軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第54話 その頃、さいぞうさんは……

古びた石造りの外壁を、黒装束の男が登っていく。両手に持った鉤爪を石材の僅かな隙間へと差し込み、ほんの親指ほどの段差に足を掛ける。

小柄で細身の男だ。だが意外に毛深い。

正面の城門からヒューゴが放つ凄まじい覇気で、石壁までがぐらぐらと揺れる

「フッ……!」

思わず息を吐く。

(陛下、お手柔らかに頼みますよ……!)

ここで落ちては時間の無駄だ。

ザックは切れそうになる集中力をかき集める。だが、どうしても思い出してしまうのだ。

この砦は、かつて十六歳だったヒューゴの、初陣となった戦場なのだ。

まだ頬に幼さの残る彼が、初めて人に剣を向けた場所だ。当時からヒューゴの剣技は群を抜いていて、そのため彼の父親である前皇帝は、息子を使い勝手の良い兵器としか見ていなかった。

はじめて会った頃のヒューゴは、人一倍感受性が強く、繊細な少年だった。

手のひらの血糊を見つめて震える主君を、ザックは見守ることしかできなかった。

あの時……声をかけていたら、ヒューゴは『人間嫌い』などと呼ばれることもなかったかもしれない。

その後悔は常にザックの中にある。

(思い出したくもない場所で……陛下は戦っておられる)

一度手を止めて、深呼吸をする。今は感傷に浸っている場合ではない。

ザックに取っても戦場などは、どれも等しく胸糞の悪い場所だ。だがこの砦は、かつて細部までを内偵したことがあるのだ。

(兵士の詰所も武器庫も食堂も、全て把握している)

動物の研究をするならば……おそらく地下牢だろう。毛玉様もそこに囚われいる可能性が高い。

外壁を乗り越えると、ザックは音を立てずに中庭へと着地した。

中庭は肩すかしと感じるほどに静かだった。兵士たちは皆、ヒューゴが引き付けてくれているのだ。

地下室の入り口には、さすがに見張りの兵がいたので、ザックは背後から近づき吹き矢で眠らせた。重い鉄扉を開け、内部へ滑り込む。

扉を閉めてしまえば、外の喧騒は遠のき、人の気配は格段に減った。湿った空気が肌にまとわりつき、壁の松明の明かりがゆらゆらと頼りなく揺れている。

ザックは真っ直ぐに見張り兵の待機部屋へと向かった。

中には三人の兵士がいたが、なぜか酒盛りをしていた。地上の騒ぎはここには連絡すら入っていないらしい。

椅子から立ち上がる隙も与えず全員を沈め、そのまま並ぶ牢の中を一つずつ確認しながら奥へと進む。

中程の牢の前に立った時、ザックの足が止まった。奥の壁にへばりつくように、身を寄せ合う姉弟の姿があったのだ。

ヨシュアがフラフラと立ち上がり、イレーヌを背にしてザックを鋭く睨みつけた。

その顔は鼻血で汚れ、額からは血がダラダラと流れている。腹部を蹴られたのか、呼吸をするたびに苦しそうに顔を歪めていた。

「来るな……! 姉上には、指一本触れさせないぞ!」

「ローマン姉弟だな? 皇帝陛下の命により迎えに来た」

格子の鍵をカシャンと開ける。先ほどの見張り兵から奪ったものだ。

ヨシュアの緊張がふっと解け、ヘタリと座り込む。イレーヌが支えるが、オロオロと取り乱している。

普段の落ち着いた様子は、見る影もない。

「……弟を、こちらに」

少年の体に触れる。浅い呼吸と痛みの走り方から、すぐに状況を察した。

「……肋骨にヒビが入っているかもしれません。おい、よく頑張ったな。姉さんは無事だ。お前が守った」

ヨシュアは薄く笑うとガクリと意識を失った。

「ヨシュア!」

「大丈夫だ、気を失っただけだよ」

その言葉を聞いた瞬間、イレーヌがぐっと息を呑み、立ち上がった。

スカートのペチコートを引き裂き手際よく畳むと、ヨシュアの額の傷にきつく巻きつけ、止血を施す。その手つきには、先ほどまでの怯えは微塵もなかった。

「……毛玉様の行方をご存知か?」

「……連れて行かれてしまいました。派手な軍服の人に……。でもあの部屋には、まだ研究員が残っています」

ザックは頷くと、奥の作業室に潜んでいた研究員を迷わず引きずり出し、壁に押しつけた。

「毛玉様はどこだ?」

「ひっ……! あ、あの毛玉なら、軍の将校が地上へ連れて行きました!」

ザックは研究員の首筋に冷たい刃を当てたまま、もう片方の手で机上の研究資料を素早く確認した。

そこには、動物を凶暴化させる薬と、森にその狂化薬を散布するための装置の設計図だった。

(獣医師殿の情報だと、動物を思い通りに操る薬……だったが、凶暴化とは……! しかもそれを森に散布するだと?!)

「おい、森の動物を、無差別に狂わせるつもりか……!?」

散布装置の場所を吐かせると、ザックは研究員を気絶させて拘束した。

「すまない、君たちを外まで送ることができなくなった。緊急事態だ。ここでこのまま待っていてくれるか?」

「いいえ、私がヨシュアを背負って脱出します。道順を教えて下さい」

「そうか……。ここまでの兵は全て無力化してある。階段を登って中庭を左に行けば裏門だ。森へ出たら西に進め。猟師小屋がある」

「中庭を左、裏門を出たら西ですね」

イレーヌがヨシュアを背負って復唱する。

「朝までには必ず誰かを迎えに行かせる。それまで頑張れるか?」

「はい……。後日、出頭致します」

「弟は、なるべく動かさない方がいい。目を覚ましたらこれを飲ませろ」

腰の物入れから、鎮痛と消炎の薬を渡す。

「よし、行け!」

「はい!」

イレーヌは、意外にも逞しい足取りで階段を登って行った。あとは幸運を祈るしかない。

(毛玉様を探して……装置も破壊しなければ……!)

散布装置を放置すれば、森の生き物すべてが地獄を見る。

(……陛下、どうかご武運を。俺は行けなくなりました)

ザックは地上への未練を断ち切ると、足音を消して、暗い地下室の奥へと身を翻した。