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妻には秘密にしてくださいね?

作者: 有沢真尋@6.8「幼くたって立派な淑女ですの!」アンソロ

本文

ジルはそのときまで、自分の固有魔法をなんの役にも立たない魔法だと思ってきた。

* * *

貴族の家系に生まれついた者の多くが魔法を持つこの国において、伯爵家に生まれたジルもまた子どもの頃から固有魔法を持っていた。

通称〝モザイク〟と呼ばれ、対象を一時的に「見えにくくする」効果がある。

(遠くにあるものをはっきり見えるようにするとか、壁の向こうを透視するとかならともかく「見えにくくする」ことに何か意味があるかしら?)

魔法を使うと、目の前にあるものがぼやっとする。

色が混ざり合い、輪郭が曖昧になり、一見しただけではそれが何かわからなくなったりする。

それだけなのだ。

ジルの家には跡取りである優秀な兄がいて、派手な炎の魔法を使うことができる。すでに嫁いでいる姉は、氷の魔法が使えた。

目に見えて効果がはっきりしている二人の魔法は、子どもの頃から「さすが代々高名な魔導士を輩出してきたギャラガー伯爵家の兄妹だけある」と褒めそやされてきた。実際、姉は魔導士の道へと進んだ。

末っ子のジルに関しては皆、気まずそうな顔をする。「固有魔法〝モザイク〟ですか。それはそれは……」と曖昧に笑って語尾を濁すのだ。

(わかるわ。「役に立ちそう」とは口が避けても言えないもの。私だって悩んでいるわよ。よりにもよってこんな魔法、何に使えばいいのか)

もはや魔法で身を立てることもできないだろうと、ジルは幼少から覚悟を決めて学業に邁進してきた。

さらに、服飾関係の商売を手掛ける叔父の仕事について歩く許可を得て、十歳になる頃には自ら広告塔を買って出て、商品であるドレスや宝飾品を身に着けるようになっていた。

もちろん、それらの商品がよく見えるように、自分を磨くことも怠らない。

こうして、王侯貴族や裕福な家の子どもたちが通う王立学園にて、最終学年になる頃には才気煥発で見た目も麗しく商才に長けた評判の令嬢として仕上がっていた。

ここまでくれば魔法が役立たずであることなど、誰も気にしない。家督を継ぐことはなくとも、嫁ぎ先は選びたい放題――

「そうはならなかったのよね……」

学校を卒業するまでに婚約者を見つけ、場合によっては中退してすぐに結婚する生徒もいる中で、ジルは学業と稼業に邁進してきた結果、いまだに婚約者を見つけられないでいた。

(ドレスや服飾品が好まれるのは女性が多く集まるお茶会の席。宣伝がてら足繁く各所に通った結果、女性のお友達はたくさんできたわ。さらに言えば、女性へ贈り物をする男性へのアピールも必須だけれど、そちらは叔父や事業に興味のある兄が担当してくれて……)

叔父と兄は、夜会の場で着飾ったジルをエスコートして、既婚者や婚約者のいる男性の前をそれとなく連れ歩いていた。そして、ドレスや宝飾品の贈り物がいかにパートナーとの関係構築に重要であるかを朗らかに話して、きっちりと営業していた。

――このようなドレスがこれから流行りますよ、傘下の商会で特別な絹を仕入れてデザイナーが型紙を作って仕立てておりまして、外注せず当家がすべて生産に責任を負っています。さらに宝飾品のデザインも手掛けておりまして――

営業の結果は上々のようであったが、せっかくの夜会の場でも右に叔父、左に兄、出会う相手は売却済みの男性たちばかりとあって、婚約に繋がるような出会いは一切なかった。

卒業が半年後に迫った頃、周囲はほぼ婚約済みの男女ばかりとなり、ジルは諦めの境地に達していた。

「事業をする上では『独身の変わり者』よりも『◯◯家の奥様』のほうが信頼を得やすいものですが、仕方ありませんね。こうなった以上は、ひとりで生きていきましょう!」

くよくよすることなく、残り少ない学生生活を有意義に送ろうと決意を新たにする。

その日は、放課後に調べ物のために学内の図書室へと向かった。

書架の間を巡って探していたのは蚕に関する本である。現在、遠方の「絹の国」から仕入れている絹の供給が、政変や交易路の治安悪化により不安定になっているのだ。どうにか違うルートで調達できないものかと、最近のジルは頭を悩ませていた。

資料を探して巡り歩き、虫関連の書物が並ぶ書架に足を踏み入れる。

しゅっと、黒くて素早いものが視界を横切った。

「あら」

思わず声が出る。

(こんな所にもいるのね、黒き虫が)

悪名高き虫である。

艶光りする外見は日常目にする虫の中では大きめで、異常な素早さと頑丈さが特徴であり、厄介なことにときどき飛ぶ。

評判はすこぶる悪く、上品な貴婦人の中には見ただけで卒倒する者もいるほどだ。

ジルは、さほど苦手ではない。

蚕について調べている中で、自分でも身近にいる虫はあれこれ手にして調べたことがあるくらいなので、虫全般に苦手意識がないのだ。

上品な令嬢たちにはとてもではないが言えないものの、屋敷にこの虫が出て、メイドが震え上がっているときには、率先して退治したりもしている。

このときも、書架の間に気の弱い令嬢でもいたら大変だわと心配になり、虫の行き先まで視線をすべらせてしまった。

そこには、真っ青になって固まっている青年がいた。

見惚れてしまうような白皙の美貌を歪め、いまにも泣き出しそうな顔ですぐ目の前でぴたりと動きを止めた「黒き虫」を見ていた。

「ゴ、ゴ……ゴキ……」

震える唇がかすれた声をもらす。

(あの方は黒き虫が苦手なのだわ!)

得意な人間のほうが珍しいのだから、これは決して彼が惰弱であることを意味しない。

もっとも、女性はともかく男性は人前ではきゃーきゃー言うことはないので、ジルはこれまで虫一匹で血の気が引いてしまった男性を見たことはなかった。

その青年はか弱い女性よりもまだ心細げに震え上がっており、いまにも気を失って倒れてしまいそうで、ジルは助けねばと果敢に一歩踏み出した。

そのときに、まさに天啓のように閃いたのだ。

魔法が使える! と。

「〝見えにくく〟なりなさい!!」

ジルの渾身の固有魔法〝モザイク〟が、「黒き虫」に最大出力で直撃した。

その瞬間、黒き虫はぼやっとした見た目になる。

「えっ……ゴキブリが!?」

目の前で虫が〝見えにくく〟なったことに、青年は驚いた様子で目を見開いた。

(見えにくくなっただけなので、まだ安心はできませんわ!)

ジルは颯爽と身を躍らせて、青年の前まで進み出た。

「ごめんあそばせ! 私の魔法は〝見えにくく〟するだけで、対象を消したり始末したりすることはできないんです! せめて減速させられたらいいんですけど、そんな効果もなくて!」

言いながら、ジルは「黒さだけはかろうじてわかるぼやっとしたもの」めがけて真上から正確に足を踏み降ろした。ぱき、と足の下で虫が命を終える音がする。

「……踏んだ?」

青年は青ざめたまま、ジルを見てきた。

輝く銀髪に青い瞳、彫刻のような美貌の持ち主である。

ジルは感心して、青年の顔の造形をしげしげと見た。

(知っているわ、この方。お隣の国から留学されている第三王子のスペンサー様……。虫に怯えていたなんて他の方には決して知られたくはないはずよね)

まだ儚く震えている長いまつ毛を見つめて、ジルは咳払いをして言った。

「どうぞ、いまこの場で起きたことはお忘れになってくださいませ。私もどなたかに吹聴したりはしません。商人ですから、口は固いですよ」

スペンサーはジルの頭のてっぺんから爪先まで見て、感極まった様子で話しかけてきた。

「あなたはギャラガー伯爵令嬢ですね。今のはなんとも不思議な魔法でした。我が国でいうゴキブリ、あの恐ろしい黒き虫が〝なんだかよくわからない見えにくい存在〟になるなんてものすごく画期的です……! しかもあなたはまったく躊躇無く踏み」

んんっ、とジルは咳払いをして、恐れ多くも王子の言葉を遮った。

靴の下にはたしかにまだ黒き虫の骸の感触があるが、そのことにはあまり触れてほしくない。美しい会話にはならないからだ。

「私も殿下のことは存じ上げております。言葉を交わすのは初めてですが、名前を覚えていただいていたこと、光栄の極みです。ですが、いまはゆっくり話すよりも、殿下の身の安全の確保が先ですね。ここの後処理は私が行いますので、ご用事がお済みでしたら殿下はどうぞ危険のない場所まで退避くださいますよう」

あの黒き虫が苦手な人は、骸であっても目にするのを忌避するものだ。ジルはそのことをよく知っているので、処理を目にしないようスペンサーにこの場から去ってくれるようにお願いした。

しかしなぜかスペンサーは、徐々に血の気の戻ってきた頬をうっすら染めて、ジルを見つめてきた。

「あなたは素晴らしい魔法の使い手であるだけではなく、あの虫を退治してくれた上に、その後のことまで責任を持ってくれるだなんて。あなたのような勇敢な女性は見たことがありません」

虫のこと程度でそこまでお礼を言われましても……とは思ったが、ジルは言葉には出さなかった。

その虫ごときに高貴な男性であるスペンサーが怯えていたのを揶揄することになったら、大変な不敬だからである。

「過分なお褒めの言葉を賜りまして幸甚の至りでございます。さ、殿下はここを離脱してくださいませ」

ジルがもう一度促すと、スペンサーは名残惜しそうにしながらも「ありがとう」と言って歩き出す。

すぐに、肩越しに振り返って尋ねてきた。

「また会えるかな」

高揚したような麗しい顔を見て、ジルはにこりと笑みを返した。

「はい。同じ学内におりますし、卒業まであと半年ありますから、機会もありますでしょう。殿下がまた虫でお困りのことがありましたら、何をおいても駆けつけて助けて差し上げたいですわ」

「ありがとう。僕はあの虫以外だったら平気なのですが、本当にあの虫だけが大の苦手で……。いつもあなたがそばにいてくれたらいいのに」

大げさですよと笑いたかったが、彼にとってどれほどあの虫が脅威なのかは想像もつかない。まさに死ぬほど嫌いなのだとしたら、いまこの瞬間はジルが命の恩人にでも見えているのかもしれない。

ジルは真面目に頷いてみせた。

「またあの虫が現れたら、すぐに私の魔法で〝見えにくく〟して、退治してさしあげます」

ふふっと笑ってから、スペンサーは真顔になってジルの足元を見る。

「対象が死んでも、あの魔法は有効なのかな。つまり骸も……」

ジルは口で説明しようと思ったが、見せたほうが早いと思い直してそっと足を持ち上げてみせた。

踏み潰された黒き虫の骸は〝見えにくい〟ままであった。

「すごい! それなら僕でも始末できるかもしれない!」

本当に手を出して確かめそうな勢いでスペンサーがジルの目の前まで進んできた。ジルはとっさに「お待ちください!」と押し留める。

「〝見えにくい〟だけで、手触りなどはそのままです。嫌いなひとが手にして平気でいられるものではありません。ここは私に任せて、殿下は先に行ってください!」

真剣に心配して言っているのが伝わったのか、スペンサーはそれ以上無理を言うことなく「ありがとう」と微笑んだ。

そして、いたずらっぽく付け足した。

「あなたは本当に頼りになる、素敵な女性ですね」

* * *

(まさかあの役立たずの魔法が、結婚相手を見つけるきっかけになるなんて)

家族はジルが婚約に向けて動き出すと宣言したときに、相手の名前を聞いてひっくり返った。

図書室での出会いから三ヶ月後、ジルは驚くべき早さで友好を深めたスペンサーからプロポーズされたのだ。

「あなたが隣にいてくれたら、僕はもう何も怖くない」

床に膝をつき、卒業式の記念パーティーでパートナーになって欲しいと言ってきたスペンサーの言葉を聞き、ジルは冷静に考える。

(「何も」ではなくて「ゴキブリが」ではなくて?)

スペンサーはおよそ世の令嬢たちの夢を詰め合わせたような王子様で、ジルも正直に言えば惹かれていたが、出会いのきっかけはいまだ誰にも言えない。

そして、惹かれてはいても即断即決とはいかなかった。

「私は事業に未練があるので、スペンサー様の国へついていく決断はすぐにはできません。ひとりで生きていけるように、学生のうちにいろいろと手を回していまして」

「愛する人のことですから、僕もあなたのことは調べさせていただきました。現在はドレスの制作に注力しているようですが、絹の買付で条件の良い相手を探しているのではありませんか」

さらっと言い当てた後に、スペンサーは立ち上がってジルへと身を寄せて、囁いてきた。

「実は僕の生家では蚕の実験的養殖を始めています」

「なんですって」

すぐに食いついたジルに、スペンサーは鷹揚に笑って続けた。

「僕の母が『絹の国』の出身でして、嫁いでくるときに蚕を荷物に紛れ込ませて持ち込んだのです。絹はご存知の通り『絹の国』の門外不出の特産品ですが、現在政変があって国内は大いに乱れ、交易路も安全ではなく、いつ供給が途絶えるかわかったものではありません。母はいざそうなったときに、ご自分の下着類を含めた衣類が確保できなくなるのが気がかりだったようで……」

「そうなんですよね。交易が続いている間はあちらの顔を潰すわけにもいきませんが、事態はもう差し迫っていまして。どこかで代替え品を手に入れる手段を確保せねばと悩んでおりました」

門外不出の蚕が持ち出されて、国外で繁殖させた上で実用化にこぎつけていたと知られては「絹の国」との関係は立ち行かなくなるであろう。だが、政変からの国内の混乱は深刻で、向こう百年終結しないのではとも言われている。国交も断絶必至で、相手国の顔を立ててばかりではいられなく、現実的な算段が必要になる段階にあった。

スペンサーからの申し出は、ジルにとって願ってもないものである。

「この結婚のメリットを、実業家としてわかっていただけましたか。あなたには嫁いで頂く形になりますが、商品は両国で取り扱えるように計らいます。あなたの事業は拡大し、僕は最愛の妻を得られます」

求婚者であるスペンサーは控えめにそう言ったが、彼と交流する上で彼がすでに最高の帝王学を身に着けていることにジルは気づいていた。高嶺の花である。

(私にとっても願ってもない話ではあるのですが……むしろ話がうますぎて)

その気持を正直に伝えたところ、スペンサーは笑って言った。

「僕は本当にあの黒き虫が苦手なんです。あの虫に果敢に立ち向かったあなたを見たときに、求婚することに決めました」

「……ありがとうございます!」

そんな馬鹿なという言葉を飲み込んで、ジルは淑女の礼をした。

(さすがに〝見えにくく〟する魔法がなければ、私もいきなり踏んだりすることはできないと思うんですけど……! か弱く震えるスペンサー様をお救いするために、これからも私は黒き虫を退治して参りましょう!)

こうして、ジルは結婚を承諾するに至り、卒業式のパーティーにはスペンサーのエスコートで参列。

その後、隣国へと嫁ぐことになったのであった。

** *

結婚から数年、ジルは妊娠・出産を経ても忙しく事業に飛び回っていた。

スペンサーも仕事はしているが、ジルほどに外出が多くないため、家で子どもと過ごす時間はスペンサーの方が多い。

ある日、ジルが不在のときに床をはいはいしている子どもの側に、黒き虫が現れた。

スペンサーは学生時代と変わらぬ麗しい顔を蒼白にしたものの、侍女や侍従に命じるより先に子どものそばまで走り込むと、子どもを抱き上げつつ、すばやく黒き虫を踏み潰した。

ぐしゃり、と靴の下で黒き虫が息絶える音を聞きながら、スペンサーは瞑目する。

「スペンサー様、大丈夫ですか!?」

幼少期からスペンサーに付き従っていた侍従が、まさかの光景に声を上げた。

スペンサーは青ざめたまま片目を開けて侍従を見て、小さく頷く。それから、苦しげな息を漏らしつつ言った。

「いま見たことは妻には言わないように。彼女は、僕が黒き虫に自分で対応できると知ったらがっかりしてしまうかもしれない」

それに、と呟きながらスペンサーは腕の中に抱えた我が子を見て、笑みを向ける。

「僕だって、いつも対応できるわけじゃない。いまは自分より大切な存在がいたからできただけだ。妻にはずっと『あなたは本当に頼りになる』と僕に言われて、嬉しそうに笑っていてくれる女性でいてほしいんだ」