を膨らませていた。
--アデライーデ様との試作が終わったら、ちょっとは口にできるはず!
それはそれは楽しみにしていたのに、ニコニコ顔のアルトは手ぶらでアデライーデのキッチンから出てきたのだ。
その時のみなの絶望した顔は、この世の終わりといった風情だった。
「良いなぁ。料理長は…」
「だよなぁ。アデライーデ様のお手製の試作の食べ放題…」
「自分も食べてみたいです…」
「自分達も試作食べてもいいはずです…」
「な…何なんだ…これは料理長としての仕事なんだぞ!」
確かに1人で、アデライーデの料理を満喫した。
アルトはちょっぴり…いや、かなり心苦しくて翌日作ってやるからと約束していたが、アデライーデのお出かけに同伴して作ってやれなかったのだ。
仕方がないが、今日の厨房はちょっとどんよりした雰囲気が流れている。
「もちろんよ。ここで作っていく?」
アデライーデの許可をもらい、大量のにんにく魚醤唐揚げと塩唐揚げを揚げたアルトは、皆からやっと許してもらった。
食べ物の恨みは怖いのだ。