軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

452.初めての人と愚か者

そよそよと吹いていた風がさらに冷たくなってきた頃、太陽が傾き始め、辺りはゆっくりと明るさが失われていった。

名残惜しい気持ちもあるけれど二人で寄り添うように村に戻り、宿に入る。夕方は食堂兼酒場になるらしい宿はそれなりの数の客が入っていたけれど、愛想のいい女性の従業員に声を掛けるとすぐに宿の通路の奥に入るようにと案内された。

「お二人さん、夫婦かい? 今は村の客で混んでるけど、日が落ちたら宿泊客だけになるから、食べに来てよ」

「ええ、是非そうさせてもらいますね」

メルフィーナが告げると女性はパチパチと瞬きしたあと、あっはっは、と大きく笑った。

「いやあ、旦那さん、綺麗な奥さんで羨ましいね。自慢だろう?」

「ああ、自慢の妻だ」

あっさりとそう告げるアレクシスの口元にはうっすらと笑みが浮いていて、まだ若い女性の従業員が、次はメルフィーナに目を向ける。

言葉にしなくても、男前の旦那さんだねと言いたげであることは、十分に伝わってきた。

「……もう行きましょう。少し、座って休みたいわ」

少し俯きながら、アレクシスの裾をくい、と引くと、腰を抱かれて再び歩き出す。木製の、幅の狭いドアをくぐり中に入ると、食堂の喧騒がふっと遠のいた。

これくらいの規模の宿だと魔石のランプはほとんどないらしく、かといって窓を開けて採光するには冷えるので、通路には等間隔に蝋燭の火がともされていた。獣脂が燃える独特の香りはなんだか非日常感がある。

「――そんなに初心な反応をされると、私も少し困るな」

「え?」

「顔が真っ赤だった」

この廊下では顔色など見えないだろうから、先ほどの食堂でのことだろう。誰のせいだと思うけれど、アレクシスとしてはそれほど特別なことを言ったつもりはないのかもしれない。

「まだ、慣れないのよ。領主邸のみんなもそうだけれど、全然知らない人の前だと、余計に」

「いや、責めているわけではない。むしろ――」

「まって、言わないで! ……アレクシス、あなた、分かっていてやっているのではないわよね?」

一拍置いて、くつくつと笑いに体が揺れる振動が伝わってくる。

「もう!」

「いや、違う。君を動揺させるつもりはないんだ。だが……いや、私は、どうも随分、浮かれているようだ」

からかう意図はないと、改めて告げられる。それはそうだろう。アレクシスの性格を考えても、わざと人をからかって喜ぶような一面があるとは思えない。

堅苦しいほど真面目で、それはある種の面白みのなさにつながるものだ。少なくともゲームのキャラクターの「アレクシス」はそうだ。

その冷たさ、怜悧な印象とは裏腹に、命を懸けてヒロインを守る情熱。それが彼のキャラクターとしての魅力だった。

最近のアレクシスはそうした印象が少し、薄れたような気がする。以前なら黙殺していたような軽口にも返事をするし、メルフィーナに対しても愛情表現を怠らない。これまでの関係性を一気に飛び越えてきたそれにたじたじとさせられるばかりだ。

そう、本人が言うように……多分、彼は浮かれている。

それが自分との関係が変化したことに由来しているのだと思うと、かあっと全身が熱くなる。

廊下の先が明るくなっている。あそこが宿泊客のためのロビーだろう。あとほんの少しの間に、全身を駆け巡る血をなんとか鎮めることは出来ないだろうか。

どれほど前世の知識を頭に収めていても、残念ながら、その解決策を見つけることはできなかった。

* * *

公爵家が押さえているという部屋は、宿の規模に比べると随分大きな部屋だった。

領主邸のメルフィーナの部屋は初期から変わらない建物の中にあるのでこぢんまりとしているので、それと比べれば倍以上の広さがある。

ベッドがふたつと、寛ぐためのソファセット、旅人に需要があるのだろう、壁の端には手記を書くための机と椅子、小型の魔石のランプが置かれている。ラッドが手配してくれたのだろう、すでに暖炉に火が入っていて、室内は暖かかった。

ソファに座ると馬車の移動と散策で思ったより疲れていたらしい、脚が少し重たく感じられる。

「お茶を淹れたいところだけれど、ここはお湯を貰ってこないと無理みたいね」

「エールを買ってくるか?」

「いえ、あとで食堂に行きましょう。食堂が空くまで、何か時間を潰しましょうか」

アレクシスがメルフィーナのすぐ隣に腰を下ろす。青灰色の瞳に見つめられて、ちらりと睨み返してみたものの、威圧の効果がないどころか戦い慣れしているアレクシスには逆効果だったらしい。

「ん……」

頬を撫でられて、唇を重ねる。拒む気もそんな理由もなく、何度かついばむように唇を合わせ、深くなったところで舌先に尖った犬歯が当たり、昼間見たそれを思い出して、一気に体が熱くなった。

――あ、駄目かも。

浮かれているのは、メルフィーナも同じだ。

知った人の目がなくて、寄り添い合って、二人きりで。ひとつの食べ物を分け合って食べて、歩きながらのんびり羊を見たりして。

もうずっと、心が跳ねるように浮かれている。

手を握るたび、腰をしっかりと支えられるたびに、アレクシスと自分の違いを感じて、惹かれて、目がくらむような気持ちになる。

まるでメルフィーナの輪郭を確認するように、体に触れる、アレクシスの大きな手。

おずおずとアレクシスの背中に手を回せば、冬用の厚い上着の布越しに、彼の肉体が鍛え上げられたものだと分かる。

上着の上からですらそうなのだ。もしも素肌に触れてしまったら、どんな心地がするのだろう――。

「ま、待って」

思考がパン! と破裂する音が聞こえた気がした。アレクシスに流されるまでもなく、自分がそれを望んでしまいそうで、寸でのところで理性が制止の声を上げる。アレクシスもはっとしたように、半ば押し倒しかけていたメルフィーナから跳ねるように体を起こした。

「すまない。夢中になりすぎた」

「いえ、あなたが謝ることではないの。その、こっちこそ、ごめんなさい」

「いや……参ったな。自分に、これほど理性がないとは、思わなかった」

ばつが悪そうにこぼす、アレクシスはどこか気まずそうだ。そんな顔をさせたいわけではなかったのに、なんと声を掛けるべきかも分からない。

理性の欠如はこちらも同じことだ。少し触れるだけで、歯止めが利かなくなってしまう。強いアルコールに酔ったようにぼんやりして、もっと触れたいと自然と思う。

「その、当たり前だけれど、私、は、初めてで。だから、こういうこと、よく分からなくて」

「私もだ」

「……え?」

「私も、女性に触れるのは、君が初めてだ」

「そ、そそうなのね」

変に舌がもつれてしまい、思わず手のひらで口を覆う。

アレクシスには婚約者がいたと聞いていたけれど、考えてみれば当たり前かもしれない。その彼女は非常に若くして彼の弟の子であるウィリアムを産み、産褥から戻ることが出来なかった。

アレクシスはずっと子供を持つこと自体を忌避していたし、若くして公爵位を継ぎ、政務に討伐にと、とても忙しい人でもある。

その恐れのある行為そのものを避けるのも、自然な成り行きだったのだろう。

「……キスも、私が初めてだった?」

「ああ」

「そう……私もよ」

一度離れたはずなのに、いつの間にか手を握られていた。口を覆ったままのもう片方の手首を優しく掴まれて、うつむく。

「今、顔、見られたくないわ」

「なぜ?」

「……きっと、笑ってるでしょ、私」

アレクシスにそうした経験がないなんて考えたこともなかった。身分上、誘惑も機会も決して少なかったはずのない彼のそうした来歴は、アレクシスが見てきた痛ましい北部の問題が彼に付けた傷によるものだ。

それなのに、喜んでいる自分がなんだか浅ましいような気がして、見られたくない。

「メルフィーナ」

「だめ、今は許して」

「駄目だ。目を開いて、私を見てくれ」

低く、有無を言わせない声にまぶたを震わせて、ゆっくりと持ち上げる。

「私は、どんな顔をしている?」

「……私たち、きっと今、世界一の馬鹿だわ」

くつくつと、ひそやかな笑いが伝わってくる。からかっているつもりはないと先ほど言われたばかりなのに、やっぱり、翻弄されている気がする。

「私は、君の前では世界一の愚か者だ」

その声は、とても甘くて。

「私をそうしてくれて、ありがとう、メルフィーナ」

とても抗えないくらい、メルフィーナを酔わせるものだった。