軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

585.公爵家の子供達4

「あにうえー!」

午後の剣の鍛錬を終えて汗を拭っている最中、鍛錬場の外から走り寄ってきたクリストフに、アレクシスからすっと差し出された木剣を受け取る。

「どうしたクリストフ」

「あにうえに会いにまいりました。たんれんはおわったのでしょ、僕とあそんでください」

屈託なく言い放つクリストフに苦笑を浮かべながら、抱きついてきた弟を抱きとめ、アレクシスは優しく自分と同じ色の髪を撫でる。

「クリストフ様、走らないでください! アレクシス様、申し訳ありません!」

少し遅れて、クリストフの世話係の一人の少女が鍛錬場の入り口にたどり着く。ひどく息を乱しているところを見ると、ずっと飛び出したクリストフを追いかけてきたのだろう。

年が明けて四歳になったクリストフは、母親であるメリージェーンが寝付いていることもあり、最近こうしてよくアレクシスを訪ねてくるようになった。

アレクシスもそうだが、非常に体力のある子供で、周りで世話をしている女性たちはその活発さについていけない場面も多い様子である。

「アレクシス様、次は地政学の授業がありますが」

オーギュストがそう告げると、クリストフはえーっと大きな声を上げる。

捕まえた兄を離すまいと小さな手にぎゅっと力が入るのに、アレクシスは宥めるように弟の背中をとんとんと叩いた。

「いい。教師には一時間ほど授業を遅らせるように伝えてくれ。――クリストフ、庭で本でも読もうか」

アレクシスが自分を優先したことが嬉しいのだろう、クリストフは青灰色の瞳をぱっと輝かせた。

「ありがとうございます、あにうえ、大好きです!」

弟にはやけに甘いアレクシスにやれやれと思ったものの、クリストフの世話係はアレクシスの言葉に安堵したような様子を見せていた。

ここで断られた場合は、クリストフの癇癪に付き合う羽目になるのだろう。

これまでクリストフについてべったりと世話をしていたメリージェーンが寝室に籠るようになって三ヶ月が過ぎた。

次男として甘やかされてきたクリストフはこのところ癇癪を起こすことも多いらしく、アレクシスに会った後は落ち着くということをオーギュストも小耳に挟んでいる。

公爵家にはクリストフに大人しくするように言い含めることのできる立場の人間はほとんど存在しない。後継者として剣の鍛錬と座学の授業も始まったアレクシスも決して暇な身ではないが、慕ってくる弟を無下にすることはなく、どうしても難しい場合を除けばできる限りクリストフの相手をしてやっていた。

ほんの少し前まで蛇の抜け殻を見つけては嬉しそうに拾い上げて隠したり、渡り燕の巣から落ちた雛を親鳥に威嚇されながら巣に戻してやっていたというのに、最近はすっかり兄の顔をするようになった気がする。

「オーギュスト! 本をとってきて! まものの話がいい!」

「かしこまりました、クリストフ様」

アレクシスにまとわりついて無邪気に笑いながら言うクリストフに、礼を執って木剣を片付け、急ぎ足で鍛錬所を出る。

まずは家庭教師に一時間遅れる旨を連絡し、本を管理している家令を見つけ出して持ち出しの許可を取り、二人のお気に入りである奥向きの中庭まで届ける。

一時間では到底クリストフの気が済まず、アレクシスが立ち去る際にはゴネるだろう。まだ四歳のクリストフは、午後の軽食を済ませるとそのまま昼寝に入ることが多いので、そのタイミングで飲み物と軽食を差し入れるよう使用人に伝えることも忘れずに。

頭の中で段取りを組みながら、奥向きに向かって小走りに進む。

家庭教師に難色を示されるだろうが手短に伝え、軽食は厨房のメイドに直接言うのがいいだろう。雑用係に指示すると、厨房に伝える役を押し付け合って伝言ゲームになり、遅れることがあるのだ。

公爵家に来て二年と少しが過ぎ、随分公爵家の内部にも詳しくなった。

夏の盛りが過ぎて、日が落ちると肌寒い日も増えてきたので、クリストフの世話係には毛布も用意しておくように伝えよう。

そんなことを考える、オーギュスト、九歳の秋のことだった。

* * *

秋の入り口に入ったばかりということもあり、その日の昼下がりはよく晴れていた。

北部は冬の訪れが早く、一度冬になってしまえば次の春が来るまで厚い雲が空を覆い、晴れ間がめったに見えることがなくなる。

太陽の光が減り、ひどく冷え込む日が続く冬は人々にとって決して心地よい季節ではない。まして公爵家ともなると、主が不在になる時期が長く続き、灯された火が消えたような陰鬱な空気が日常的にこもることになる。

そうした理由もあるのだろう、アレクシスはよくクリストフを中庭に誘っていた。よく日の光にあたり、厳しい冬を乗り切り次の春を待つまでの間、まだ幼い弟が健やかに過ごすことができるようにという、兄らしい優しさを垣間見せる。

「そうして勇猛な勇者は、大地から湧き出す氷の魔物を討伐しました。勇者はその後この地に根付き、人々を率いて暮らしを守り続け、やがて 古き守護の地(オルドランド) と名乗り、今も北部を守っています」

すでに何度も読んでもらっている物語でも、クリストフにとっては毎回が新鮮な感動を覚えるものらしい。アレクシスが物語を結ぶと、ふうとため息をついて嬉しそうに笑っている。

「これが、僕たちのご先祖様のお話なんですね!」

「そうだな。勇者の子孫である代々の当主も、そして私たちの父も、ずっと北部を守り続けてきた。いずれは私とお前もそうするんだ」

「僕、がんばります、あにうえ。いっしょに北部を守っていきましょうね」

「そうだな」

兄弟の時間を邪魔しないよう、少し離れたところでその会話を聞いていると、奥向きの回廊を進む使用人たちがおしゃべりをしながら通りかかったところだった。

アレクシスとクリストフは茂みの陰に隠れるようにうずくまって本を眺めていたので、どうやら視界に入っていないらしい。咳払いでもして注意をこちらに向けようかと思ったが、それより早く彼女たちの声が聞こえてきた。

「ねえ奥様、今回も駄目だったみたいね」

「ええ、昨日から奥向きは騒ぎになってるわよねえ。侍医がつきっきりだったけど、今朝方、公爵様にお伝えされたみたい」

「クリストフ様がお生まれになった後、これで三度目でしょう? 奥様のお体が心配だわ」

「こればっかりは、なかなか思うようにはいかないものよね」

本人たちにそのつもりはないのだろうが、周囲に人がいないと思っているのだろう。その声はよく響き、オーギュストの後ろの茂みに隠れるようにうずくまっている兄弟にも、しっかりと届いた様子だった。

「あにうえ、だめだったって、何がですか?」

アレクシスがそれに応えた声は聞こえてこなかった。その代わりクリストフのくふくふという含み笑いが響いたので、おそらく優しく頭を撫でてやったのだろう。

「オーギュスト」

「はい。行って参ります」

明確な指示はなかったが、アレクシスが何を優先しているのか知っていれば、意味はおのずと理解できる。回廊を進む使用人たちは、駆け寄ってくるオーギュストに気づいて慌てた様子だった。

「あちらで公子様たちが遊んでいます。どうぞ声をお落としください」

使用人たちは青ざめて顔を見合わせたものの、オーギュストがじっと見つめていることに気づくと、こうべを垂れて慌ただしくその場を立ち去っていった。

逃げるように立ち去るその背中を見送っていると、別の使用人が入れ替わるように軽食を運んでくる。

「アレクシス様、クリストフ様、お茶を飲んで温まってください」

まだ入り口とはいえ、秋の木陰は少し冷える。子犬の兄弟のように茂みから飛び出してきた二人は、使用人たちがセッティングしているテーブルに慌ただしく着き、ミルクの入った温かいお茶を傾けながら、デーツを入れて焼いた固焼きのクッキーにかじりつく。ぽつんと残された本を拾い上げ、埃を払ってアレクシスの傍に戻ると、ポケットから取り出したハンカチでクリストフの口元を拭っているところだった。

「クリストフ、こぼしているぞ」

「えへへ」

兄に世話をされるのが嬉しいのだろう、クリストフは白い頬を赤く染めて笑っている。

「あにうえ、母上にはまだ会えないのでしょうか」

「そうだな。もう少し母上の体調が良くなれば、すぐにお会いできるようになるだろう。それまでは寂しくないように、私に会いにおいで」

「はい!」

「いい子だな」

そうしてしばらくお茶と軽食を囲みながらおしゃべりをしていたけれど、やがて体が温まったらしく、クリストフはうとうとと舟を漕ぎ始めた。

声を出さないように控えていたクリストフの世話係に合図をすると、年長の世話係は小さな体をそっと毛布でくるみ、振動を与えないようにゆっくりと抱き上げる。

「ありがとうございます、アレクシス様」

「私の弟だ。礼を言われるようなことではない」

それでも世話係はクリストフを抱いたまま、そっと礼を執り退出していった。

「さあ、俺たちも授業に行きましょう。一時間はとっくに過ぎていますから、怒られる時は一緒に怒られてくださいね」

「私を怒れる者はこの屋敷では父上と母上だけだ。お前に任せるよ、オーギュスト」

損な役回りだと思いつつ、穏やかな瞳で立ち去っていったクリストフの世話係の背中を視線で追っているアレクシスに、そうですねと頷く。

誰かが叱責を受けなければならないなら、それは自分が請け負った方がいい。

弟を大事にするために選択したアレクシスが、それで誰かに責められるようなことにはなってほしくないと思う。

「じゃあせめて、お説教が短く済むように急ぎましょう」

そう言うとアレクシスは立ち上がり、そうだなと口角を上げて笑うのだった。