作品タイトル不明
《幕間》ありし日の、毛玉と戯れる皇帝陛下
自室で風呂から上がったばかりのヒューゴが、バスローブ姿で自分の肩をポンポンと叩く。
するとベッドの上をコロコロと転がっていた毛玉が、小さな翼をパタパタと羽ばたかせてふわりとヒューゴの肩にとまった。
ヒューゴは満足そうに頷くと、左手で髪の毛の水気を柔らかい布で拭いながら、空いた右腕を水平に伸ばす。そうしておいて、いたずらっ子のような笑みを浮かべて、指先でチョイチョイと毛玉を呼ぶ。
毛玉はコロコロとヒューゴの肩から腕へと転がり、大きな手のひらの上でポンポンと跳ねた。
ヒューゴはその一等星のような澄んだ青色の目を優しく細めて、その様子を眺める。
続いて反対の手も水平に伸ばして、チョイチョイと呼ぶ。すると毛玉は、手のひらから首を前に倒したヒューゴの背中を通り、コロコロと転がって左手へと移動する。
ふとした拍子にはじまるこの遊びを、ヒューゴは大層気に入っている。
「よしよしミーヤは賢いなぁ。えらいぞ!」
長年剣を握り続けた硬い手のひらで、そうっと壊れモノのように毛玉を撫でる。
ヒューゴはいつも、毛玉に触れる直前で、一瞬だけ手のひらを広げて確認するような仕草をする。
風呂から上がったばかりだというのに、まるで自分の手が汚れているとでも思っているような仕草だ。
戦場でヒューゴの手のひらは、いつも赤黒く汚れていた。血糊が乾いて固まり、擦るとパラパラと落ちる。爪の中にまで入ったその色が、思い出すだけで今もヒューゴを容易く悪夢へと引き摺り込む。
戦争とは、双方承知の上での命のやり取りだ。戦場に立つ者には、殺す覚悟と死ぬ覚悟の両方が求められる。
それがわかっていても、戦場に出たばかりのヒューゴは、剣を取り落とし命乞いをする敵兵にトドメを刺すことが出来なかった。
だがヒューゴが見逃したとしても、逃げた兵士は『敵前逃亡』と見做されて重い罰を受ける。
ヒューゴが見逃した逃亡兵たちは、その後再びヒューゴの前へと現れることになる。絶対に逃亡を許されない『死兵』となって。
実際、悪夢のような五年間だった。まだ柔らかだったヒューゴの心は傷つき、その傷が癒える間もなくまた傷ついた。
叫び出したい衝動を抑えるために無口になり、心は硬い 殻(から) を 纏(まと) った。
そうして、威嚇するような表情を顔に張り付かせて、向かって来る敵兵を確実に斬り捨てるようになった。
無言のまま、立ち止まることもなくひとつ、またひとつと砦を落としてゆくヒューゴに、敵兵だけでなく味方までもが震え上がった。
数え切れないくらいの、命を奪った自分の手を苦い想いで眺める。
その冷たくなってゆく手のひらの上に、毛玉がチョンチョンと飛び乗り、その温もりをじんわりと分けてくれる。
毛玉(ミーヤ) の頭のてっぺんで、黄色い花がユラユラと揺れる。『楽しい』と……『もっと遊ぼう』と、小さな身体全体で、もの言わぬ毛玉が花を揺らす。
泣き出したいような、甘い痛みで胸が 疼(うず) く。
笑っても良いのだろうか。幸せだと感じることが、許されるのだろうか。
ヒューゴが紙風船をポンと投げる。
毛玉(ミーヤ) がそれを頭突きで返す。
手のひらでポンと高く上げると、 毛玉(ミーヤ) がパタパタと羽ばたいて追った。
黄色い花がユラユラと揺れる。
ヒューゴは呑気で平和なこの光景を、心の底から愛していた。