作品タイトル不明
第50話 水神様、豊臣へ田法を渡せないと知る
慶長十九年、旧暦二月。
春の足音が少しずつ近づき、江戸城内でも今年の田作りへ向けた準備が本格化し始める時期。
俺の文机の前には、今年から本格稼働する『 田法(試験田法) の拡大計画書』が山のように積まれていた。
去年、江戸近郊の試験田で最良区画六割増という結果を出し、さらにその記録と大根の漬物が 禁裏(朝廷) で大好評を得たことで、各地から「うちの領地にも田法を!」という希望が殺到していたのだ。
「……去年は江戸近郊の試験田だけで済んだのに、今年はもう、問い合わせの山だ」
俺がげんなりして呟くと、竹千代兄上が冷ややかに言った。
「当然だ。米が増えるなら、どんな大名でも欲しがる。ましてや禁裏の覚えもめでたいとなればな」
「私の田んぼのノウハウが、完全に人気商品みたいになってるんですけど……」
「商品ではない。 政(まつりごと) だ」
竹千代は、俺の甘い認識を一刀両断した。
*
俺たちは、今年の田法の拡大対象を三段階に整理していた。
第一段階。徳川直轄領・旗本領。
「ここは優先して導入します。水番や水札の統一、失敗例の確実な回収、そして何より『年貢増徴禁止』のルールを完全に守らせることができるからです」
「うむ。公儀の目の届く範囲で、確実に米を増やすのだな」と秀忠父上が頷く。
第二段階。親藩・譜代領、および禁裏御料・一部寺社領。
「ここも段階的に導入しますが、条件をつけます。始末記どおりの手順を完全に守ること、失敗例を隠さず提出すること。そして……『国松神話』として、勝手に誇大宣伝しないこと」
「最後の条件、必要か?」
俺が尋ねると、竹千代が「絶対に必要だ」と断言した。
「禁裏御料は、成功しても徳川の手柄を強く出しすぎるな」と秀忠。
「はい。あくまで『民を生かすための実務』として、控えめに広めます」
*
そこへ、新六郎がいつもより少し硬い顔つきで入ってきた。
「若君。……大坂方面より、水土御用に関する照会が届いております」
座敷の空気が、スッと冷えた。
(……あ、来たか)
俺は内心で身構えた。
書状の表向きの文言は、極めて丁寧だった。
『江戸近郊の試し田にて、大きく実りを得たと聞き及んでおります。禁裏御料や寺社領にも広がるとの噂。……大坂近辺におきましても、大仏殿再建の普請や城下の人足増加により、食の需要が増しております。民のため、どうか試験田の法を教授願いたく──』
依頼元は、豊臣家の直名ではない。大坂方の寺社や商人、村方を経由した「やんわりとした照会」の形をとっていた。
だが、その背後には確実に大坂城の意向がある。
「……豊臣家から、直接ではないな」
竹千代が書状を睨む。
「はい。ただし、大坂城の 蔵入地(直轄領) に極めて近い村々も含まれております」
「事実上、大坂方の願いか」と秀忠。
*
俺は、大坂の陣という「今年の最大の地雷」を知っている。
だからこそ、俺は極めて事務的に、軽く確認した。
「……これ、お断りでいいですよね?」
一同の動きが、一瞬だけ止まった。
「いや、分かってますよ」
俺は、淡々と理由を述べた。
「この田法を大坂へ渡せば、豊臣の米が増える。豊臣の蔵が太る。城下の民心も豊臣に傾く。……そして何より、いざ戦になった時、その米がそのまま『豊臣の兵糧』になる。……だから、今の大坂方面には、絶対に田法を渡せませんよね?」
竹千代が、少し驚いたように目を丸くした。
「……お前にしては、ずいぶんと話が早いな」
「私だって、少しは学習しますよ。米は兵であり、蔵であり、民心ですから」
「よく分かっている」と秀忠も感心する。
「うむ、成長したのう」
家康が、楽しそうに顎髭を撫でた。
「全然褒められてる気がしないんですけど」
*
俺は、成長した実務官の顔で言い切った。
「では、御異物改方・水土御用の名で、今回はお断りの返書を──」
「待て」
竹千代が、冷徹な声で俺の言葉を遮った。
「お前が、断るな」
「え?」
「お前自身の名で断れば……『水神の若君が、豊臣の民を見捨てた』ことになる」
俺は、ハッとして固まった。
秀忠も、重々しい声で言葉を継ぐ。
「あるいは、『国松君は、豊臣家を私怨で嫌っておられる』と、根も葉もない噂を立てられる」
「もっと悪ければ……」
竹千代の目が、氷のように冷たく光る。
「『徳川は、水神の知恵を豊臣領へは渡さず、あえて大坂の民を飢えさせるつもりだ』という、恐るべき物語に仕立て上げられる」
「うわ……」
俺は、背筋に冷たい汗が伝うのを感じた。
『後世の講談なら、「水神、豊臣を見捨て給う」ね』
(やめてください! 最悪すぎる!)
「分かったか」
竹千代が、俺の目を見据える。
「お前が断れば、お前が『豊臣を拒んだ理由』にされる。お前は今や、都合の良い『便利な旗印』になりすぎているのだ」
「……断る権利すら、政治になるのか……」
俺が青ざめて呟くと、竹千代は「そうだ」と短く肯定した。
*
「断るのは、儂じゃ」
家康が、静かに、だが絶対的な権力者の声で宣言した。
「大御所様……」
「水土御用は、いまだ徳川直轄領と禁裏御料での『試験段階』にある。大坂などの遠方へ出すには、時期尚早である。……そういう形で、公儀の政として断る」
「国松の名は、一切出さぬ」と秀忠。
「水神の若君が拒んだのではない。大御所様が政として、いまだ外へ出す段階ではないと判断された。そういう『公儀の筋』にする」
竹千代の言葉に、俺は心底安堵した。
だが。家康はさらに、天下人としての本音を語った。
「ただし、断る理由は、それだけではない」
「……」
「今、大坂へ田法を渡せば、豊臣の蔵を太らせる。豊臣の民心を温める。……秀頼が、『民を飢えさせぬ若き君』として、天下に評判を得るやもしれぬ」
俺は、息を飲んだ。
「……はい」
「豊臣家が、素直に徳川に従い、天下の秩序の内に完全に収まるというならば、それもよい。……だが、そうでないならば。米はそのまま『兵』になる」
「米は、民の腹を満たす。だが同時に、兵を養い、城の守りを支え、戦を長引かせるのだ」
「田法は……兵法でも、あるのですね」
「そうじゃ」
*
俺は、痛いほど分かっていた。
豊臣へ渡せない理由は、完全に理にかなっている。
でも……大坂の城下や、近郊の村で生きている民のことを思うと、どうしても胸が締め付けられた。
「……大坂の民も、気候が荒れれば飢えるかもしれないんですよね」
「飢えさせたいわけではない」
家康が、静かに答える。
「分かっています。でも……技術があるのに、知恵があるのに、それを渡せない。……これ、分かっていてもかなりキツいです」
「国松。津波と同じだ」
竹千代が、俺の葛藤を断ち切るように言った。
「全てを救えぬなら、救える場所に『逃げ道』を作る。お前が言ったことだろう」
「豊臣の蔵入地には渡せぬ。だが、禁裏御料、寺社領、徳川の目の届く村ならば渡せる」
秀忠の言葉に、俺はハッとして顔を上げた。
*
家康が、冷徹に妥協案の線を引いた。
「大坂城の蔵入地、豊臣の直接支配地、大坂城下の兵糧に直結する地域。……ここには、絶対に田法を渡さぬ」
「だが。京や寺社、大坂から離れた村、あるいは戦火が及んだ際の避難先となる場所へは、田法の周辺知識を広げる」
「大坂城へは渡せない。でも……外側から、民のための逃げ道を作るんですね」
「そうじゃ」
「また、直接豊臣の名声にならぬ形で、大根の保存法や、救荒作物の『一般的な知識』だけを、商人経由で広めることはできる」
竹千代が、さらに実務的な抜け道を提案する。
「田法の核心である塩水選や正条植えは渡さぬ。だが、切り干し大根の作り方や、手洗いの作法など、軍事に直結しにくいものは、民草の知恵として広めてもよい」
秀忠の許可が出た。
「なるほど……!」
俺は、少しだけ希望の光を見た。
田法の『核』は封じるが、民を救うための『周辺知識』はこっそり渡す。それが、今の俺たちにできる精一杯の妥協だった。
*
秀忠と竹千代が、大坂への断り文を迅速に整えた。
ポイントは、豊臣家を侮辱しないこと。国松の名前を出さないこと。水土御用はまだ公儀の試験段階であること。大坂近辺への導入は時期尚早であること。
そして、代わりに大根保存法などの一般知識は送ること。
『水土御用の法は、いまだ公儀における試験の最中にあり、土地・水筋・村方の帳面を揃えぬまま広く用いることは、かえって民を損なう恐れあり。
よって、大坂近辺への導入は、時期尚早とする。
ただし、冬の困窮に備える大根保存法、手洗い等の清め作法については、民草の困窮に備え、別紙をもってこれを伝える──』
「断ってるけど、飢え対策だけは渡す……」
「そうだ。完全な拒絶ではない。だが、兵糧を増やす田法の核は絶対に渡さない」
竹千代が確認する。
「これなら、断ったのは公儀の冷徹な政。国松個人の情ではない」
家康の言葉に、俺は深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
*
夜。
自室に戻った俺は、端末のログを一人で見つめていた。
『上出来じゃない』
「全然すっきりしませんけどね」
『政治って、すっきりした完璧な正解が出るなら、誰も苦労しないわよ』
「……豊臣の民も助けたい。でも、豊臣の蔵を太らせるわけにはいかない。……嫌な話ですね」
『技術って、誰に渡すかで善悪が完全に変わるのよ。米を増やす技術なんて、特にね』
「水神様の知恵が、ゴリゴリの兵糧管理の道具になるとはなぁ……」
『だから、あんた個人が断ったことにしなかったのは大正解。あんたはもう、ただの不思議な子供じゃない。立派な『水神という政治資産』なのよ』
「政治資産って言われるの、すごく嫌です」
端末が、静かに光る。
『大坂方面水土御用照会:受領』
『豊臣直接支配地への田法提供:不可』
『国松名義での拒否:危険と判断』
『大御所政判断として拒否:採用』
『代替提供:大根保存法・清め作法・一般救荒知識』
『田法核心部:公儀試験段階として封印継続』
『国松神話利用リスク:軽減』
『国松精神的負荷:増加』
「……最後、また増加してるじゃないか」
『事実じゃない』
米を増やす法は、民を飢えから救う。
だが、全く同じ法が、城の蔵を太らせ、兵を養い、戦を無駄に長引かせる。
俺は、その冷酷な事実を、もう知らないふりはできなかった。
豊臣へ田法は渡せない。
けれど、大坂の民を完全に見捨てたいわけでもない。
だから、田法の核は固く閉ざし、大根の干し方と手洗いだけをそっと渡す。たったそれだけの妥協が、今の俺たちにできる精一杯だった。
水神様と呼ばれる俺は、今日また一つ、重い現実を学んだ。
人を救う技術でも、誰に渡すかを間違えれば、巨大な戦の火種になる。
そして、それを断る「言葉」ですら、誰の口から出るかを選ばねばならないのだということを。