異世界にジャージがない?ないなら作れば良いじゃない!〜転生令嬢はドレスを脱いで、ひた走る〜
作者: 棗 月雫
本文
ルミ・アルヴァレスは、社交界で評判の令嬢である。
上位貴族の娘でありながら驕らず、誰にでも穏やかに微笑み、困っている者がいればさりげなく手を差し伸べる。
今夜の舞踏会でもそうだった。
「まあ、ヘルミ様。お顔の色が優れませんわ。少し風に当たりましょうか」
「ルミ様……ありがとうございます」
小柄な令嬢ヘルミの背を支え、ルミは人の波を避けるようにして壁際へ誘導した。
重そうなドレスの裾を踏まないように、さりげなく自分の扇で周囲の視線を遮る。
完璧な気遣い。完璧な笑顔。完璧な淑女。
近くにいた貴族夫人たちが、感心したように囁く。
「アルヴァレス嬢は本当にお優しいわね」
「ええ。あれほど気配りのできる令嬢は、なかなかおりませんわ」
ルミは微笑んだ。
優雅に。
淑女らしく。
だが、心の中では叫んでいた。
帰りたい!
今すぐ帰りたい!
この重いドレスを脱ぎ捨てて、だる着で床に転がりたい……。
「ルミ様? あの……大丈夫ですか?」
「ええ、もちろんですわ。ヘルミ様こそ、ご無理なさらないでくださいませ」
にこり。
完璧な笑顔である。
だが内心は違う。
腰が痛い。
肩が凝る。
コルセットが肋骨を締め上げている。
靴が硬い。
髪飾りが重い。
あと、さっきから笑顔を貼りつけすぎて頬が引きつりそう。
前世の自分なら、とっくに帰宅していただろう。
ジャージに着替え、髪を適当に結び、買い置きのお菓子を抱え、床かソファに沈没していた。
そう。
ルミは転生者である。
前世は二十代半ばの、ごく普通の会社員。
休日はだいたいジャージでごろごろしていた。
恋愛にもおしゃれにも縁遠く、気づけば「干物女」と友人に笑われていた人生だった。
だから今世では頑張っている。
上位貴族令嬢として、ちゃんとする。
外ではきちんと笑う。
気遣いもする。
社交も頑張る。
前世みたいに、モテないまま部屋で干からびる人生は避けたい。
避けたいのだが。
本当は、だる着でだらけたい。
「アルヴァレス嬢」
低い声がした。
振り向くと、黒髪の青年が立っていた。
ウリヤス・リンドホルム。
武門貴族の嫡男で、騎士団でも将来を期待されている青年である。
背が高く、肩幅が広く、黒髪と鋭い目つきのせいで、黙って立っているだけで人が道を空ける。
強面で無口。
令嬢たちからは怖がられがちだが、ルミは知っている。
彼は、見た目ほど怖い人ではない。
「少し休んだほうがいい」
「まあ、ウリヤス様。私は平気ですわ」
「平気な顔をしているだけだろう」
「……」
ルミは一瞬だけ言葉に詰まった。
鋭い。
この人、妙なところで本当に鋭い。
「ご心配ありがとうございます。でも、ヘルミ様をお送りしたら少し休みますわ」
「ならいい」
ウリヤスは短く答えた。
それだけ言うと、すっと視線を外す。
無愛想に見えるが、ルミには分かる。
これは彼なりの気遣いである。
だからルミも微笑んだ。
「ありがとうございます、ウリヤス様」
「……無理をするな」
そう言って去っていく背中を見送りながら、ルミは小さく息を吐いた。
無理をするな。
その言葉が、今のルミには少しだけ胸に刺さった。
無理をしている自覚はある。
でも、無理をしなければならないと思っている。
だって、今世ではちゃんとした令嬢でいたい。
だらしない自分を見せたら、きっとがっかりされる。
前世のように、恋愛対象外になるかもしれない。
だから、頑張る。
頑張るけれど。
今だけは、本当に帰って寝転がりたい。
◇
舞踏会から帰宅したルミは、自室の扉が閉まった瞬間、淑女をやめた。
「つっ……かれたぁ……!」
侍女がいないことを確認してから、近くの長椅子に崩れ落ちる。
完璧令嬢ルミ・アルヴァレスは、そこにはいない。
そこにいるのは、魂の底からだらけたい転生干物女である。
「ドレス重い……靴痛い……髪飾りが凶器……」
ルミはもぞもぞと体を起こし、用意されていた部屋着に着替えた。
上質な布。柔らかな手触り。繊細な刺繍。
貴族令嬢の部屋着としては、申し分ない品だ。
だが。
「違う……!」
ルミは鏡の前で、拳を握った。
「これは違うのよ……!」
布は柔らかい。見た目も上品。寝巻きよりは動きやすい。
けれど違う。
これは、床に転がるための服ではない。
膝を立ててだらしなく座り、お菓子をつまみ、本を読みながらうとうとするための服ではない。
いざとなれば軽く走れて、軽く伸びをして、洗濯にも耐え、着た瞬間に「ああ、もう今日は終わった」と魂が安らぐ服ではない。
ルミは窓の外を見上げた。
月が綺麗だった。
異世界の夜空は美しい。
でも、どれだけ月が綺麗でも、この世界には足りないものがある。
「ジャージがない……」
呟いた瞬間、ルミは愕然とした。
そうだ。
この世界にはジャージがない。
なぜ今まで気づかなかったのか。
ドレス、礼服、乗馬服、寝巻き、室内着、騎士服、作業着。それぞれの服はある。
だが、ジャージがない。
動けて、くつろげて、だらけられて、そこそこ丈夫で、洗えて、上下揃いで、魂が油断できる服がない。
「ないなら……」
ルミは立ち上がった。
瞳に、決意の光が宿る。
「ないなら、作れば良いじゃない!」
その夜、上位貴族令嬢ルミ・アルヴァレスは決意した。
この異世界に、ジャージを生み出すと。
◇
「走れて、寝転がれて、くつろげて、汗を吸って、でも上品に見える服、でございますか」
翌日。
アルヴァレス家と付き合いのある家族経営の商会で、長男のタフトが真顔で言った。
その隣では、次男のヴォイマが腕を組み、長女のサナが帳面を抱えている。
三人とも若いが、商才は確かだ。タフトは堅実、ヴォイマは行動派、サナは宣伝や意匠に強い。
ルミは真剣に頷いた。
「ええ。上下揃いがいいのです。上は前を閉じられる形で、下は足が開きやすく、裾は邪魔にならないように。軽くて、できれば少し伸びて、洗いやすくて」
「お嬢様」
「はい」
「それは服ですか?」
「服です」
「寝具ではなく?」
「服です」
「訓練着でもなく?」
「訓練にも使えます」
「作業着でもなく?」
「作業にも使えます」
「では、用途は?」
ルミは胸を張った。
「魂の避難所です」
三人が黙った。
タフトは商人らしい笑みを保ったまま固まり、ヴォイマは「魂……?」と呟き、サナだけが目を輝かせた。
「お嬢様、それはもしかして、新しい休息着ということでしょうか」
「そうです! 休息着! それです!」
「ですが、走れるのでしょう?」
「走れます」
「寝転がれるのでしょう?」
「寝転がれます」
「汗を吸うのでしょう?」
「吸ってほしいです」
「……淑女が汗をかく前提の商品なのですね」
「淑女だって汗くらいかきます」
ルミが真剣に言うと、サナは帳面に何かを書き込んだ。
「新しいですわ」
「でしょう?」
「かなり奇妙ですが、新しいです」
「奇妙……」
「褒め言葉です」
タフトが咳払いをした。
「しかし、上位貴族のご令嬢向けとなると、見た目も重要です。あまりに簡素だと、寝巻きか作業着に見えてしまいます」
「分かっています。上品な色にして、襟や袖に控えめな刺繍を入れましょう。けれど装飾過多は駄目です。動きづらくなるので」
「素材は、魔羊の細糸と森綿を混ぜれば、軽く仕上がるかもしれません。少し伸びる編み方を職人に試させます」
ヴォイマが顎に手を当てた。
「汗を吸って、洗っても形が崩れにくい布か。面白いな」
「できますか?」
「難しいが、やる価値はあります」
サナがにこりと笑う。
「商品名はどういたしましょう。お嬢様、その服にはどんな名前を付けるのですか?」
ルミは一瞬だけ迷った。
ジャージ。
そう言いたい。
だが、この世界の人に「ジャージ」と言っても通じない。
しかも貴族向けに売るなら、もっと上品な名前がいい。
「表向きは……淑女の休息服、でしょうか」
「素敵ですわ」
「でも私は心の中でジャージと呼びます」
「じゃあじ?」
「魂の名です」
「なるほど?」
サナは深く頷いた。
たぶん分かっていない。
だが、ルミは満足だった。
◇
最初の試作品が完成したのは、それから十日後のことだった。
淡い藍色の上下揃い。
上着は前を閉じられる形で、袖口は軽く絞られている。
下衣は足を動かしやすいように作られ、裾も邪魔にならない。
胸元には控えめな白い刺繍。
ルミはそれを見た瞬間、感動に震えた。
「こ、これは……」
「いかがでしょう、お嬢様」
タフトが緊張した面持ちで尋ねる。
ルミはそっと布に触れた。
軽い。
柔らかい。
少しだけ伸びる。
完璧ではない。前世のジャージそのものではない。
だが、これは間違いなく、この世界に生まれたジャージの第一歩である。
「素晴らしいです……!」
ルミは感極まった。
「これです! これを待っていました!」
「では、まずお嬢様がお召しに?」
「いいえ」
ルミはきっぱりと言った。
「最初に着るべき人がいます」
◇
「私に?この服を?」
女騎士シニは、藍色の服を見て目を瞬かせた。
シニはルミの友人である。
女性ながら騎士として活躍しており、凛々しく、背筋が伸びていて、剣の腕も確かだ。
だが最近、彼女はこぼしていた。
自宅で軽く鍛えたいのに、ちょうど良い服がない、と。
騎士服は堅いし、重い。
ドレスは動けない。
寝巻きは論外。
訓練着は大げさすぎる。
その悩みを聞いた時、ルミは思ったのだ。
これはジャージ案件だ、と。
「ええ。シニ様に試してほしいのです」
「ルミ、これは……なんというか、ずいぶん変わった服だな」
「動きやすさを最優先にしました」
「少々、だらしなく見えないか?」
「見え方は着る人次第です」
「淑女らしさは?」
「走れます」
「いや、淑女らしさは?」
「走れます」
「……」
「走れます」
シニはしばらくルミを見つめたあと、ふっと笑った。
「分かった。君がそこまで言うなら試してみよう」
しばらくして、着替えたシニが庭に出てきた。
藍色のジャージ風休息服は、意外なほど彼女に似合っていた。
騎士としての引き締まった姿勢と、服の軽やかさが合っている。
シニは腕を上げ、足を動かし、軽く膝を曲げた。
「……軽い」
「でしょう?」
「腕が上がる。足も開く。布が邪魔をしない」
「でしょう?」
「走ってみても?」
「ぜひ!」
シニは庭の端まで歩き、軽く地面を蹴った。
次の瞬間、風のように走り出す。
ドレスでは絶対にできない速度。
騎士服よりも軽い足取り。
髪を揺らし、藍色の服が朝の光を受ける。
ルミは思わず両手を握った。
走っている。
ジャージが走っている。
いや、シニが走っているのだけれど。
感動である。
庭を一周して戻ってきたシニは、頬を紅潮させていた。
「ルミ」
「はい」
「これは革命だ!」
「ですよね!」
「軽い。身体が動く。自宅で鍛えるには申し分ない。いや、軽い訓練にも使える」
「ですよね!」
「だがひとつ問題がある」
「問題?」
シニは真剣な顔で言った。
「一着では足りない。もう一着欲しい」
ルミは満面の笑みを浮かべた。
「お任せください!」
◇
噂は、思ったより早く広がった。
最初は奇妙なものだった。
「シニ様が、上下揃いの不思議な服で庭を走っていたらしい」
「騎士服ではなくて?」
「訓練着でもないらしいわ」
「では何なの?」
「分からないけれど、とても速かったそうよ」
貴族社会の噂は速い。
まして、女騎士が新しい服で軽やかに走ったとなれば、興味を持つ者は多かった。
そして次にルミを訪ねてきたのは、舞踏会で体調を崩していた小柄な令嬢ヘルミだった。
「あの、ルミ様」
「ヘルミ様。どうかなさいましたか?」
「シニ様がお召しになっていたという、軽い服のことなのですが……」
ヘルミは申し訳なさそうに視線を落とした。
「私にも、作っていただくことはできますか?」
「もちろんですわ。運動用ですか?」
「いえ、その……私は身体が小さくて、ドレスが重くて動きづらいのです。夜会のあとは、歩くのもつらくて」
ルミは、はっとした。
そうだ。
ジャージは運動着だけではない。
部屋着でもある。
くつろぐための服でもある。
重いドレスに疲れた令嬢を救う服でもある。
「分かりました。ヘルミ様には、柔らかくて軽い休息用を作りましょう」
「休息用……」
「はい。淑女にも、休息は必要ですから」
ヘルミはぱっと顔を上げた。
「……素敵です」
数日後、薄い真珠色の休息服を着たヘルミは、鏡の前で言葉を失っていた。
洗練された色。控えめな刺繍。柔らかな布。重くない裾。
彼女は恐る恐る腕を回し、小さく歩き、最後にその場でくるりと回った。
「身体が……軽いです」
「苦しくありませんか?」
「はい。全然。あの、ルミ様」
「はい」
「これを着たまま、椅子に座ってもよろしいのですか?」
「もちろんです」
「足を少し伸ばしても?」
「もちろんです」
「刺繍をしても?」
「もちろんです」
「……少しだけ、寝転んでも?」
ルミは力強く頷いた。
「最高です」
ヘルミは両手で口元を押さえた。
「こんな服があってよろしいのですね……!」
その反応を見て、ルミは悟った。
これは売れる。
いや、売りたいから作ったわけではない。
自分がだらけたいから作った。
だが、同じように苦しんでいる人は多いのだ。
ドレスが重い人。
騎士服ではくつろげない人。
自宅で運動したい人。
社交で疲れた後、魂を逃がす服が欲しい人。
ジャージは必要とされている。
◇
商会三兄弟は、そこから本気になった。
「お嬢様、淑女向けは淡色と刺繍入りでいきましょう」
サナが帳面を広げる。
「宣伝文句は『淑女にも、休息は必要です』で、どうでしょう?」
「いいですね」
「女騎士向けには濃色で、動きやすさを前面に出します。男性用も展開できますわ」
「男性用も?」
ルミが驚くと、ヴォイマが布束を抱えて入ってきた。
「騎士連中も興味を持っています。軽い素振り用に欲しいそうです」
「騎士団に?」
「シニ様が広めました」
「シニ様……!」
「あと、商会の若い者が試着したら、休憩時間に脱ぎたがらなくなりました」
「分かります。脱ぎたくなくなりますよね」
タフトは計算板を弾きながら、目を輝かせていた。
「これは大きな商機です。寝巻きでも礼服でも訓練着でもない、新しい市場です。お嬢様は天才です」
「いえ、私はただ、だらだらしたかっただけで……」
「その発想が民の暮らしを変えるのです」
「そんな大げさな」
「いいえ、大げさではありません。人は働き、鍛え、社交をし、そして休む。ですが、この国は休むための服を軽んじてきました」
タフトは真剣だった。
「お嬢様は、休息に形を与えたのです」
ルミは黙った。
言っていることは立派だ。
立派なのだが。
心の中の前世の自分が、ジャージで寝転がりながら言っている。
いや、ただのジャージだよ、と。
「お嬢様、いかがなさいました?」
「いえ……少し、自分の怠惰が美化されすぎている気がして」
「怠惰ではありません。休息です」
サナがきっぱり言った。
「そうです。休息です」
タフトも頷く。
「力を蓄えるには休息が必要です」
ヴォイマも頷く。
三人の目があまりに真剣で、ルミは訂正できなかった。
「では……休息ということで」
こうして、ジャージは「淑女の休息服」として世に出ることになった。
ただしルミだけは、心の中でずっとジャージと呼び続けた。
◇
その日、ルミは完全に油断していた。
午後の茶会を終え、屋敷に戻り、侍女に頼んで予定をすべて終わらせた。
父母は外出中。
来客予定なし。
つまり、自由。
ルミは試作品の薄桃色ジャージに着替えた。
「はああああ……」
体が軽い。
布が柔らかい。
袖が邪魔にならない。
膝を曲げられる。
肘もつける。
最高。
ルミは自室の絨毯の上に、ころんと転がった。
前世を思い出す。
これだ。
これこそ休日。
これこそ人間性の回復。
「私、今、生きてる……」
淑女としては完全に終わっている姿勢だった。
片肘をつき、クッションを抱え、足を少し投げ出している。
髪もゆるくまとめただけ。
お菓子の皿も近くにある。
外では面倒見の良い完璧令嬢。
家では干物。
その落差たるや、我ながらすごい。
だが今日は誰も来ない。
だから大丈夫。
「お嬢様、リンドホルム様が――」
扉が開いた。
侍女の声がした。
その後ろに、黒髪強面の青年が立っていた。
ウリヤス・リンドホルムが。
「……」
「……」
「……」
沈黙。
ルミは床に転がったまま固まった。
ウリヤスも固まった。
侍女も固まった。
終わった。
ルミは思った。
私の淑女人生が、今、床の上で終わった気がした。
「ち、違うのです!」
ルミは跳ね起きようとした。
しかし慌てすぎて、抱えていたクッションが足に絡まり、見事に転びかける。
「危ない」
ウリヤスが一歩で近づき、ルミの腕を支えた。
近い。
顔が近い。
しかも私はジャージ。
いや、休息服。
いや、やっぱりジャージ。
「も、申し訳ありません! これは、その、試作品で、決して普段からこのように床でだらだらしているわけではなくて!」
「そうなのか?」
「……」
「違うのか」
「違わないです……」
正直に負けた。
ルミは両手で顔を覆った。
「終わりました……」
「何が」
「私の評判です。淑女としての人生です。上位貴族令嬢ルミ・アルヴァレスは本日をもって終了です」
「なぜ?」
「なぜって……この姿を見たでしょう!?」
ルミは自分の服を指した。
「こんな、だる……いえ、休息服を着て、床に転がって、お菓子まで用意して! だらしないにもほどがあります!」
ウリヤスはしばらくルミを見つめていた。
いつものように無表情で、何を考えているか分かりにくい。
ルミの心臓が嫌な音を立てる。
やっぱり呆れられたのだろうか。
幻滅されたのだろうか。
前世でもそうだった。
ちゃんとしていない自分は、恋愛対象にならない。
だらしない自分は、見せてはいけない。
だから今世では頑張ってきたのに。
ルミが俯いた、その時。
「楽そうだな」
「……はい?」
「その服だ」
ウリヤスは真面目な顔で言った。
「楽そうだ」
「最初の感想がそれですか!?」
「他に何を言えばいい」
「もっとこう、淑女らしくないとか、幻滅したとか、あるでしょう!」
「幻滅?」
ウリヤスは眉をひそめた。
「なぜ?」
「なぜって……私は外ではちゃんとした令嬢のふりをしているだけで、本当はこんなふうに家でだらだらしたい人間で……」
「知っている」
「はい?」
「薄々だが」
ルミは固まった。
「知って……?」
「夜会の終盤、君は帰りたそうな顔をしている」
「顔に出ていましたか!?」
「ほとんど出ていない。だが、俺には分かる」
「なぜ分かるのですか!」
「見ているから」
その一言に、ルミの声が詰まった。
ウリヤスは淡々としている。
けれど、その言葉は妙にまっすぐだった。
「君はいつも周囲をよく見ている。困っている者に気づく。自分が疲れていても、先に人を助ける」
「それは……上位貴族として当然のことで」
「当然でも、疲れるだろう」
ルミは黙った。
「外で十分に気を張っているなら、家でくらい気を抜いていい」
「……でも、だらしないです」
「そうか?」
「そうです」
「俺には、安心しているように見える」
ウリヤスの声は低く、穏やかだった。
「君が安心して休める場所があるなら、それは良いことだ」
ルミは目を見開いた。
胸の奥が、じわりと熱くなる。
前世からずっと、自分のだらしなさは欠点だと思っていた。
ちゃんとできない自分。
おしゃれを頑張りきれない自分。
休日に何もせず、ジャージで寝転がる自分。
そんな自分は、誰かに好かれるような人間ではないと思っていた。
だから今世では、ちゃんとした。
気遣いもした。
笑顔も作った。
でも、ウリヤスは言った。
気を抜いていい、と。
「……ウリヤス様は、変わっています」
「よく言われる」
「普通、引きます」
「君は俺の顔を見ても引かない」
「それは、ウリヤス様が怖い方ではないと知っているからです」
「なら俺も同じだ」
「同じ?」
「君がだらしない人間ではないと知っている」
ルミは言葉を失った。
「君は、休みたいだけだ」
ウリヤスは少しだけ視線を逸らした。
「それに、その服は……悪くない」
「え?」
「動きやすそうだ。騎士の軽い鍛錬にも使える」
「使えます!」
ルミは思わず身を乗り出した。
「本当に使えます! シニ様にも好評で、軽い運動には最適で、汗も吸いますし、洗えますし、上着も――」
そこまで言って、はっとした。
しまった。
ジャージの話になると熱が入る。
しかしウリヤスは、わずかに口元を緩めていた。
「俺の分はあるのか」
「え?」
「男性用も作っていると聞いた」
「あ、あります。試作品なら」
「なら、欲しい」
「着るのですか?」
「着る」
「本当に?」
「君が作ったものだろう」
ルミの顔が熱くなった。
「それは、まあ、発案しただけで、作ったのは商会の皆様ですが」
「君の服だ」
「……そう言われると、照れます」
「それに」
ウリヤスは少しだけ声を落とした。
「君と揃いになるなら、嬉しい」
ルミは完全に停止した。
揃い。
おそろい。
ジャージで。
強面騎士様と。
おそろいジャージ。
「ルミ?」
「……破壊力が強すぎます」
「何が」
「お気になさらず……!」
◇
淑女の休息服は、思った以上に売れた。
最初は一部の令嬢や女騎士たちだけだった。
だが、着た者は皆、同じことを言った。
「楽です」
「軽いです」
「もう夜会後はこれしか着たくありません」
「自宅で剣の素振りができます」
「刺繍をするとき、肩が凝りません」
「寝転がっても怒られませんか?」
最後の質問には、ルミは毎回こう答えた。
「自室なら許されます」
やがて男性用も広まった。
騎士たちは軽い運動着として使い、若い貴族子息たちは自室着として気に入った。
商会では、使用目的ごとに色や形を少しずつ変えるようになった。
保守的な貴族からは、もちろん苦言も出た。
「令嬢がそのような簡素な服を着るなど、淑女らしくない」
ある茶会で、年配の貴族夫人がそう言った時、周囲は静まり返った。
ルミは微笑んだ。
いつもの、完璧な笑顔で。
「もちろん、礼の場では礼にふさわしい装いをいたしますわ」
彼女はゆっくりと言葉を続ける。
「けれど、淑女にも休息は必要です。重いドレスを脱ぎ、身体を休め、明日また背筋を伸ばすための時間が」
夫人は黙った。
「それに」
ルミは庭の方を見た。
そこでは、藍色の休息服を着たシニが、軽やかに走っていた。
ヘルミも真珠色の休息服で、ゆっくりと庭を歩いている。苦しそうではない。楽しそうに。
「淑女だって、走りたい日もありますから」
夫人はしばらく二人を見つめていた。
やがて、ぽつりと言った。
「……私の腰にも優しい休息服を、お願いできるかしら」
ルミはにこりと笑った。
「もちろんですわ」
◇
数週間後。
アルヴァレス家の庭に、ルミは立っていた。
淡い雪色の休息服。
いや、ジャージ。
髪は動きやすいように結び、靴も軽いものに替えている。
隣には、濃紺の男性用ジャージを着たウリヤスがいた。
似合っている。
悔しいほど似合っている。
強面のせいで、訓練前の騎士にしか見えないが、それもまた良い。
「……本当に走るのですか?」
ルミはそっと尋ねた。
「君が、走れる服だと言った」
「言いましたけれど」
「なら走る」
「私は、どちらかといえば寝転がる用途を重視していまして」
「五分だけだ」
「五分も?」
「五分だけだ」
ルミは絶望した。
前世の休日なら、五分走るくらいなら五時間寝転がっていた。
しかし、ここで逃げるわけにはいかない。
なぜならこの服は、走れる服として広まっているからだ。
発案者が「走れません」では、少し格好がつかない。
「分かりました。五分だけです」
「終わったら休めばいい」
「寝転がっても?」
「構わない」
「お菓子も?」
「食べればいい」
「お茶も?」
「用意させよう」
ルミは深く息を吸った。
「ウリヤス様」
「何だ」
「最高の婚約者ですね」
言ってから、ルミは固まった。
今、自分は何と言った。
婚約者。
まだ婚約者ではない。
ただ、最近距離が近くて、商会の人たちにもシニにもヘルミにも「もう婚約間近では?」みたいな目で見られているだけで、正式にはまだ何も決まっていない。
「今のは!」
「聞いた」
「聞かなかったことにしてください!」
「無理だ」
「無理ではありません!」
「無理だ」
ウリヤスは、ほんの少しだけ笑った。
その表情は相変わらず分かりにくいけれど、ルミには分かる。
彼は喜んでいる。
「では、走ろう。未来の婚約者殿」
「言い方!」
「違うのか?」
「違わない……かもしれませんけど!」
「なら問題ない」
「あります! 私の心の準備が!」
「走りながら整えればいい」
「無茶を言いますね!?」
ウリヤスが走り出す。
ルミも慌てて追いかけた。
庭の朝露が光っている。
ドレスでは絶対に走れなかった。
コルセットもない。
重いスカートもない。
足が動く。
腕が振れる。
息ができる。
ルミは走りながら、ふと笑ってしまった。
前世では、ジャージはだらけるための服だった。
誰にも見せず、休日にひとりでくつろぐための服。
でも今は違う。
この世界で作ったジャージは、女騎士を走らせた。
小柄な令嬢を楽にした。
商会の三兄弟を燃え上がらせた。
騎士たちの訓練着になった。
そして、ルミ自身を少しだけ自由にした。
ちゃんとしていない自分も、愛されていい。
だらけたい自分も、隠しすぎなくていい。
そう思えたら、胸が軽くなった。
「ルミ、遅れている」
「待ってください! 私は元干物女なのです!」
「知っている」
「そこは知らないでください!」
「だが、走れている」
ウリヤスが振り返る。
黒髪が朝の光を受けて揺れた。
「ドレスより、似合っている」
ルミの足がもつれかけた。
「そういうことを急に言わないでください!」
「本当のことだ」
「心臓に悪いです!」
「なら、ゆっくり走るか」
「はい……いえ、でも、あと少しだけ走ります」
ルミは息を弾ませながら、前を向いた。
ドレスを脱いで。
ジャージを着て。
重いものを少しだけ置いて。
今、彼女は走っている。
ひた走る、というほど格好よくはない。
それでも、前に進んでいる。
この世界にジャージがないなら、作ればいい。
楽に生きる服がないなら、作ればいい。
気を抜ける場所がないなら、作ればいい。
ルミ・アルヴァレスは、息を切らしながら笑った。
「ウリヤス様!」
「何だ」
「五分走ったら、一緒に休んでくださいますか?」
「もちろん」
「寝転がるのも?」
「君が望むなら」
「……最高です」
ウリヤスは静かに笑った。
「では、あと二分だ」
「二分も!?」
「走れる服だろう」
「走れる服ですが、持ち主の体力には限界があります!」
文句を言いながらも、ルミは走った。
朝の庭を、軽い服で。
隣には、彼女の本性を知っても離れない人がいる。
だから今日も、外では少し頑張れる。
そして家に帰ったら、思いきりだらければいい。
淑女にも、休息は必要なのだから。