軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

大虐殺-3

カッツェ平野に両軍が展開され、にらみ合ったまま時間がゆっくりと経過していく。

王国軍約20万に対して帝国軍約6万。

相対すると彼我の兵力の差ははっきりとわかる。あまりにも王国が多く、あまりにも帝国が少ない。しかし、双方に余裕の色も緊迫の色も無い。

確かに王国の方が圧倒的な兵力を有している。しかし個としての強さは圧倒的に帝国側なのだ。

王国の民兵として徴収された者たちは、例年のように駆り出されるこの戦場でしか、武器の使い方を習ったことが無い。鎧も何も無く、ただ武器を持っているものがほとんど。今から起こる命の奪い合いに、恐怖におびえていない者は少ない。

それに対して帝国の騎士は全身をしっかりとした武装で固め、訓練に次ぐ訓練、実戦に次ぐ実戦で強固に鍛えられている。命を奪い合い、そしてこの地に伏す覚悟だって充分にある。

これだけの肉体的、そして精神的な差があれば、兵力さも圧倒的な有利とはならない。

しかし、それでも単純な兵力の差は大きい。もし疲労無く恒久的に戦える者ならば、差にはならないのかもしれないが、人間ではそうはいかない。疲労していけば、能力に差があってもやがては追いつかれることになる。

そして帝国にしても無駄に騎士を殺したくは無い。騎士1人を鍛えるのにかかる時間や費用を考えれば、即座に理解できるだろう。農民1人と騎士1人。損失の額は桁が違う。

収穫の時期にこれだけの兵力を動員すると言うことは、王国の力をそぎ落とすことにつながる。それにこれだけの大きな戦争をするとなると生まれる出費、これを自分に敵対したり警戒すべき力を持つ貴族に支払わせるように、ジルクニフは行動してきた。従ってここで軍を撤収させても、帝国側はある程度は利益を得ているのだ。

だからこそ基本的に戦争は今まで睨み合いで終わっていた。

今回もそうなるだろう。王国の貴族の大半が、心の中ではそう甘く考えていたのだ。

例年であれば帝国側は数度の軽い前哨戦のあと、一度軽くぶつかって、それから撤退という行動に出るのが基本である。

ただ、帝国の騎士たちが要塞のごとき駐屯地より出立しながら、一切動く気配がなかった。

「動きませんね」

ガゼフの横にいたレェブン候が、帝国の陣形を眺めながらポツリと呟く。

周囲はガゼフ直轄の優秀な兵やレェブン侯の直轄の兵などの精鋭に守られた、おそらくはこの陣地で最も安全な場所だ。

だからこそレェブン侯は安全に、目は帝国の騎士たちに送られている。

動かないと言うのが、移動したりとかではなく、進撃を開始しないということだと理解し、ガゼフは同意する。

帝国に動き出そうという気配が無い。

レェブン侯が疑問を持つように、帝国は駐屯地前に陣取ったまま動き出す気配が全く見られない。既に最終的な交渉の決裂は終わり、あとは武力を持って話を解決する番になっているにも関わらず。

だからこそ王国も動くことは出来ない。

それは王国から攻め込むことは危険を意味するからだ。というのは帝国は騎兵が主であり、それとの王国の戦い方は待ち構えて槍衾を作ることだ。そうせずに昔、先手を打って帝国に攻め込んだ貴族たちがいたが、瞬く間に殺され、王国がかなりの損害を被ったことがある。

それ以降、王国の対帝国の戦法は槍衾を作り、防衛に努めることである。そうしても時折食い破られ、中を蹂躙されたりもするが。

「帝国の重装騎士による突撃まではもう少し時間があるのが普通です。駐屯地に動きがあるようなので、もう少しでしょう」

ガゼフは遠方に目をやり、帝国陣地に起こっている微妙な空気の緊迫感を感じ取る。

かなりの距離があるが、それでも卓越した戦士であるガゼフからすれば、その微妙な空気の変化は充分に感知できた。

「毎度のパターンとはいえ、この微妙な緊迫した空気がどうも苦手です。嫌なことはさっさとしてしまった方が、精神的な面でも助かります」

「確かに、微妙に左翼に微妙な動きがありますね」

「ああ、ボウロロープ侯ですか」

王国は両翼に貴族派閥の者たちを配置し、中央を王派閥の人間が固めている。ちなみに両翼に各5万。中央に10万という構成だ。

「焦っているというより、腹を立てているのでしょう。エンリを捕縛しに行った1,000名もいまだ戻らず。ボウロロープ侯は非常に不快気に思ってるみたいですから」

ガゼフはつい先ほど、戦闘前に顔を合わせた貴族を思い出す。無論、ガゼフを一瞥もしようとはしてなかったが。

「まぁ、戻ってくるのが遅いとか思っているんでしょうが、実際は全滅しているのでしょうけどね」

「……失うにしても1,000は大きかったのでないでしょうか?」

「1,000程度の出費はたいした問題ではないです」

貴族派閥の人間が死ぬということは、仕方が無いと割り切ることは出来ても、1,000人の平民が死ぬということはあまり賛同できないガゼフは、微妙な表情を作った。

それにガゼフは元々は平民である。同じ平民の死というのは堪えるものだ。それを悟ったレェブン侯は謝罪を入れる。

「これは失礼を。多少言葉が過ぎました」

「いえ。レェブン侯の考えられていることもわかります。ですのでお気にされず」

レェブン侯はガゼフの視点よりも、もっと上位の視点からすべて見ている。ガゼフは目先の1,000人の命を惜しいと残念がっているが、レェブン侯は王国の将来の勢力図を見据えた上で、1,000人の命なんかたいした価値にはならないと判断しているのだ。どちらが合っているとか、どちらが間違っているとかの話ではない。

「お? ようやく動き出しましたか」

中央を空けるように帝国軍がゆっくりと2つに分かれだしたのだ。分かれた花道をゆっくりと進みだす軍勢がいた。ガゼフもレェブン侯も見たことが無い、奇怪な紋章を記した旗を持つ軍勢だ。

ただ、2人とも目が釘付けになる。

それからガゼフは絶句した。あの時の戦闘を思い出し。

あれはデス・ナイト。アインズ・ウール・ゴウンがその近辺に待機させていたアンデッドの兵士。恐らくは本気で戦えばガゼフですら1体を倒すのがやっとの相手。

それが――

「――あの数だと? ありえん」

ぶわっとガゼフの額に汗が滲む。

デス・ナイトの数は300ほど。対する王国の兵は20万。

300対20万。単純に考えれば勝てる戦いだ。しかしそれは人間など疲労する存在が相手の場合だ。疲労したところを潰すことが出来るから、数の暴力という手段は有効なのだ。

だが、アンデッドのような疲労しない存在を相手にした場合、その脅威は一切変わらない状況ということになる。

つまり20万いても勝てない確率は非常に高い。いや、ガゼフが疲労しなければ、そして300人もいれば、20万の兵を皆殺しに出来る自信はある。

「不味いぞ……」

息を荒く、顔を顰めるガゼフに、緊迫感を持った声でレェブン侯はささやく。

「あれはスケリトル・ドラゴン。恐るべきアンデッドです。そしてガゼフ殿の反応を見るところ、上に乗る存在もかなりの強敵のようですね」

「ええ。私と対等に戦ったアインズ・ウール・ゴウンの警備兵です」

「……あれが」

レェブン侯は呆気に取られたような顔をし、それから数度頷いた。

アンデッドの軍勢は左右にゆっくりと展開して行き、帝国軍の最前線に立つ。6万の兵の前に300人が展開するのだから、一人一人の間は大きく開いており、あまり迫力があるとはいえない姿だ。しかしそれでもガゼフの態度から、どれだけ警戒しても足りない相手だというのは充分にわかる。

「わかりました。真正面からぶつかったら、かなり膨大な死者が出そうですね。計画……貴族派閥の兵力をそぎ落とすという計画を前倒しで進めましょう。辺境侯に貴族派閥の人間をぶつけるように、王にお願いしてみます」

そこまで言ったレェブン候も、油断無く帝国軍を眺めていたガゼフも目を点にする。

突然、黒い壁のようなものが辺境侯の軍の前に浮かんだのだ。それはさほど大きくは無い。せいぜい縦3メートル。横2メートルほどか。鏡のようにも思えるそれから2人の人間が姿を見せた。

仮面をつけた人物と、かつての帝国主席魔法使いフールーダである。

「あれはアインズ・ウール・ゴウン」

「あれがですか」

ガゼフの思わずもらしてしまった呟きに、レェブン候は真剣に眺める。

その王国内でも話題になり、強大な魔力は桁が知れないと思われる人物。

それが腕を一振りする。それに合わせるように突如としてそのアインズを中心に、10メートルにもなろうかという巨大なドーム状の魔法陣が展開された。フールーダがその範囲に囚われていることからすると、害をなすものではないようだが、そのあまりにも幻想的な光景は驚きの種だった。

魔法陣は蒼白い光を放つ、半透明の文字とも記号ともいえるようなものを浮かべている。それがめまぐるしく姿を変え、一瞬たりとも同じ文字を浮かべていないようだった。

王国から驚きの声が上がる。それは見事な見世物をみたときに上げるような、緊張感の全く無いものだ。

しかし、その場にいた2人は、その巨大な魔法陣に言い知れない不安を感じていた。

「私は自分の軍の元に戻ります。ガゼフ殿は陛下の守りにお入りください」

「わかった。陛下の御身をお守りしよう」

ガゼフはそういいながら、中央本陣――無数に旗が並べてある場所を振り返る。

「では、行動を開始しましょう」

2人は慌てて動き出す。ただし全てが遅すぎるのだが。

いないな。

アインズは魔方陣を展開しながら、そう判断した。

王国の軍の中にプレイヤーはいないと。

ユグドラシルと言うゲームの中での超位魔法は強大である。しかしその反面、発動までに時間がかかるというペナルティがある。強ければ強いほど時間がかかるようなシステムとなっていた。それも自軍に属するものが使えば使うほど、追加時間ペナルティが掛かることによって一層の時間がかかるようになっていた。これは超位魔法の連射だけでギルド戦争が終わらないようにするための、製作会社の抑止の手段としてだ。

つまり逆に言い換えればそれほど強いと言うこと。

そのため大規模戦の際は、超位魔法を発動しようとする者を最初に潰すべく行動するのは基本だ。転移魔法による突貫、出の早い超位魔法による絨毯爆撃。超遠距離からのピンポイントショット。それら無数の手段を使ってでも、妨害に出るのが基本中の基本だ。

しかし、今回、アインズにはそういった攻撃は1つも飛んでこない。それは逆に言えばユグドラシルプレイヤーの存在の不在を証明するもの。

誰も悟られないが、仮面の下のアインズの口が笑いの形に歪む。いや、骸骨であるアインズの顔には、笑顔と言うものを浮かべることは不可能なのだが。

「もはや、囮になる必要もなしか」

それだけ呟くと、アインズは純白の小手に包まれた、己の手を開く。そこには小さな砂時計が握られていた。

「かきんあいてむー」

昔に大流行した青のネコ型ロボットのような口調でアインズは呟く。そして迷うことなく握りつぶす。アインズの――いや鈴木悟の昼食2回分の金額が飛んでいく。

元々超位魔法を課金アイテムを使って、即座に発動させることは出来た。しかしそれをしなかったのはアインズが言ったように、囮となってユグドラシルプレイヤーの存在を確認するためだった。しかし不在ならば、もはや囮となって長い発動時間をぼうっとする必要も無い。

砕けた砂時計から零れ落ちた砂が、アインズの周囲に展開する魔法陣に風とは違う動きを持って流れていく。

そして――超位魔法は即座に発動する。

《イア・シュブニグラス/黒き豊穣への貢》

黒いものが王国軍右翼の陣地を吹き抜けた。

いや吹き抜けたといっても、実際に風のように動いたわけではない。事実、平野に生えた雑草も、そこにいた王国の兵たちの髪がゆれるといったことも無い。

ただし、そこにいた王国軍右翼5万。

その命は即座に全て――奪われた。

何が起こったのか。それが理解できたものは誰一人としていない。ただ、右翼を形成していた全ての生き物が突然、糸でも切れたように大地に転がったのだ。それが特にわかったのは敵対している帝国である。

目の前で起こった信じられないことによって生じたどよめきが、大きなうねりと変わる。

アインズが魔法陣を構成していた段階でなんらかの魔法を使うのだろうという思いはあった。しかし、それがここまで恐ろしいものだと誰が予測できるだろうか。

5万人の命を瞬時に奪いつくす、猛悪な魔法だと。

そんな中、ただ1人歓喜の声を上げる者がいた。

「素晴らしい……」

アインズのすぐそばに控えていたフールーダだ。

これほどの強大な魔法を前に、歓喜の念が押し寄せてくる。アインズが強大な魔法使いであり、比類ない魔法使いであるというのは知っている。しかし、その巨大な力の一端に直接触れられたというのは、言葉には出来ないような感情をフールーダに味合わせてくれたのだ。

ゾクゾクと背筋に震えるものが走る。

そんなフールーダに、アインズは機嫌よく言葉を投げかけた。

「何を満足しているのだ? 私の魔法はまだ終わってはいないぞ?」

黒き豊穣の母神への贈り物は、仔供達という返答を持って帰る。

熟れた果実が大地に帰るように――。

最初にそれに気づいたのは誰だっただろうか。誰かはわからない。ただ、おそらくは帝国の騎士たちだっただろう。

遠くから、最も安全な場所から見ていた騎士たちが最初に気づいたのは至極当然だ。安全だと思えるからこそ、ヘルムの細いスリットから覗ける、小さな視界でも発見できたのだ。

黒い渦が王国の兵士たちの命を奪った後――天に昇って消えていった後。

天空に――世界を汚すような、おぞましい漆黒の球体が姿を見せたことを。

隣の人間が上を見ていれば、すぐにそれに気が付く。そうやって、帝国の騎士たちはやがて全員がただ黙って、空に浮かぶ球体を眺める。

目を離せないのだ。まるで世界から拒絶されるような、その球体から。

目が離せないのは帝国だけではない。王国の兵士たちも声無く、ただ黙って空に浮かぶ球体が徐々に大きくなっていく姿を見つめる。

逃げようとか、戦おうとか。そんな人間的な思考は出来なかった。ただ黙って痴呆のごとく眺めるばかりだった。

やがて――充分に実った果実は落ちる。

落ちた球体は大地に触れると弾けた。

水袋が大地に落ちて破裂するように、熟れた果実が大地に広がるように。

落下地点から放射線状に、中に満ちていたものが広がった。それはコールタールのようであった。光をまったく反射しない、どこまでも漆黒が広がるような、そんな粘液質な液体。それによって息絶えていた王国の兵士たちの姿が隠される。

ただ、誰かが――もしくは全ての人間が予測していたように、それだけでは終わらない。いやまだ始まったばかりなのだ。

ぽつんと、黒い液体が広がる大地に、1本の木が生えた。

いや、あれは木なんて可愛いものでない。

1本のだったものは、数を増やしていく。2本、3本、5本、10本……。そこに生えたのは――無数の触手だ。

『メェェェェェエエエエエエエ!!』

突然、可愛らしい山羊の声が聞こえた。それも1つではない。まるで何処にもいないはずの山羊が群れで姿を見せたようだった。

その声に引っ張られるような動きで、ぼこりとコールタールがうごめき、吹き上がるように何かが姿を現す。

それはあまりにも異様過ぎて、異質過ぎたものだった。

小さくは無い。高さにして5メートルはあるだろうか。触手を入れると何メートルになるかはよくはわからないほどだ。

外見は蕪という野菜に似ている。葉の代わりにのたうつ黒い触手、太った根の部分は泡立つ肉塊、そしてその下には黒い蹄を生やした山羊のような足が5本ほど生えていた、が。

根の部分――太った泡立つ肉塊の部分に亀裂が入り、べろんと剥ける。それも複数箇所。そして――

『メェェェェェエエエエエエエ!!』

可愛らしい山羊の鳴き声が、その亀裂から漏れ出る。それは粘液をだらだらと垂らす口だった。

それが5体。

カッツェ平野にいた全ての人間たちに、そのおぞましい姿を見せたのだった。

黒い仔山羊。

超位魔法《イア・シュブニグラス/黒き豊穣への貢》によって生じるモンスターである。強力な特殊能力は持たないものの、その耐久力は郡を抜いているモンスターだ。

そしてそのレベルは――90を超える。

音が無かった。

山羊の可愛らしい鳴き声が聞こえる以外の音は何も無い。ただ、その眼前で行われていることが信じられず、認めることが出来ずに、誰も言葉を発していなかった。26万もの人間が集まっておきながら、誰一人として声を立てることが出来なかったのだ。

そんな中、アインズは楽しげに笑う。

「見よ、フールーダ。最高記録だ。5体召喚は私ですらやったことのない数だぞ。やはりあれだけ集まってくれていたのに感謝しなくてはならないな」

黒い仔山羊は《イア・シュブニグラス/黒き豊穣への貢》で死亡した存在の、レベル総計に応じた数が召喚される。通常は1体召喚できれば恩の字であり、滅多に2体なんか召喚できるものではない。

しかしそれが今回は5体。

ゲーマーが自分の打ちたてた記録を楽しむように、アインズもまた記録として喜んでいた。既にアインズの頭の中ではあそこにいるのはポイントのようなものであり、生きた人間ではないのだ。

「おめでとうございます、師よ」

そんな嬉しそうなアインズに頭をたれながら、フールーダはその強大すぎる魔法に畏敬の念をより一層強める。

この方からすれば、あれもまた児戯の1つか、という思いから。そして実際に目の辺りにした、世界における究極の力の1つの結果を前に。己が手を伸ばしても決して届けないと思われる魔法。ただ、この師についていけば、もしかしたらという希望がふつふつと湧き上がる。

「本当にお見事です、師よ」

帝国に突如現れた謎の貴族があげる陽気な声は、風に乗って騎士たちにも届く。

帝国の陣地の中にガチガチという音が響き始める。

それは鎧が上げる音。

着ている者たちの体が震えているのだ。それを誰が笑うことが出来るだろうか。あのおぞましい召喚魔法を発動させる存在の、陽気な声を聞いて鳥肌が立たないものは誰一人としていない。

そして帝国の騎士全てが1つの願いを抱いていた。

どうぞ、アインズ・ウール・ゴウン辺境侯が理性的な人物であるように。我々を味方だと思っていてくださいますように、と。

もはや、それは神への祈りに似ている。

邪悪な神や不幸を呼び集める神に祈りを捧げることで、自分には厄が回ってこないように願う姿に。

そんな願いをその背に一心に集めながら、アインズは次の段階に移行する。これでも充分な結果は出していると思われるのだが、一応駄目押しをしておいた方が良いだろうという軽い気持ちで。

ここで圧倒的な力を見せ付けることは、帝国での英雄という地位を獲得するのにチャンスだろうと判断で。

「さぁ、はじめるか。蹂躙を開始するがいい」

召喚者であるアインズの命令を受けて、ゆっくりと黒い仔山羊たちが動き出す。

5本の足を異様な動きで、機敏に動かし始める。優雅というよりは一所懸命な動きであり、それはある意味笑ってしまう光景だったかもしれない。

自分たちに降りかからなければ。

巨体を軽やかに動かし、5匹の黒山羊たちは走り始めると、そのまま王国の軍に突撃を開始した。

「あれは夢だよなぁ?」

異形の魔を遠くに、王国の兵士の1人が呟く。しかしそれに答える声は無かった。皆、眼前に広がっている光景に釘付けとなっており、答える余力が無かったのだ。

「なぁ、夢だよな? 俺は夢を見ているんだよな?」

「ああ。とびっきりの悪い夢だ」

二度目の問いかけにようやく答える者がいた。半分ばかり現実を逃避したような声色だったが。

ありえない。

信じたくない。

そんな感情が兵士達の中で蔓延している。徐々にその姿を大きく――近くなっていく異形の存在を前に、あまりにも現実を認めたくなかったのだ。

もしこれが単なるモンスターであればまだ武器を振るう勇気がわくだろう。しかし、片翼の軍を瞬時に殺しつくした後に出てくるモンスターが、単なるモンスターであるはずが無い。絶対に勝てないような、突き進んでくる巨大な竜巻を目にしたように、誰一人として立ち向かう勇気がわかなかったのだ。

巨大で異様な存在が、その太く短い足を器用に動かして、かなりの速度で走ってくる姿は面白いとも言える。しかし、それは自分に害をおよばさない安全な場所からならばだ。

「槍を構えよ!」

言葉が響く。

見れば貴族の1人が叫んでいた。

「槍を構えよ! 助かりたいと思うものは槍を構えるんだ!」

兵士達はその言葉に弾かれるように、槍を一斉に構え、槍衾を形成する。

頭の冷静な部分からはその手に持った、ちっぽけな槍に何の意味があるだろうという思いが浮かぶ。しかし、助かる手段はそれぐらいしかないという思いも同時に浮かぶ。

大地を抉るような踏みしめ方をする蹄からは、走って逃げることは不可能に近いと嫌でも理解してしまうのだ。

ただ、ひたすらに自分のところには来ないでくれという願いを擁きつつ、モンスターが突撃してくるのを待ち構える。

そして突撃が敢行される。

それは巨大なダンプカーが、ねずみの群れに飛び込む光景に似ていた。

当然のごとき王国の軍では、震える手で槍が無数に構えられている。しかし巨体であり、屈強な肉体を持つ黒い仔山羊たちにそれが何の意味を持つだろうか。槍は爪楊枝よりも容易くへし折れ、黒い仔山羊たちに傷1つつけることは出来ない。

槍を構えていた兵士たちですら、命が失われる瞬間。それが当たり前のような光景にも思えていた。

魔法の武器ですらないのに、どうやって傷をつけようというのか。

王国の兵士たちの中に、黒い仔山羊たちの巨体が乗り込む。

絶叫が上がり、絶叫が上がり、絶叫が上がる。

肉片が中空を舞った。それも1人や2人なんていう少なさではない。何十人どころか百人以上。巨大な足で踏みしめられ、振り回される触手で吹き飛ぶ。

街の人間だろうが、貴族だろうが、農夫だろうが肉片と化してしまえば何も関係はなかった。皆同じように、死が与えられたのだ。

無数の人間をその巨大な足で踏みにじって満足し、そこで止まるのかというとそうではない。

黒い仔山羊たちは走る。

とにかく走るのだ。王国の軍の中をとにかく。

「ぎゃぁああああああぁぁ!」

「おぼぉおお!」

「やめぇええええ!」

「たすけてててええええ!」

「いやだあああああ!」

「うわぁあああああ!」

巨大な足が下ろされるその度ごとに絶叫が上がる。黒い仔山羊たちの太い足の下で人間が踏み殺される音、戯れにめちゃくちゃに振り回される触手によって体を分断させる音。そういった音が続く。

蹂躙。

その光景にそれ以外の相応しい言葉があるだろうか。

幾人かが必死に槍を突き出す。巨体であり、回避という行為を行う気が黒い仔山羊には無いのだ。確実に槍の穂先が命中する。しかしその肉塊の体に少しもめり込んでいかない。

必死になって攻撃をしても意味が無いとわかるまでに、中央の軍が一気に真ん中近くまで、黒い仔山羊たちの進入を許す。

「撤退だ!! 撤退をしろ!!」

遠くから聞こえる絶叫。その声に反応し、全ての人間が走り出す。それはまさに蜘蛛の仔を散らすような動きだった。しかし、人間よりも黒い仔山羊は早い。

グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ――。

グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ――。

グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ――。

グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ――。

グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ。グチャ――。

無数の音が――人間が踏み殺され、肉塊が出来上がる音のみが絶え間なく続いた。

「撤退だ!! 撤退しろ!!」

レェブン侯は絶叫を上げる。

もはやあんなものを相手にどうにかすることが出来るはずが無い。もはやあれは人間では太刀打ちできないような相手だ。

レェブン侯の言葉を聞き、周囲の兵士たちが慌てて逃げ出す。武器を放り出し、

「アインズ・ウール・ゴウン。ここまでの存在、魔法使いだったか」

侮っていた。こんなに桁が違うとは想像もしていなかった。

レェブン侯は暴れる化け物を見ながら、周囲の兵士たちに続けて叫ぶ。

「撤退だ! もはやこの戦いは戦いなどで無い。単なる虐殺の場だ! とにかく逃げるんだ!」

「侯!」馬に乗ったレェブン侯に仕える兵士の1人が、ヘルムをはずしながら叫ぶ「王は! 王はどうなさいますか!」

「そんなことを言っている場合ではありません、侯! こちらに迫ってきています!」

見れば先ほどよりも黒い仔山羊の姿は大きい。徐々にこちらに迫って接近してきている。レェブン侯を狙っているというよりは適当に走った結果だろう。実際、他の黒い仔山羊はレェブン侯のいる場所から遠く離れている。

「王はどの辺りだ!」

「あちらです!」

兵の指差す方を見れば王旗がある辺りには、既に黒い仔山羊が一頭迫っていた。

レェブン侯は逡巡する。助けに行ってどうなるのか。ただ、この王国の状況下でランポッサⅢ世を失うということは瓦解につながりかねない問題。

ただ――

「侯! 早くお逃げください! あんな化け物に人間が勝てるはずがありません! 早く!」

そうだ。まさにその通りだ。王国最強のガゼフが剣を抜いても勝てる敵ではない。

「軍を――20万の軍に匹敵するか、たった1人で。ありえなんだろう! 幾らなんでもそれはありえんだろうが! 国堕としより強いというレベルじゃなかろう!」

「侯!」

もはや声というよりは悲鳴にそれは近い。そんな兵士の警告を受け、レェブン侯は怒鳴り返す。

「わかっている! 逃げるぞ!」

蹄の音は近い。怖くて後ろを振り返ることが出来ない。だからこそレェブン侯は馬に拍車をかけた。

大混乱の中、抜けるように馬の一群は走り抜けていく。半分、馬を操るという行為は諦めている。というのも狂ったような勢いで馬が走り始めているためだ。人が操るよりも、馬に任せた方が安全に逃げられそうだという予感を覚えたためでもある。

馬がここまで恐怖に耐え切れたのも、軍馬として訓練を積んだお蔭であろう。もし、普通の馬であれば恐怖のために行動不能状態になっていただろうから。

「化け物め! あの化け物魔法使いめ! あんな奴が人の世界にいてよいはずが無いだろうが!」

馬の疾走に合わせて上下に動く視界の中、レェブン侯はアインズに対して呪詛をはき捨てる。

「糞! どうにかしなくては。人の世界を――未来を守る手段を考えなくては」

馬の激しい脈動を尻の下から感じながら、レェブン侯は周囲を兵に守られながら走る。帰ったらラナーを交えて、あの桁の違う魔法使いへの対策を定める必要がある。このままにしていては、全ての人間を支配されかねない恐怖があった。

さて、レェブン侯は1つだけ勘違いをしている。

レェブン侯は黒い仔山羊の外見や暴れ方を見て、知性は無いに等しいと判断した。ただ、暴れ方は巨体を利用した最も賢い戦い方だとは思わないだろうか? 小さい存在をもっとも多く殺すための手段としては最高の方法だと。

そしてレェブン侯は自分の方に接近しているのを見て、たまたまこちらに向かっているのだと判断した。それは本当にそうだろうか? レェブン侯が叫んだ直後から兵士たちが逃げ出すのを悟り、レェブン侯が軍の指揮官だと理解したのではないだろうか。

実際、黒い仔山羊の知性は外見から想像できないほど高い。人間と同程度には。

『メェェェェェエエエエエエエ!!』

やけに近くで黒い仔山羊の鳴き声が響く。

レェブン侯の額に脂汗が滝のごとき流れる。怖くて振り返れないが、なんとなく、後ろから生暖かい空気を感じたような気がしたのだ。

そして再び聞こえる――

『メェェェェェエエエエエエエ!!』

ふと思う。自分の周りは馬に乗った兵士たちに守られているはず。

では、その馬の蹄の音はどうしただろう?

聞こえるのは巨大な蹄の音が1つ。それにかき消されたのか、他の蹄の音は聞こえない。

ドクンと、大きく1つ心臓が鳴った。

自らの――疾走する自らの足元に巨大な影があることを悟り。そしてそこから一本の長く太いものが伸びているのを理解し。

「だ……」

馬は狂ったように走る。もはやレェブン侯が操るよりも早く、おそらくはこの馬が生まれて以来の速度を出しているだろう。それでも影はいまだ大地にある。

「いやだ!」

レェブン侯は目を見開き、それでも後ろを見ることが出来ずに、馬を走らせる。

まだ死ぬわけには行かない。王国がどうのなんてどうでも良い。国が滅びるというなら滅びればよいのだ。アインズ・ウール・ゴウンと敵対することが死を意味するなら、この国を捨てて逃げても良い。

馬鹿だ。

本当に自分は馬鹿だ。

貴族派閥と王派閥をうまくかみ合わせるためにこんな戦場に来た自分が馬鹿だ。アインズ・ウール・ゴウンが凄まじい力を持つと知っていたのだから、なんとか理由をつけて王都にいればよかった。

将来の王国のために、なんて少しでも考えなければ良かった。

「いやだ!」

まだ死ぬわけには行かない。

まだあの子が幼いうちに死ぬわけには行かない。そして――愛するようになった妻を残して死ぬわけには行かない。

「いや――」

レェブン侯の前に子供の像が浮かぶ。

可愛いわが子だ。

生まれてきた小さな命。それからゆっくりと育っていくさま。病気にかかったことだってある。そのときはどれだけ大騒ぎをしたものか。呆れたような妻を見て、半狂乱で叫んだ姿は今思い返せば大恥だ。

あのぷにぷにした手に薔薇のような頬。絶対に成長したら、王国中で話題になる青年になるだろう。

さらには天才であり才能があると、レェブン侯は確信を持っている。自分より優れた才能を持っている、その片鱗を時折うかがえる。

親の欲目と妻は言うが絶対にそんなはずが無い。

そんな子供を生んでくれた妻には深い感謝を抱いている。無論、それを口に出したことは滅多に無いが。何故と問われればそれは恥ずかしいからだという言葉が最もレェブン侯の心を正確に代弁している。

個人的にはそろそろもう1人、欲しいなんて思ったりもしているぐらいだ。

こんな戦場に出るのではなく、あの2人をその手でかき抱いて――。

意識が失われるのは一瞬であった。

最後に肉が潰れる様な音が聞こえ、レェブン候の意識は消失する。

逃げ惑う兵士たちによって大混乱の中、ガゼフはゆっくりと前を見据える。

一直線に突進してくる黒い仔山羊に対してガゼフは剣を抜き払う。周囲にはガゼフ直轄の兵士たちの姿は無い。

「ここを抜かれると、陛下の場所なんでな」

大地の揺れを感じながら、ガゼフは息を鋭く吐き捨てる。そしてその手に握った剣を構えた。

人間を踏み潰しながら迫り来る巨体に対して、なんと心もとないことか。

暴走する馬車であれば容易く止めることが出来よう。虎が突っ込んできても、避けざまに一撃で首をはねることが出来るだろう。それだけの自信があるガゼフが、黒い仔山羊を前にどうなるのかまるで想像が付かなかった。

無論、生き残れる可能性は低いと考えているが。

「陛下を頼むぞ」

送った部下たちに届かないだろうが、声を送る。

直轄の兵士たちは別にこの混乱の中で逸れたのではなく、王を守るために送り出したのだ。

兵士たちが接近してくる化け物に対して、どれだけの働きが出来るかと言うのは疑問である。それでも一枚の盾程度の働きはするだろうと思ってだ。

「ふぅうううう!」

ガゼフが大きく息を吐き出すと同時に、周囲の人の流れが大きく変わる。それはさきほどまでは乱雑な流れだったのだが、それがガゼフを避けるような動きとなったのだ。まるで黒い仔山羊との一直線のルートが出来たようだった。

どんどんと人間を踏み砕きながら、黒い仔山羊が接近してくる。

ガゼフは剣を構えながら、その全身をくまなく観察する。どこを攻撃すれば最も効果的な一撃を与えられるのか。武技の1つであるウィークポイントを発動させているのだ。しかし―――

「―――弱点無し」

実際に弱点が無いのか、はたまたは圧倒的な差がありすぎて読めないのか。それはガゼフにはわからない。ただ、失望は無かった。なぜなら元々、そんなところだろうなと思っていたためだ。

続けて武技を発動させる。

第6感の強化とも言うべき能力、フューチャー・サイト。

「来いよ、化け物」

黒い仔山羊はその声を聞きとどめたように、一直線にガゼフに向かってくる。両者の距離はみるみる迫っていた。

正直に言おう。

ガゼフは怖かった。許されるなら、周囲の兵士たちと同じように走って逃げたかった。フューチャー・サイトによって感覚が強化されているために、様々なことを悟れる。蹄にはいまだ傷が無いところを見れば、単なる剣では傷が付かない可能性がありえる。踏みしめる度にめり込む深さから考えれば、即死は間違いが無い。

理解できれば理解できるほど、恐怖はより強いものへとなる。

今、周囲を逃げ惑っている兵士たちよりも、ガゼフは強い恐怖に晒されているのだ。しかし後ろは見せられない。王国最強の戦士が逃げるわけには行かないのだ。

――距離は迫る。

蹄が舞い上げる土がガゼフに届くような距離。

炉端を歩く虫を無視するように、黒い仔山羊はガゼフめがけて突っ込んでくる。

「装備をしっかりと整えて上で来るべきだったか」

完全にフル装備で来るべきだった。貴族たちに変な顔をされるのを避けるとか考えるべきではなかった。

ガゼフは後悔するが、もはやそれは遅すぎる。己の腕に自信を持ちすぎた結果がこれだ。いや、完全に装備を整えていても意味が無かった可能性のほうが高い。

黒い仔山羊がまじかに迫る。大地を揺らすような勢いで。

ガゼフは追い立てられる兵士達の横を、すり抜けるように黒い仔山羊めがけ走る。

人ごみを見事にすり抜けながら、脇にそれるような形で場所を移動していく。真正面から突撃した場合、横幅があるために回避をすることが出来ないためだ。

ほんの50センチ足らずを、黒い仔山羊の巨大な蹄が走りすぎていく。それに合わせて――

「――ちぇい!」

ガゼフはその横をすり抜けるようにしながら、剣を振るう。相手の速度がそのまま相手を切裂く武器となるということだ。

蹄と剣が接触した瞬間、凄まじい衝撃がガゼフの剣を持つ手に掛かる。腕ごともぎ取られるのではないかと思うような衝撃だ。

踏みしめていた足が、大地に2本の線を残しながら一気に後ろに流れる。

「ぐぐぐううう!」

腕から剣がもぎ取られるのは避けれるもの、腕から激痛が昇る。筋肉か腱か、どちらかをあまりの負荷のために痛めたのだろう。

ガゼフは荒い息で、自らの後方を睨む。そこにあるのは巨体だ。

初めて、爆走を開始してから初めて黒い仔山羊は立ち止まっていたのだ。

そして触手の一本が霞んだ。

全身を貫くような怖気。ガゼフは咄嗟に剣を構えた。その瞬間、途轍もない衝撃が剣より伝わる。そのまま体が空中に浮かび上がるような浮遊感を感じた。

ガゼフをして何も見えなかったが、触手でなぎ払ってきたのだろう。

ガゼフの体が大きく中空を飛ぶ。

飛ばされたガゼフの体はありえないような滞空時間を得て、大地に転がった。それも数度以上の回転をつけながら。ただ、その回転は死体が投げ出されたものとは違い、人間が投げ出された力を殺そうと自分から回転する姿だった。

黒い仔山羊はほんの1秒、逡巡する。

自らの攻撃を喰らいながら、命を失わなかった存在に対して追撃をすべきかという思考が浮かび上がったためだ。しかし、それには及ばないという結論に即座に達した。標的は幾らでもおり、いちいち動きを止めて殺す価値も無いという判断したからだ。

見れば――目は無いのだが周囲の知覚は充分出来る――群れを成して逃げている獲物がまだまだいる。触手のレンジから離れた相手を追って、時間を潰すこともないだろう。

王国最強の戦士ガゼフ・ストロノーフ。

黒い仔山羊からすればそんな男も、その辺りにいる単なる兵士となんら変わらない、弱いというカテゴリーに入るものであり、さほど気にするほどの存在でもなかったのだ。

黒い仔山羊は再び疾走を始める。召喚者の命令に従って、肉塊を作る作業を開始したのだ。

軋みをあげるような体を駆使して、ゆっくりとガゼフは立ち上がった。遠ざかっていく黒い仔山羊を睨む。

たった一撃。

ひしゃげた鎧の下で、攻撃を受けた手はへし折れている。剣が壊れなかったのは単なる運の問題だろう。

ガゼフのその顔からは完全に感情が抜け落ちていた。

何故、自分が助かったのか。

それは言葉が通じない化け物が相手だとしても、戦士としての勘で理解できる。

完敗とかそういう問題ですらない。土俵に近寄ることすら出来なかったのだ。

かみ締めた唇から、真紅の血が流れ出す。それからガゼフは突き上げてくる激痛を押さえ込むと、必死に走り出した。例え勝てないとしても、あと一撃受けられるのが限界だとしても、それでも王を守らなければならないと。

ランポッサⅢ世のいる本陣は、無数の貴族の家の旗がはためき、王国軍のもっとも奥深くにある場所である。

先ほどまでは無数の貴族がいたのだが、今では残る者は少ない。殆どが逃げ出し、いまこの陣地に残っている者は容易く数えられる程度である。いや、正確に言えばそこにいるのはたったの2人だ。

1人は驚くべきことにランポッサⅢ世である。そしてもう1人、平民の格好をした男だ。

その平民の格好をした男が、ランポッサⅢ世から装備品を剥ぎ取っているのだ。誰がどう見ても、強奪しているようにしか思えない姿ではあるが、ランポッサⅢ世に抵抗の気配は無い。それどころか任せているようにも思われた。

その平民の格好をしているのはクライムだった。

白い全身鎧をすでに脱ぎ去り、その辺りにいる平民と何も変わらない格好をしている。

本来全身鎧は簡単に脱げるものではないが、クライムはその手に持った魔法の剣を使用し、留め金の部分を容赦なく破壊していった。

ランポッサⅢ世の鎧も魔法の掛かった一級品だが、それでもクライムの剣ならば破壊することも何とかできる。

「しかし今から逃げてどうにかなると思うか?」

地響きのような足音はかなりの速度で迫りつつある。その極限の状況にあって、ランポッサⅢ世の口調は平然としたもの。さきほどまでこの地にいた貴族達の混乱しきった声とは比べ物にならない。

問題はその口調は、生きることを諦めている人間に特有なものというべきか。

ここで死んでも構わないという執着心の無さが、口調に現れているのだ。

「まず、無理でしょう。馬に乗って逃げれば奴は確実に追ってきます。見ておりましたが大勢で逃げている者を優先的に攻撃しているようです。だから我々が助かる手段はこれしかありません」

先ほどまで残っていたガゼフ直轄の兵士達を、馬に乗せて団体で逃がしたのはその理由かとランポッサⅢ世は悟る。そしてその兵士達の表情に浮かんでいた、見事な笑顔の理由を。そしてここにいた貴族達に馬を渡して逃げるように薦めたのかも。

「クライム。おまえはどうしてそこまで」

分かるのかと、ランポッサⅢ世は続ける。

これほどの極限状況において、情報を収集できるのはごく一部の人間ぐらいだ。よほど精神的にタフでなければ出来ないだろう。

「私はあの化け物よりも恐ろしい人を見たことがあります。ですので誰よりも早く行動できたためです」

王都で向けられた凄まじい殺気。それがあったためにクライムは誰よりもいち早く、我を取り戻すことができたのだ。

鎧を脱ぎ捨て、剣を捨て、兜だって捨てたランポッサⅢ世にクライムは土を付け始める。

「陛下。これでも逃げられるかどうかは運次第です。もし……そのときはお許しください」

「良い、クライム。私はお前のアイデアを採用しただけだ。そのときは運が無かったと諦めよう」

黒い仔山羊は無数にあった旗を触手で吹き飛ばし、満足げに周囲を観察する。

この辺りが本陣なのだろうが、もはや人の気配は無かった。

近くに人間が2人おり、重なるように大地に転がっていた。両者とも生きてはいるが、今まで無数に殺してきた多くの人間と同じで、鎧を着ない者であり、薄汚れた格好をしている。いままで十分に殺戮をしてきたモノからすれば、特別な魅力を感じない人間だった。

とりあえずは行きがけの駄賃として踏み殺すかと動き出した時点で、ゆっくりと離れていく一団がいることに気付く。馬に乗った一団であり、全身鎧をしっかりと着た姿は単なる兵士ではないことを意味している。

他の仲間はと様子を伺ってみると、そちらを追いかけているモノはいない。

自らの召喚者の願いは蹂躙であり、多くの人間を殺すこと。そして馬に乗るような地位の高いものを殺すことだ。わざわざその辺りにいる人間を殺すために時間を費やすより、逃げていく人間を殺す方が先である。

それに黒い仔山羊の召喚時間だって無限ではないのだから。

黒い仔山羊は大地に転がっている人間から興味をなくすと、即座に再び走り出すのだった。