作品タイトル不明
第53話 怒りの皇帝陛下
ザックの報告を聞くと、ヒューゴは執務室の奥、豪奢な飾り棚へと静かに歩み寄った。
そこに安置されているのは、一振りの大剣。
(もう一度、この剣を抜く日が来るとはな……)
宝剣アウステリア。国の名を冠する堂々たるその剣は、かつて泥沼の戦場でヒューゴが数多の敵兵を斬り伏せ、血の海を築き上げたトラウマの象徴でもある。
戦争が終わって以来、決して抜くまいと封印していた刃だ。
ヒューゴの長い指が、柄をギュッと握り込む。
チャキッ――。
僅かな金属音を響かせ、鞘から半寸だけ抜かれた刃が、月明かりを受けて氷のように冷たく光る。
「ザック」
ヒューゴは振り返らずに、背後の闇に溶け込んでいる影に向かって口を開いた。
「俺は……ペットの毛玉一匹のために、帝国の見え透いた罠に飛び込んだ愚王として、歴史に名を残すかもしれん……」
自嘲気味に紡がれた言葉。しかし、振り返ったその青い瞳には、吹雪の中で燃え盛る青い炎のような、凄まじい怒りが宿っていた。
「……はい」
「ついて来てくれるか?」
「もちろんです……。我が名も共に残しましょう」
ザックの揺るぎない返答に、ヒューゴの険しい口元が、わずかに緩む。
「さいぞうさん……、か」
「はい!」
程なくして、 戦支度(いくさじたく) を整えたヒューゴが、静かに王宮の正門を後にした。
月は 十六夜(いざよい) 。晩秋の冷たい夜風に翻るのは、夜目にも鮮やかな真紅のマント。
主人に寄り添う影は足音すら立てず、やがて二人は国境の深い闇へと消えていった。
* * *
国境近くの深い森。
かつての戦乱の時代に築かれ、今は放棄されたはずの古い砦が、禍々しい気配を放って佇んでいた。
その堅牢な石造りの門の前に、一騎の馬がゆっくりと歩みを進める。
月光が雲の切れ間から差し込み、真紅のマントを羽織った長身の男の姿を暗闇から浮き彫りにした。
「な、何者だ! 止まれ!」
見張りの兵士が槍を構え、声を張り上げる。その声には、自分でも気づかぬほどの震えが混じっていた。男から放たれる、息が詰まるほどの威圧感――覇気に 圧(あ) てられたのだ。
ヒューゴは馬から静かに降り立つと、悠然と門の前へと進み出た。
右手には、白銀の輝きを放つ宝剣アウステリアが握られている。
「貴様らに名乗る名など持たぬと言いたいところだが……冥土の土産に教えてやろう」
ヒューゴの低く、よく通る声が、冷え切った夜の空気を震わせた。
「遠からん者は音に聞け、近くば寄って目にも見よ! 我が名はヒューゴ・ヴァレリウス・アウステリア! アウステリア第十四代皇帝なり!」
その名を聞いた瞬間、砦の兵士たちの間に絶望的な動揺が走った。
「こ、皇帝だと……!?」
「馬鹿な、なぜ本人がこんなところに! しかも単騎で!?」
「ええい、構わん! 奴は一人だ! 殺せば我らヴォルガルドの勝利だ! 撃て! 射殺せ!」
指揮官の怒声と共に、砦の壁上から無数の矢の雨が降り注ぐ。
しかし、ヒューゴは歩みを止めない。
宝剣アウステリアが一閃する。
甲高い金属音と共に、ヒューゴに迫る数十の矢が空中で両断され、無力な木片となって地に落ちた。
「なに……っ!?」
「五年だ」
ヒューゴは静かに呟く。
「俺が戦場から退いて五年……。平和に呆け、俺の剣の恐ろしさを忘れたのか?」
ヒューゴが地を蹴った。次の瞬間には門を守る兵士たちの懐に潜り込んでいた。
「ぐああっ!」
「ひっ……!」
それは吹き荒れる暴風だった。無慈悲に降り注ぐ落雷だった。
大剣の重さを微塵も感じさせない神速の剣戟。剣が振るわれる度に巻き起こる突風だけで、周囲の兵士たちが吹き飛ばされていく。
ヒューゴが通り過ぎた後には、武器を砕かれ、地に伏す兵士の山が築かれた。
(ザック、頼むぞ……!)
心の中で影に呼びかけながら、ヒューゴはあえて派手に、そして容赦なく立ち回る。敵の視線と戦力を自分一人に集中させるためだ。
それが、地下の研究施設へと潜入しているザックと、ローマン姉弟、そしてミーヤを救い出すための唯一の戦術だった。
「ひいぃぃっ! ば、化け物だ!」
「逃げろ! 勝てるわけが……」
圧倒的な死神の如き強さに、背を向けて逃げ出そうとする兵士たち。しかし、砦の奥から響いた甲高い声が、彼らの足を縫い留めた。
「ええい、怯むな腰抜け共! 相手はたかが人間一人だぞ!」
現れたのは、豪奢な軍服を着崩したヴォルガルド帝国の将校だった。安全な後方から見物していたのだろう。その顔にはヒューゴの実力を侮る薄ら笑いが浮かんでいる。
「ほう、皇帝自ら単騎で乗り込んでくるとはな。かつて我らを蹂躙した軍神も、地に堕ちたものだ」
将校はヒューゴの姿を値踏みするように見つめ、鼻で 嗤(わら) った。
「バルガスか……久しいな。出世はしたのか?」
「うるさい! わしが出世できんのはお前のせいだろうが!」
バルガス少将。ちくちくと嫌らしい作戦で、ヒューゴを苦しめた因縁の相手だ。
「たかがペットの毛玉一匹のために、皇帝自らが出張るとはお笑い草だな! それほどあの奇妙な生き物が惜しいのか?」
ヒューゴの足が止まる。
俯いた顔は前髪に隠れて見えない。しかし、彼を中心に渦巻く空気の温度が、急激に下がっていくのをその場にいた誰もが肌で感じ取った。
「……お笑い草、か」
ヒューゴがゆっくりと顔を上げる。
ミーヤが“一番星の青”と称したその瞳が、冴え冴えと高温の炎の色で揺らめく。
「俺は、感謝しているのだ」
「……何?」
「乾ききったこの人生において……これほどまでに大切なものが出来たことを。俺は今、心から嬉しく思っている」
バルガスはその圧倒的な感情の質量に圧され、思わず一歩後ずさった。
「俺の逆鱗に触れた事実を、その身に刻め!」
ドンッ! と、目に見えないほどの凄まじい覇気が弾けた。
それは物理的な圧力となって敵兵たちを襲う。訓練されたヴォルガルドの兵士たちが、白目を剥いて次々と膝から崩れ落ちていく。
「な、なんだこれは……!? 息が……っ」
バルガスは喉をかきむしりながら、恐怖に顔を歪めた。これが、かつて自国を蹂躙した『人間嫌い』の真の姿。
「ひ、ひぃぃぃ……!」
バルガスが腰を抜かしてへたり込んだ時、ヒューゴの周囲に立っている兵士は最早一人もいなかった。
「ミーヤはどこだ。吐け」
絶対零度の声に、将校はガチガチと歯を鳴らす。
「ば、馬鹿が! これで勝ったと思うなよ!」
砦のさらに奥深くから、重い鉄格子が軋む音が響いた。
ギギギギ……ガシャン!
ヒューゴは即座に剣を構え直し、その暗がりを睨みつけた。
漂ってくるのは、濃密な獣の臭い。それも、尋常なものではない。血と薬品、そして理性を失った狂気と怒りが混ざり合った、酷く 澱(よど) んだ臭気だ。
グルルルル……!
地鳴りのような唸り声と共に、闇の中から複数の巨大な影が姿を現した。
かつて森の奥に君臨していたであろう大猿。太い石柱をへし折るほどの丸太のような腕を振り回している。
筋肉の塊のような巨体を持つ凶暴な虎。その咆哮だけで、周囲の空気がビリビリと震える。
そして、片耳が欠けた、異常な体躯を誇る灰色の狼。
「は、ははははっ! 見たか! これが我がヴォルガルド帝国の研究の成果だ!」
バルガスが狂ったように笑い声を上げる。
「貴様の国の森の主たちだ! 薬によって苦痛と狂気を与えられ、目につくもの全てを破壊する殺戮兵器と化した獣どもだ! 喰い殺されるがいい、アウステリアの皇帝よ!」
獣たちの目は赤く光り、口からは粘り気のある涎が止めどなく垂れている。
血走った目には最早、群れのボスとしての誇りはなく、ただ薬によってもたらされた果てしない破壊衝動だけが渦巻いていた。
「……貴様ら、命に対する敬意というものがないのか」
ヒューゴの怒りは、ついに頂点に達した。
ミーヤと同じ森に住む、誇り高き獣たち。彼らをこのような惨たらしい姿に変え、戦いの道具とする帝国の所業は、到底許されるものではない。
「ザック……ミーヤを、頼むぞ」
ヒューゴは小さく呟くと、咆哮を上げて襲いかかってくる狂乱の獣たちに向けて、宝剣アウステリアを正眼に構えた。