軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

250.別れと約束と祈り

その日、エンカー地方の空を覆っていた雲は去り、夏らしい青い空が広がっていた。

ルクセン王国の国章になぞらえ、白を基調に金をあしらった盛装のセレーネと、夏用の軽い、けれど豪奢な貴族のドレスに身を包んだ自分が向かい合うと、なんだか彼と過ごしたこれまでの時間の方が、夢のように思えてくる。

「オルドランド公爵夫人、長きに亘り、お世話になりました。私がこのように振る舞えるようになったのも、全て夫人のお陰です」

静かで、丁寧なセレーネの言葉に、メルフィーナも恭しく礼を執り、微笑む。

「セルレイネ殿下。行き届かない地ゆえ、何かとご不便をおかけすることも多かったというのに、寛大なお言葉を感謝いたします。これからの殿下の進む道が輝くことをお祈り申し上げております。どうかお健やかにお過ごしください」

儀礼的な挨拶の後、しばし、互いを見つめ合う。

別れが整い過ぎていて、なんだか現実感が湧かない。このままセレーネが馬車に乗り、エンカー地方を立ち去れば、もう二度と会う事すらないかもしれないというのに、焦りよりも寂しさよりも、なんだか空々しい気持ちの方が強かった。

「殿下、そろそろ参りましょう!」

別れを惜しむメルフィーナとセレーネの間に、ペルトネン伯爵の声が割り込む。

セレーネは僅かに疎まし気に眉を寄せたけれど、すぐに諦めたように、小さく息を吐いた。

「それでは、公爵夫人――」

最後の別れの言葉を言いかけたセレーネをじっと見つめると、はっとしたように、彼は言葉を切った。

「殿下?」

「外交官様」

ペルトネン伯爵に、メルフィーナは静かに声をかける。

「セルレイネ殿下はこの一年半、ずっと我慢し続けてきました。元気になって、走り回れるようになって、年頃の少年相応にやりたいことだって沢山あったでしょうに、いつも自分の身分と立場を一番に考えて、我儘ひとつ言わないで」

何を言い出すのかと訝し気な顔をする伯爵に、メルフィーナは貴族的な微笑みを消して、はっきりと言った。

「ペルトネン伯爵、私、あなたのことが嫌いだわ」

これほどはっきりと、誰かに対して嫌悪を口にしたのは、記憶する限り初めてだった。

傍にいたマリーも、オーギュストも、驚いた表情でこちらを見ている。

「あなたのお国の事情がどうだろうと、私がこの土地の領主であることは、フランチェスカ王国の国法が認めたれっきとした権利です。この一年半、セルレイネ殿下とは良き姉と弟のように過ごしてきました。あなたはセルレイネ殿下の未来を支えていく人の一人でしょうし、王都にいる「よき伴侶」となる方を欲するルクセン王国の考えも、国に対するあなたの忠誠も理解できないことはないと思ったので、多少の無礼は私、大目に見るつもりだったんですよ」

冷静であればあろうとするほど、心がひんやりと冷えていくのが分かる。

事を荒立てるのは、セレーネも望まないだろう。

今回のことで何かと骨を折ってくれたアレクシスにも、迷惑をかけてしまうことになるかもしれない。

そんな理性で抑えきれないほど、怒りが腹の中でふつふつと泡立つのが分かる。

――ああ、私にもちゃんと、こういう一面があったんだわ。

ゲームのメルフィーナは、嫌いだと定めた相手に対して、非情に冷酷な振る舞いをする女性だった。マリアへの嫌がらせも、名誉を汚すだけでなく、命に関わるようなものも含まれていた。

それは今の自分にはない苛烈さであると思っていたけれど、ただ単に、これまで本気で嫌う相手がいなかっただけだ。

――思えば、和解前はアレクシスにも皮肉を言ったりしていたものね。

努力をするのは苦ではなかったし、両親に対して悲しみはあっても怒りのようなものはほとんど感じなかったので、自分はそれなりに我慢強いと思っていたけれど、少し考えを修正するべきなのかもしれない。

自分の大切だと思うものを傷つけられたとき、奪われそうなとき、強く腹を立てるようだ。

「あなたの連れてきた随行員たちは私の大切な職人を傷つけました。あなたの無遠慮な言動は、セルレイネ殿下を傷つけた。私はあなたが嫌いです。あなたをこの地に派遣したルクセン王ソレイエ陛下のことも、もはや信頼に値するとは思っていません」

「なっ、不敬ですぞ公爵夫人!」

「我々への礼儀を欠いたのは、あなたたちの方です」

主君を腐されて激昂したペルトネン伯爵に、メルフィーナは背筋を伸ばし、冷たく言い放つ。

「現ルクセン王国の人々に私の愛する土地にいてほしくないし、立ち去った後は二度と足を踏み入れてほしくありません。あなたたちがこの地を出るのと同時に、我がエンカー地方はルクセン王国との断交を宣言いたします」

領主とは、その領地の主人――絶対的権限を持つ、小さな王だ。

たとえフランチェスカ王国の国王にもおいそれと侵害することが許されない、主権である。

ルクセン王国としては、こんな小さな領地に断交を宣言されたところで痛くも痒くもないだろう。

だが、アレクシスは……「メルフィーナの夫」は北部の支配者であるオルドランド公爵であり、ルクセン王国にとって公爵領である港都エルバンは、フランチェスカ王国の玄関口である。

多少無礼に振る舞い、たかが城館の使用人と揉めたくらいで、国との断交まで言い出すとは思っていなかったのだろう。

いや、そもそもメルフィーナにそこまでの権限があるとも考えていなかったのかもしれない。伯爵の顔に、初めて焦りが滲む。

「は、これはこれは……。公爵夫人、私の言動が誤解を招いたのでしたら」

「私は貴族の一人として、自分の言葉に責任を持っています」

言葉を遮られたことで、伯爵は目に見えて気分を害したようだった。

「私は、一度口にしたことは貴族の誇りに懸けて決して違えないわ。――ペルトネン伯爵、あなたは外交官なのだから、全て本音で話せなんて私も言わないわ。けれど貴族として、自分の振る舞いに責任を持ったらいかがかしら。たかが女子供を相手に、自分の信念で発した言葉を曖昧にごまかすのはお止めなさい」

メルフィーナも領主として、誇りある貴族の一人として、そうと口にしたなら、決して引くわけにはいかない。

「あなたがたの外交非礼は全て文書にして、昨日のうちにルクセン王国へと断交の通達とともに提出しました。実際に通達が届くのに少し時間はかかるでしょうが、以後、エンカー地方はあなた方を拒絶いたします」

それでもう、メルフィーナにはペルトネン伯爵に対して使う言葉は終わった。視線を逸らし、固唾を呑んでこちらを見ているセレーネに向き合う。

「セルレイネ殿下。――いいえ、セレーネ」

「はい。……姉様」

メルフィーナの言葉を受けて、セレーネもいつものように呼んでくれる。

「あなたは、本当に、立派な人よ。きっと名君と呼ばれるルクセン王国の王になるでしょう。そんなあなたと一時でも親しく過ごすことが出来たことは、掛け値なしに私の人生の自慢よ。そんなあなたと、どんなふうに別れるのがいいのか、ずっと考えていたの」

セレーネは息を呑んで、唇を引き締め、じっとメルフィーナを見つめていた。

「あなたと私では、背負っているものの大きさが違い過ぎる。それでも、土地と、領民と、誇りを私たちは守り、育てていかなければならない。味方を作って、発展させ、土地を豊かにしてちょうだい。やり方は、見ていたわね?」

「はい、僕は、全部見ていました。姉様が人に優しく、技術を持つ者を大切にして、土地を豊かに、領民を笑顔にしていくのをずっと!」

「私があなたに最後に見せたいものは、自分の誇りを損ねる相手におもねることのない姿よ。忘れないで。エンカー地方がルクセン王国と断交しても、私はいつでもあなたの味方。あなたを応援している「姉様」だってことを」

「はい。……っはい、忘れません。姉様。姉様が見せてくれたことも、教えてくれたことも、全部覚えています。必ず姉様のような立派な君主になります。ルクセン王国をもう一度、姉様が交流を持ってもいいと思える国にします。そ、それから」

感極まったように一度言葉を切り、ぎゅっと拳を握ると、セレーネはくしゃくしゃな笑顔を作った。

「いつか、僕は必ず、モルトルの森を切り開き、ルクセンとエンカー地方をつなぐ道を造ってみせます。これまで出来なかったことが、明日も出来ないわけではないと、姉様が教えてくれたから」

真っ白な頬に、ぽろりと涙が落ちる。それをメルフィーナに見せまいとするように、セレーネは袖でぐい、と目もとを拭った。

「姉様、僕はずっと、姉様が幸せに暮らし続けることを祈っています。どんな小さな苦難も、姉様を避けてくれることを願い続けます。――それでも、もしも何かあったら、必ず僕を思い出してください。その道をたどって、僕を頼ってください」

優しく、理性的で、忍耐強い「弟」の言葉に、メルフィーナも微笑んで、一筋、涙を落とす。

ずっと涙なんて出なかったのに、最近は、すっかり涙もろくなってしまった気がする。

「必ずあなたを思い出すわ。ずっとあなたが幸せであることを祈ってる。ありがとう、大好きよ、セレーネ」

「僕も、大好きです、姉様!」

そう言って笑うと、セレーネは正式な礼を執り、馬車に乗り込んでいった。ペルトネン伯爵は馬車とメルフィーナを交互に見た後、忌々し気に礼を執り、馬車のドアを閉めるように随行員に命じる。

一行は城館を出ると、街道に向かって進んでいく。公爵領との境目まではエンカー地方に駐在している騎士と兵士が護衛を行うが、そこから先はもう、メルフィーナの手の届かない部分だ。

「……行っちゃったわね」

「お寂しいですね」

マリーがぽつりと言うのに、メルフィーナは頷いて、笑う。

「寂しいけれど、心配はしていないわ。だってあの子は、本当に素敵な男の子だもの。きっとどこにいたって、幸せになれるわ」