軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

423.魚のパイと少年の心

食堂に入ると、暖かい空気と共にふわりとバターとクリームの香りが漂っていて、なんだか無性にほっとした。

早めに来てエドとお喋りしていたらしく、すでにウィリアムは席に着いていて、メルフィーナと目が合うとほっとしたように表情を綻ばせた。

「ごめんなさい、待たせてしまったわね」

「ちょうど今焼き上がったところです。今日は皆さんが釣ってきたお魚のパイを焼いてみました」

エドが朗らかに言って、大皿を運んでくると、コーネリアがわっ、と手を合わせて嬉しそうに笑う。

「お魚の形をしたパイですね!」

「ほぐし身にして使わせてもらったんですけど、折角のお魚なので形だけでも似せようかなと思って」

テーブルの中央に置かれた皿に載っていたのは、光沢のあるキャラメル色に焼き上がったパイだった。流線形の魚の形を模してあり、尾びれや背びれも立派で、食卓が楽しくなる形をしている。

「あの、伯母様、よければ私が切り分けてもいいでしょうか?」

「ええ、お願いするわ」

こうした大皿料理を切り分けるのはその家の主の役割だけれど、今日はウィリアムが買って出てくれた。エドにナイフを手渡されて、おそるおそるというように刃を入れると、ザクリ、となんともいい音が立つ。

切り分けた先からエドが小皿に盛り付けて配膳してくれる。ずっと浮かない顔をしていたマリアだけれど、断面からこぼれ落ちるような具と白身魚の上品な香りにほっと力が抜けたような表情を浮かべていた。

フォークを入れて、まずはメルフィーナがひと口食べる。

川魚を使っているので淡泊な味かと思ったけれど、予想よりずっと濃厚でねっとりとした口当たりだった。その弾力に白身魚の旨味が包まれていて、さくさくと軽いパイの口当たりの差がなんとも面白い。

「このねっとりとした弾力は、炊いた麦を入れているんですね! じっくりと火を入れて甘さを引き出した玉ねぎと、柔らかく炊いた麦とソースがお魚を包み込んで、ハーブのアクセントととても調和しています。優しい味の川魚では濃厚なソースとハーブに負けるように思えるのに、それぞれの旨味を引き立て合っていて、パイの層が口の中で解けるたびにバターの香りが立って、口の中がなんて華やかなんでしょう」

こちらではパイというのは、いわゆるバターと薄力粉を何層も重ねてさくりと焼き上げたものというより、ラードと強力粉をしっかりと混ぜて硬く焼きしめたものが主流だ。とても硬くて、食器代わりに使い、貴族は食べずに使用人に下げ渡したり、犬の餌にしたりすることもある。

こうしたサクサクのパイは、石窯ではなく火の魔石を使ったオーブンでなければ均一に火を入れるのが難しい。エドはその両方を、すっかり使いこなしていた。

「わあ、これ美味しいね。焼いただけでも美味しい魚だったけど、全然違う」

「マリア様もたくさん釣って下さったと、ウィリアム様から聞きました。まだ残っているので、明日はロマーナの小麦粉でさっくりしたフリットにしますね」

「そっちも楽しみ」

マリアも笑って、すぐにもうひと口、口に入れる。

「フィリングを作るの、ウィリアム様もお手伝いしてくれたんですよ。鱗を取るのがすごくお上手なんです」

「エドが教えてくれたからだ。最初の何匹かは細かいところが取り切れていなかったし、やはり中々難しいものだな」

照れたように言うウィリアムに、エドはにこにこと笑っている。

エドは見え透いたお世辞を言うような性格でないので、ウィリアムはすぐに照れ隠しするように視線を逸らして、スープを傾けていた。

「ウィリアム、今日は楽しく過ごせましたか?」

「はい、伯母様! 釣り糸を垂らすとすぐに釣れるので、面白くてたくさん釣ってしまいました。川べりで何匹か焼いて、みんなで食べたんですよ。塩を振って焼いただけなのに、それがとても美味しくて」

エンカー地方にいても、日中は勉強と訓練の時間を取っているウィリアムにとって、今日は子供らしく遊んだ一日だったはずだ。

あんなトラブルが起きたとはいえ、それについて尋ねる余裕をなくしていたことを、少しばかり反省する。

「ウィリアム君、釣りも上手いよね。確かによく釣れたけど、私は結構餌だけ持ってかれちゃったよ」

「私もあまり釣りをした経験はないけれど、引きが来てからすぐに引っ張り上げるのではなく、魚の捕食の方法によって引き上げるタイミングを計る必要があるみたいね。ウィリアムはきっと、そういうのが上手いのだと思うわ」

スープはポロ葱と蕪を入れ、塩で薄味に調味したもので、濃厚なパイの後に温かいスープを口に入れるとさっぱりとする。付け合わせの茹でた野菜をつまみながら、先ほどまで胃の辺りに重たく渦巻いていた嫌な気分が和らいでいることに、小さく苦笑が漏れた。

美味しいものを食べて、親しい人たちと言葉を交わす。それだけで気持ちが楽になっている自分が、とても単純に思えた。

「本当に美味しいわ。ウィリアム、コーネリア、マリア。たくさん釣ってきてくれてありがとう」

「わたしもとても楽しかったので、今度は是非メルフィーナ様もご一緒しましょう」

パイをすっかり食べきったコーネリアの皿を受け取り、残りのパイをよそう。嬉しそうにそれを受け取る彼女にそうね、と頷いた。

「もうすぐアレクシスも来るでしょうし、そうしたら改めて、みんなで行きましょうか」

その言葉にウィリアムはぱっと表情を明るくしたものの、すぐに曇らせてしまう。

「あの、伯母様、ヘルマン……オルドランド家の騎士は、どうなりましたか」

その声は潜められた小声で、彼がずっと気になっていたことが伝わってくる。

いつもより食堂に早くいたのも、厨房の手伝いをしていたのも、一人でいるのが気づまりだったのかもしれない。

「今は客室に待機してもらっているわ。詳細がわかるまで、別館にはあまり近づかないようにしてね」

「牢につながれているわけではないのですね」

「そんなことはしないわ」

ほっとしたような様子だけれど、そもそも領主邸には牢に相当するような建物が存在していない。

地下室はあるものの、主要な産業製品を保存している場所なので地下牢代わりに利用することはないし、こんなことが起きるまで、必要だと思ったことすらなかった。

「心配していたわよね。説明が遅くなってしまって、ごめんなさいね」

「いえ、私は大丈夫です。ですが、ヘルマンがなぜあんなことをしたのかと、不思議で……。公爵家ではよく訓練場で顔を合わせる機会がありましたが、騎士の中では温和で、武具の扱い方も丁寧に教えてもらったことがあったので」

ウィリアムの母親のことを思えば、何が起きたのかを詳らかに説明することは避けたかった。

何より、彼はまだ子供だ。起きたことをなんでもそのまま話せばいいというものではない。

「あの、伯母様。私から、ヘルマンに話をしてみては駄目でしょうか」

なんと答えたものか迷っていると、ウィリアムの向かいに座ったマリーが丁寧な所作でお茶を淹れ、ウィリアムの前に置く。

「ウィリアム。今はメルフィーナ様が対応なさっているから、しばらく待ちましょう」

「……はい」

「お兄様もすぐにこちらに着くでしょうし、心配はいらないわ」

楽しい一日を過ごした直後に不穏なものを見て、不安になってしまったのだろう。ウィリアムはこくりと頷くと、無理に微笑むような表情を作る。

「出過ぎたことを言いました。申し訳ありません」

食事中に無作法であるとは分かっていたけれど、手を伸ばして、ウィリアムの頭を撫でる。

「ウィリアムが優しいことは伝わっても、出過ぎているなんて思わないわ。でも、私もあなたがとても心配になってしまうから、何が起きたかきちんと分かるまでは見守っていてね」

「――はい」

ウィリアムはくすぐったそうに唇をぎゅっと引き締めて、白い頬をうっすらと赤く染めた。

ウィリアムの容姿は、アレクシスにとてもよく似ている。

複雑な立場に生まれて、それでも周囲の期待に応えようと懸命に頑張っている、そんな少年だ。

いずれ大人になった時、今日見たことの意味を理解して、彼が傷つくことがなければいいと思わずにはいられない。

――全部、なんとかなればいいのに。

食事を終える頃、城門のあたりから声が響いてきて、クリフが素早く立ち上がり食堂を出ると、すぐに戻ってきた。

「いやあ、やっぱりここは暖かいですね。こんな時間に馬車に乗ると、冬眠しそうになっていけないです!」

青い長い髪を揺らして、エンカー地方の錬金術師は明るく言った。

「僕の分も夕飯ありますか? 今夜はウサギのシチューだったのに、食べ損ねてしまいました!」