作品タイトル不明
482.思い出語り
ベロニカはスプーンを置くと、口元を拭いてワインで唇を湿らせる。その一連の所作は優雅で洗練されたもので、彼女の身分が非常に高いことがそれだけで伝わってくる。
「私は元々南の生まれなのですが、訳あって王都で暮らしている時期が長かったのです。夫とはそこで出会ったのですが、こうした身分には珍しく、恋愛結婚でしたの」
「おお、ですが、ご両親の許可を得られたのなら素晴らしいではないですか」
「ふふ、というより私にはもう反対する両親がいなかったのです。後見してくれる方はいましたが、寄る辺のない身でした。――ここだけの話ですが、出会った頃は私も彼も、他に想う方があったのです」
ルドルフの言葉にベロニカはそう答え、それまでの優雅な立ち振る舞いとは打って変わって、茶目っ気を見せるように笑う。
「お互いに想う方は別のお相手を選ばれて、私たちの再会はそこからずっと後でした。彼もまた孤独な身の上でしたので、寄り添うような気持ちで私たちは一緒になりました」
その口ぶりからベロニカが女相続人――直系に女性しか生まれず、その家が土地に強く根付いていたり非常に重要な家系で、財産を国が管理することが難しい状態の時にその女性の夫、いずれは息子が家を継ぐことを認められた立場であったことは、想像に難くない。
生まれた家のために縁付くのは、貴族として生まれたからには義務だ。
だが恋愛結婚が全く無いかといえば、そんなことはない。結婚式の当日に相手の顔を見ることも珍しくはないけれど、早いうちに婚約が調えば手紙のやりとりをしたり社交シーズンに交流を持つうちに互いに惹かれ合うこともあるし、貴族の集まりで相手を見初め、身分が釣り合っているなら打診が行われるという形での結婚もある。
望まぬ相手と家のために結婚をし、パーティや観劇にのめり込む者もいれば、宮廷風恋愛に耽溺する者も少なくはない。ある程度そうした気風が認められている空気もある中で、想い、想われる夫婦関係は理想的と言えるだろう。
「北部には、二人で旅に来たことがあります。夫は元々北部に縁のある人で、成長したのも北部なのだそうですわ。ふふ、南で生まれた私はこのように突然行動に出るような突飛なところがあるのですが、北で育った夫は非常に慎重な人でした。性格も考え方も何もかも違ったのに、それが却ってよかったのでしょうか。私たち、悪くない関係だったと思います」
ベロニカの言葉はなめらかで、静かなものだった。熱情をもって夫を愛しているという口ぶりではないものの、大切な思い出のアルバムを静かにめくるような、ゆっくりとした言葉が連なる。
「この先に、湖があるでしょう?」
「モルトル湖ですね。エンカー地方の大切な資源のひとつです」
「ええ、その湖ですわ。二人で北部に立ち寄った際、急に湖が見たいと言った私に、昔行ったことがあるからとその時夫は珍しく自分から案内してくれまして、二人で見に行きました。まだ夏だというのに夜になるとこの辺りは寒くて、馬に寄り添って震える私に君は意外と寒がりなんだなとあの人は笑って、本当にひどい人です。――でも、あの時の北部の星は、とても綺麗でした」
ベロニカの言葉に、気が付けば食堂にいた全員が聞き入っていた。
この世界には物語に触れる機会が少ない。特に貴族の会話は制約が多く、当たり障りのないものに始終することが多いので、物語が娯楽になると知らない者もいるくらいだ。
まして恋の話は、それが手に入らない者の多い貴族の中ではふしだらであると眉を顰める者も少なくないほどである。
一方で、観劇に通い詰める貴族夫人もいれば、平民の中でも物語を歌と語りで行う吟遊詩人が職業として成立したりする。
触れる機会が少なくとも、こちらの世界でも、物語はやはり面白いと感じるものだ。
貴族という身分にも拘らず恋愛結婚をし、自由に振る舞う妻と慎重な夫という性格の違う二人が、時にロマンチックに過ごしたという話は、新鮮で惹き付けられるものだ。
それと同時に、ベロニカの言葉の抑揚は、染みこむように心に入り込んでくる。
落ち着いた話し方だ。声はそう高くはないけれど、不自然なほど低いわけでもない。耳に心地よく、その内容がするすると理解しやすいものだった。
前世で浴びるほどに物語を読んだメルフィーナや、まさにその世界からやってきたマリアですら聞き入るほどの言葉に、それ以外の者は魅入られても、なんの不思議もない。
こうして話しているうちにルドルフも、すっかり話に聞き入り、手助けをしてやりたいと思うようになったのだろう。
そんなことを考えているメルフィーナを見透かしたわけでもないだろうけれど、目が合ったベロニカは、目を細めて微笑んだ。
「夫を見送って、残された私は役目を果たす日々でしたが、最近大きな節目が訪れました。そうなったとき、あの時見た星がなんだかとても懐かしくなったのです。そしたらいてもたってもいられなくて、屋敷を飛び出していました。この季節ですからまともな旅になるはずもなく、門の兵士にここから先は女一人で出すわけにはいかないと足止めされていたところを、クロフォード様に声を掛けていただけたのです」
「随分高圧的な兵士でしたから、そうせずにはいられなかったのです。全く、確かに女性一人で街から出るのは危険極まりない行為ですが、淑女に対して言い方というものがあるでしょうに」
「ほ、ほほ。私もすっかり頭に血が上ってしまって、もっと素直に忠告を受け入れればよかったと思っています。でも弟君のお陰で、今こうしてここにいられるというわけです」
ベロニカの――少なくとも「アントワーヌ夫人」としての行動は、無謀で突飛ではあっても、一応筋は通っている。産み月だというのに観劇に出かけて出先で出産してしまうような高位貴族の夫人もいるくらいだ、不意に亡夫との思い出をなぞりたくなって無茶な行いに出る夫人も、いるかもしれない。
貴族は、どんな言葉が言質になるか分からない立場だ。自然と抽象的な表現を好むようになるので、ベロニカの話に曖昧な部分が多いのも、貴族としては不自然なものではない。
結局その話からは、ベロニカは南の出身で、その夫は北部の生まれであり、出会った時はあまり縁が無かったけれど孤独な二人は後に惹かれ合うようになって結ばれた。この辺りには夫婦として来たことがあるということくらいしか分からなかった。
「そうなのですね……辛いことを思い出させてしまって申し訳ありません」
「いいえ、痛みも寂しさも、もう全て終わったことです。私の中でも大切な思い出ではありますが、それは傷ではなく、ただ懐かしい記憶なのです」
見た目は二十代の前半、どれだけ見積もっても半ばというところだろうに、やけに老成した雰囲気で、ベロニカは笑う。
「そう長い滞在にはならないと思いますが、夫との思い出をなぞってみようと思います。とはいえ、私が来た時とは、随分様変わりしてしまいましたが」
「そうですね。この数年で、沢山手を入れたので、昔の面影はあまり残っていないかもしれません」
荒れていた土地を均して大規模な圃場を造り、放し飼いが当たり前だった家畜を一括で管理しただけで、随分土地の雰囲気は変わってしまうものだ。村は一度再編してほとんど建て直してしまったし、城館を造り、橋を建設するためにあちこち造成を行った結果、今や川の形すら昔とは違っている。
ほんの数年前と比べても、同じ土地とは思えないほどエンカー地方は変わった。
「ええ、あの頃は、この辺りには小さな開拓の村があるだけで、あとはただ風が吹くばかりの寂しい土地でしたのに。今日の昼に見たら何もかも変わっていて驚きました」
ベロニカは頷いて、少し首を傾げ、微笑む。
「ええ、まるで物語の、清らかな乙女の建国の物語が現実に現れたようだと思いましたわ」