作品タイトル不明
304.悪疫と領主の矜持
悪疫。
前世ならば感染力や拡散性が強く、致死性が高い、もしくは治療が困難な病気を指すが、細菌やウイルスが既知の存在ではないこの世界においても、ほぼ同じ意味を指す言葉だ。
そして、悪疫の流行という言葉がもたらす絶望感は、前世のそれとは比べ物にならないほど、重い。
「状況を説明してください」
メルフィーナの言葉に、兵士は数歩、後ろに下がる。
「お探しの女性を探して、私とは別の兵士が飯場を訪問したところ、多くの滞在者が発熱、腹痛、嘔吐、下痢などの症状を呈しておりました。女性はすぐに飯場周辺を封鎖すること、悪疫の起きた旨を領主様にご報告すること、その際、飯場を出たら手を洗い、服を替え、報告は別の者を介するよう指示されました。それでも念のため、尊き方々からは一定距離を保つようにと」
「コーネリア……」
それは、病は悪い風が体に入って起きるとされているこの世界において、恐ろしく的確な指示と言えるだろう。
神官として各地に従軍し、平素も神殿に籠らず治療院で働いていたというコーネリアには、経験的に判っていたのかもしれない。
ちょっとした下痢や発熱が、簡単に命を奪っていくこの世界で、病気の流行は飢饉と並んで絶望的な言葉と言える。
本当にあっけなく、村が、町が、都市が、病に呑まれて滅んでいき、ほとんどの場合、人間はなす術を持つことがない。
「――っ」
豊かな森と水源を持ち、顔なじみの人々が暮らす領地で、人々が地に倒れ伏し、苦しみぬいて死んでいく光景が脳裏に走り、悲鳴とも嗚咽とも分からないものが喉元までこみ上げて、両手で口をふさぐ。
――落ち着きなさい、メルフィーナ。
ここは自分の領地で、自分は、エンカー地方の領主だ。
動揺も恐怖も、事態が終わった後で怖かったと震えれば、それでいい。
「現状、飯場の外には広がっていないのですね?」
「はい、お捜しの女性……コーネリア様が言うには、昨日の昼から夜にかけて不調を訴える者が現れ出して、今夜、爆発的に増えたそうです。飯場は橋の建築に関わっている人足が寝泊まりしていることもあり、川を背に、ほとんどの人足は現場と飯場で生活が完結しています。すぐに飯場周辺を封鎖し、工事に関わった人足と職人たちを隔離するようにと」
下痢や発熱ということは、食中毒の可能性が最も高い。それ以外の病気だとしても、潜伏期間はそう長くないことになる。
――病人の「鑑定」を行えば、どんな病気に罹っているのか、判断できるかもしれない。
そして何の病気か分かれば、対策も立てやすくなるだろう。
「すぐに対策を……私も現地に向かいます」
「いけませんメルフィーナ様!」
「発生初期ならまだ抑え込むことが出来るかもしれないわ。少し様子を見て、すぐに離れるし、悪疫に巻き込まれないよう十分に対策もしていくから」
珍しく大きな声を出して制止するマリーを宥めるように言うと、全身で留めるように、抱き着かれてしまう。
マリーは感情表現が穏やかで、普段は決してこんなことをしない人だ。腕ごと抱きしめるように回された腕も、寄り添う体も、小さく震えている。
「すぐに教会に救済の依頼の早馬を出しましょう。到着するまで、どうかメルフィーナ様は領主邸に留まってください」
「それでは、一週間近く飯場を放置することになるわ。その間にそこにいる人たちも、コーネリアも……」
「他の誰より、メルフィーナ様の安全を優先してください!」
悲鳴に近い声に、思わず体が竦む。
「メルフィーナ、私も同意見だ」
「アレクシス……」
「領主である君が悪疫に侵されれば、取り返しがつかなくなる。伝令の兵士もあえて中間を挟むほどだ。その意味が分からない君ではないはずだ」
「重篤な悪疫だったら、いずれエンカー地方全てを巻き込む可能性もあるのよ! 今なら、なんとか出来るかもしれないのに」
「そうなる前に飯場を封鎖し、どうにもならないようなら……周辺を焼き払う決断をするべきだ」
その言葉にぽかんとして、すっ、と血の気が引く。
そこにはコーネリアも……メルフィーナの友人もいると知っていて、アレクシスはそう言うのだ。
厳正な領主として、支配者の顔で。
「悪疫は、一度流行してしまえば瞬く間に共同体を呑み込んでしまう。エンカー地方は今や陸路と水路によって、世界中と繋がっている。朝になればまた運河を伝ってエルバンに、エルバンから他国に荷を載せた船が出る。そこから悪疫が伝うことを考えれば、ささいな犠牲だ」
アレクシスの言葉は、決してあり得ないものではないと頭では分かっている。
前世ではペストが流行した際、ヨーロッパ大陸の実に三分の一から半数に近い人間がこの世を去ったと言われていた。
ペスト菌が肺に感染し、肺ペストとなれば、空気感染しあっという間に人から人に感染っていく。無症状感染者が出先で発病すれば、ネズミ算式に増えていくばかりだ。
そうなれば、取り返しがつかない。
「メルフィーナ。幸いというのは不謹慎かもしれないが、その場所にいる者のほとんどは、出稼ぎの人足たちであり、この土地の、君の領民とは言えない。彼らを治療したと噂が広がれば、貧しい者の間では病に侵されればエンカー地方に行けばいいという流れが必ず出来る。そうした者たちを、全員治療していくことは不可能だ」
「………」
「その費用が、たとえ全て君の私費で賄われたのだとしても、必ず領民の不満を招く。そうした者たちが持ち込む悪疫の脅威に晒されるのも、また、君の領民であるからだ」
畳みかけるような言葉に、呼吸が喉に張り付いたように、声が出なかった。
ここは自分の領地であり、あなたには関係ないのだと、言うことは出来ない。
エンカー地方も北部の一部であり、そしてアレクシスは北部の大部分を支配する大領主だ。
多くの都市と、人々を、脅威から守ってきた人なのだ。
アレクシスの言うことは、領主として一言一句正しいと、頭では分かっている。
封建制と身分制度で成り立っているこの世界に、前世の人権意識を過度に持ち込んではいけないと、メルフィーナ自身が戒めてきた部分もあった。
マリーに抱きしめられたまま、体が冷たくなっていくのが分かる。
それなのに、背中にはびっしりと汗の玉が湧いていた。
――どうすれば、どうすればいいの。
あそこにいるのは領民ではないと言われても、まだ生きている人たちを未来の安寧のために焼くなんて、そんなことは出来ない。
あそこには、コーネリアだっているのに。
「あのっ!」
呆けている暇はないと分かっているのに、次の言葉すら出てこないメルフィーナと厳しい表情のアレクシスの間に、マリアが割り込む。
「そんな場合じゃないんでしょうけど、だからこそ、もっと、メルフィーナに寄り添ってあげてください」
「……君には関係ない」
「ある! 私はメルフィーナの友達で、い、妹なんだから、目の前で傷ついてたら、それだけで庇う理由になるんです!」
「………」
「難しくて追い詰めるようなことをあれこれ言わなくたって、君が心配で、危ないところに行って欲しくないって言えば、それでいいでしょう! メルフィーナは、そんな風に言われなくても、ちゃんと自分で考えて、判る人なんだから」
高い位置から睨めつけるようなアレクシスに対して、マリアは完全に腰が引けている。まるで大型の狩猟犬を前にした小型犬がひっきりなしに吠えているような構図だ。
それでも、メルフィーナの前に立ち、庇ってくれている様子に、へなへなと強張っていた体から力が抜けていく。
「マリー、大丈夫。――軽率なことを言って、ごめんなさいね」
「メルフィーナ様」
「ここにいるわ。だから、泣かないで」
「……泣いていません」
震える声でそう告げて、するりとマリーの腕が解ける。こちらに顔を向けようとしないのは追求せず、アレクシスと自分の間に立っているマリアの両肩を後ろから抱いた。
「ありがとう、マリア。私は大丈夫」
「……わ、私も、コーネリアは大事だけど、メルフィーナに行ってほしくないよ。危ないこと、してほしくない」
「ええ、軽はずみなことは決してしないわ。――アレクシス」
こんな時にまで、感情を全然表に出さず、声もいつもと変わらない冷静な口調だから、つい誤解してしまいそうになる。
彼がここまで強い言葉を使うこと自体が、そうあることじゃない。大抵のことはどうでも良さそうで、金と同等以上の価値がある砂糖の彫刻を折りやすくて紅茶に入れるのにいいだろうと言うような、そんな人なのだ。
「ちゃんと諭してくれて、ありがとう」
「……気の利いた言葉を掛けられなくて、すまない」
その言葉に首を横に振る。
アレクシスが謝ることなど、なにもないのだ。
メルフィーナが万が一にでも感染すれば、それは瞬く間に領主邸の、そして城館の機能に影響を出してしまう。
目の前の危機に混乱して先走ろうとした自分が悪い。
――今、一番にやるべきことを、考えなければならないわ。
悪疫の流行と言っても、色々な病気がある。まずは、その病気がなんなのかを確定させなければならない。
罹患している者を「鑑定」すれば、おそらくそれがわかる。
けれど人間の「鑑定」で出る言葉は神聖言語、メルフィーナやマリアにとっては日本語だ。そしてメルフィーナも、ましてマリアをそこに近づけるわけにはいかない。
「……今は飯場周辺の封鎖を最優先にしてください。マリー、準備をしたいことがあるの、こんな時間だけれど、お針子のジャンヌと、手伝いが出来る女性を集めてちょうだい」
「はい、すぐに」
「セドリックは、これから言うものを集めて欲しいの。先日大獅子商会から買いつけたものを仕舞っている倉庫にあると思うから、それを団欒室に運んでもらえる?」
「かしこまりました」
「私は手紙を書きに執務室に行きます。すぐに戻って来るから、その手紙を飯場まで届けて欲しいの」
悪疫が蔓延している場所に、誰だって近づきたくはないはずだ。それでも領主として兵士に向かって告げると、彼はしっかりと頭を下げた。
「私は、エンカー地方から訓練に入り兵士となった者です。故郷の危機です。なんなりと申し付けて下さい」
その言葉に唇が震えそうになって、ぐっと息を呑んだ。
今の自分は領主だ。
心を乱しながら、人に命じるわけにはいかない。
アレクシスがそうであるように、毅然と振る舞わなければ、感情的な領主のために誰が命を懸けてくれるだろう。
だから背を伸ばして、しっかりと自分の言葉に命を懸ける兵士を真っすぐに見て、言った。
「ありがとう。あなたの忠誠と献身に、必ず報います」