軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第5話 水が多すぎても少なすぎても米は死ぬ

泥まみれの草取りから数日。

初夏の日差しを吸い込み、御料地の水田はさらにその青さを濃くしていた。

この数日間で、小栗半兵衛の抱える帳面はまた少し分厚くなっている。

苗の背丈や草の量、天候の記録に加え、彼が新たに書き込み始めたのは「水の深さ」を示す細かな印だった。

「若君。昨日降った雨の後、正条に植えた区画の奥の方だけ、極端に水が深くなっておりますな」

半兵衛は、田の隅に数箇所立てさせた竹の棒――等間隔に刻みを入れた手製の水位計――を見比べながら、生真面目な顔で報告してきた。

「水尻の近くはすぐに水が引き、浅くなっております。されど、あちらの畦際は妙に水が淀み、いつまでも濁ったままでございます」

俺は、熱心に筆を走らせる半兵衛の横顔を見ながら、内心で苦笑を漏らした。

(半兵衛のやつ、完全にフィールド調査員としての才能が開花してるな……。それにしても、SFチートを使って俺がやってることが、竹棒を使ったアナログな水位測定って。地味すぎるだろ)

とはいえ、その地味な竹棒の記録が、田んぼの不均等な水環境を確実に可視化し始めているのも事実だった。

「よし。半兵衛、その調子で朝夕の記録を続けよ。雨の日と晴れの日で、水がどう動くかを見極めるのだ」

「はっ。承知仕りました」

半兵衛が別の場所へ水位の確認に向かった後。

俺が一人で淀みのある畦際を観察していると、不意に視界の隅に青白い光が瞬いた。

『水流阻害箇所、複数検出』

『補助観測モード、一時展開』

(おっ、来たか)

俺は瞬きをして、視界に重なるように展開されたAR表示に意識を集中させた。

夜の暗闇の中で見た不完全なマップとは違う。

今回は昼間の田んぼの風景の上に、薄い青色の線が血管のように張り巡らされて見えた。

水の流れが太くスムーズな部分は、青が濃く鮮やかだ。

逆に水が淀んでいる箇所は、赤黒く濁った色で表示されている。

さらに、水が浅すぎる場所は黄色く、そして――。

(ん? あそこの畦、線の色がぼやけて外側に滲んでないか?)

水田の区画を区切っているはずの土の畦から、青い光の筋がちょろちょろと外へ漏れ出している箇所があった。

「与平!」

俺は、近くで土をいじっていた与平を呼び寄せた。

「はっ。若君様、いかがなされました」

「あそこの畦……左から四番目の角だ。あそこから、少しずつ水が外へ逃げておらぬか?」

与平は首を傾げながら、俺が指差した場所まで歩み寄り、泥の中に手を入れて土の感触を確かめた。

「……おお。これは、確かに。表からは草に覆われて見えませなんだが、土の奥でモグラか何かが穴をあけたのか、水が外の用水路へ漏れ出しておりますな」

与平は驚いたように顔を上げ、俺を見た。

「若君様。少し離れた場所から、よくぞあのような土の奥の漏れに気がつかれましたな。若君様の目は、ただの御目ではございませぬな」

「いや、ただ田をよく見ているだけだ。水面のわずかな揺れや、草の育ち具合の違いでな」

(嘘です。SFノードのAR表示が教えてくれました)

内心で冷や汗をかきながらも、俺は適当な理屈でごまかした。

俺は少し離れた場所にいた半兵衛を呼び戻し、指示を出した。

「半兵衛。あの畦から水が漏れている。さらに、そのすぐ上の用水路を見てみろ。泥と枯れ枝が溜まって、水の流れがひどく細くなっているはずだ」

半兵衛が用水路を覗き込むと、果たしてそこには、上流から流れてきた泥や草がごっそりと詰まっていた。

「まこと、若君の仰る通りにございます。これでは水がせき止められ、下の田に十分な水が届きませぬな」

半兵衛は感嘆の声を上げながら、新しい白紙の頁に簡単な絵図を描き始めた。

田の形と、水路の位置、そして泥が詰まっている場所と漏れている場所を的確に記していく。

俺は与平に向き直り、単純な解決策を口にした。

「よし。原因が分かったのなら話は早い。あの用水路の詰まりを取り除き、畦をしっかりと修繕して掃除しよう」

そう言って袖をまくろうとした俺を、与平が慌てて押し留めた。

「なりませぬ、若君様!」

「む? なぜだ。詰まっているから水が淀み、草が生えるのだろう?」

「用水路の詰まりを勝手に取り除き、水の流れを変えれば……隣の村が、黙っておりませぬ」

与平の声には、先ほどまでの穏やかな百姓の顔とは違う、深刻な響きがあった。

「掃除をするだけで、揉めるというのか?」

「はい。水の流れが変わるとは、すなわち、米の取り分が変わるということにございます」

俺の頭の中で、パズルが組み合わさるような感覚があった。

(……そうか。水は、この田んぼ一枚で完結してるわけじゃないんだ。上から下へ流れていく以上、俺がここで水路を掃除して水量を増やせば、それは必ず下流のどこかに影響を与える)

俺はここで初めて、農業チートが単なる「技術の改善」ではなく、地域社会の利権に直接干渉する「政治問題」であることに気がついた。

与平の懸念は、数日待たずして現実のものとなった。

御料地の水位調整のために、試験的に少しだけ用水路の泥をよけ、水の流れを変えた直後のことだった。

御料地よりも下流に位置する村の代表である百姓、喜三郎という男が、血相を変えて飛んできたのだ。

「若君様の御試みとやらで、下の田の水が急に減りました! あるいは、昨日など急にどっと水が押し寄せ、危うく畦が崩れかけましたぞ!」

泥だらけの足を震わせながらも、喜三郎は悲痛な声で訴え出た。

「上の田ばかりが良うなって、我ら下流の田が干上がってはたまりませぬ! どうか、どうか水路の細工はお止めくだされ!」

周囲にいた半兵衛や武士たちは、将軍家の若君に対して直訴めいた抗議を行った百姓に顔色を失い、刀の柄に手をかけようとした。

「控えよ、無礼者! 若君の御前であるぞ!」

「よい、半兵衛。刀から手を離せ」

俺は冷静に静止の声をかけた。

怒るどころではない。

俺の内心は冷や汗でびっしょりだった。

(やべえ。完全に俺の調整ミスのせいだ。下流のキャパシティを考えずに、自分の田んぼのことだけ考えて水路をいじったから、下の村にダイレクトに被害が出たんだ)

俺は喜三郎を見据え、威圧感を消した声で尋ねた。

「話を聞こう。どの田で、いつ、水がどう減り、あるいは増えたのか。詳しく申せ。半兵衛、全て書き残せ」

「は……? 話をお聞き届けくださるので……?」

喜三郎は、怒鳴りつけられるか、最悪その場で斬り捨てられることも覚悟していたのだろう。

目を白黒させている。

「下の田が干上がれば、徳川の米が減るのだ。放っておけるわけがなかろう。申せ」

俺の言葉に、喜三郎は少しずつ落ち着きを取り戻し、被害の状況を話し始めた。

しかし、事態はそれだけでは収まらなかった。

下流の村からの苦情を聞きつけたのか、今度は御料地より上流側に位置する村の代表、太助という男がやってきたのだ。

「若君様! 下の村が水を欲しがりすぎまする! 我ら上の田とて、水が有り余っているわけではございませぬ!」

太助は、喜三郎を睨みつけながら声を荒げた。

「御料地の下のためにと用水路を勝手に広げられ、上の田に引き込むはずの分まで下へ流れてしまっては、我らが困窮いたしまする!」

御料地の実験田。

その上流にある太助の村。

その下流にある喜三郎の村。

三つの地域が、一本の細い用水路を通じて、限られた水の奪い合いを始めている。

(ゲームの『水利改善ボタン』を押せば一発で解決してたあのシステムが、今更ながら異常な魔法だったって痛感するわ……。現実じゃ、ボタン一つ押しただけで上流と下流がリアルで殴り合いを始めるじゃないか)

与平が、俺の背後で小声で囁いた。

「昔から、水は村と村との血を呼ぶものにございます。一滴の水が、一石の米に変わり、一人の命を繋ぐのですから」

初夏の陽気の中だというのに、俺はひどく冷たいものを背筋に感じていた。

「水を使う時間を、明確に定めようと思う」

俺は、太助と喜三郎、そして与平たちを前にして、一つの提案を口にした。

「時間を、でございますか?」

「そうだ。朝は上流の村が水を引き、昼は御料地が、夕は下流の村が引く。それぞれが水口を開ける時を割り当てるのだ」

現代の農業用水の管理システムでは当たり前の「輪番制」、つまり番水の発想だ。

「そして、雨が降った日や、水が極端に足りない日は、また別の定めに従う。さらに……水口を開け閉めする者を定め、勝手に開けた者は罰するのではなく、まずその理由を厳密に記録する」

「記録……でございますか?」

「そうだ。半兵衛」

「はっ」

呼ばれた半兵衛は、少し興奮した面持ちで一歩前へ出た。

「水口を開けた者の名を、木札に記すというのはいかがでしょう」

「木札?」

「はい。誰が、いつ、どれだけの時、水を通したのか。その証として札を残し、帳面と突き合わせるのでございます。名付けて『水札』にございますな!」

(また半兵衛が、俺の雑な提案を実務レベルのシステムに昇華させた……!)

俺は感心しつつも、表面上は威厳を保って深く頷いた。

「よい案だ。その水札を用いて、水番を置く」

しかし、俺はこの制度を「国松個人の命令」として実行に移すことの危険性を理解していた。

水利権は、百姓にとって文字通り死活問題だ。

それを、幼い若君が思いつきで裁いてしまえば、俺に不要な権威が集中してしまう。

それは、俺が最も避けるべき「将来の将軍候補としての名声」の火種になる。

「……だが、この定め、私の一存では決めぬ」

俺は太助と喜三郎に告げた。

「水は徳川の天下を潤す血脈。兄上に、ご裁断を仰ぐ」

その日の午後。

俺は半兵衛の描いた水路絵図と帳面を抱え、竹千代の部屋へと赴いた。

部屋の奥で書物に目を通していた竹千代は、俺が事情を説明し終えると、静かにその絵図を見つめた。

「……兄上。田の水が、村と村を繋いでおります」

俺は、声を潜めて語りかけた。

「上の田を良うすれば、下の田が困ります。下の田を助ければ、上の田が恨みを持ちます。ゆえに、これはもはや田法ではなく、政の話にございます」

竹千代の細い指が、絵図に引かれた青い水路の線をなぞる。

「水を裁くとは、米を裁くことか」

「……はい」

「そして、米を裁くとは……民の命を裁くことか」

竹千代の瞳の奥に、深い思索の光が宿った。

幼いながらも、彼は俺の持ち込んだ厄介な問題が、単なる百姓の喧嘩ではなく、国家統治の縮図であることを正確に理解していた。

「ならば、国松。お前一人の名でこれを行うな」

竹千代のその言葉に、俺は内心で深く安堵の息をついた。

(分かってる。兄上は分かってくれてる)

「私の名で、小さく試せ」

竹千代は、毅然とした声で言い渡した。

「江戸近郊の全ての村に、いきなり命じるのではない。まずはその御料地と、上下の二つの村だけで、お前が申す水の順番と札を試してみよ。争いがあれば、その半兵衛とやらの記録を見て、理をもって裁くのだ」

「ははっ!」

「よいな。まず理を立てよ。理もなく武で押さえれば、次の争いの種を残す」

そこで竹千代は、一度だけ絵図から目を上げた。

その瞳には、幼さに似合わぬ冷たい光も宿っていた。

「だが、理を示してなお破る者があれば、その時は容赦せぬ」

その瞬間、俺には竹千代が、未来の強大な幕府を率いる「為政者」の顔に重なって見えた。

(ああ、そうか。兄上は優しいだけの人じゃない。理を立てる。けれど、理を破る者には厳しい。これが本来の徳川の将軍か)

俺は改めて、兄を敵に回してはいけないと肝に銘じた。

御料地に戻った俺は、太助と喜三郎を集め、竹千代の名において通達を出した。

「竹千代様の御試みとして、御料地と上下の村で水番を置く。水口の開閉は水札を用いて記録し、順番を守ること。もし不満があれば、勝手に争わず、半兵衛の帳面に記すように申し出よ」

俺は、さらに一番重要な条件を付け加えた。

「これは、あくまで今年限りの『試し』である。この結果によって、直ちに年貢の増減を定めるようなことはない」

この「今年限り」「年貢には直結しない」という一言が、百姓たちの警戒心を大きく和らげた。

上流の太助も、下流の喜三郎も、完全には納得していない顔つきではあったが、「次期将軍候補たる竹千代様の名」「一方的に罰しない記録主義」という条件の前には、矛を収めるしかなかった。

「……若君様」

彼らが村へ帰った後、与平が深く頭を下げてきた。

「水の番を決めるとは、田の命の番を決めることにございます。まこと、重い差配にございましたな」

「だから、私一人の手には余る。兄上の御名をお借りしたのだ」

「……賢明にございます」

水番制度が始動し、上流からの無計画な水の引き込みが減ったことで、御料地の水路は少しずつ安定を取り戻した。

詰まっていた泥を取り除き、崩れかけていた畦を修繕する。

すると、正条植えの区画にあった「水の淀み」が嘘のように解消され始めた。

再び俺の視界に、AR表示が瞬く。

『水流阻害箇所、一部改善』

『水位安定度、微増』

『下流側水量、許容範囲内』

俺は心の中で小さくガッツポーズをした。

(よし! 今度はちゃんとシステムが役に立ったし、問題も解決に向かってるぞ!)

「若君様。水の通りが、ずいぶんと良うなりましたな」

与平も、澄み始めた水面を見て満足げに頷いた。

後日、下流の喜三郎もやってきて、渋々ながらも報告を上げた。

「……まあ、下の田にも、急に水が減って干上がるようなことはなくなりました」

上流の太助も、「上の田も、懸念していたほど水に困ってはおりませぬ」と認めた。

小さな成功。

だが、俺の安堵は長くは続かなかった。

「若君!」

半兵衛が、分厚くなった帳面と絵図を抱えて駆け寄ってきた。

「うちの村の水路も見てほしい、あの畦の弱さも直してほしいと、さらに離れた村からも声が上がっておりますぞ! これらも絵図を広げて、水札の記録に加えましょうか!」

目を輝かせる半兵衛の背後に、さらなる果てしない仕事の山が幻視できた。

「ひ、広げるな! まだこれは試験段階だと言っているだろうが!」

「ええっ? しかし、せっかくの竹千代様の御試みが……」

「半兵衛、お前はなぜそう、仕事を天文学的に増やす方向にばかり覚醒するんだ……!」

この噂はすぐに竹千代の耳にも届いたが、彼からの指示は短いものだった。

「田も水も、秋の刈り入れまで見よ、と言ったはずだ」

「……はい」

兄上の至極真っ当な命令である以上、俺に逃げ場はなかった。

夜。

疲労困憊で自室の布団に倒れ込んだ俺の前に、またしてもあの無機質な光が浮かび上がった。

『水位変動記録を確認』

『用水路ネットワーク、一部復元』

『地下水脈候補、低精度検出』

『警告:未認証管理者による掘削指示は非推奨』

「……地下水脈?」

俺が訝しむと、空中に展開された光のマップの端――御料地から少し離れた、水不足に悩んでいると今日報告を受けたばかりの小さな村の近くに、青い点が一つ、点滅するように現れた。

(これ……まさか、ここに井戸を掘れば水が出るってことか?)

だが、その青い点に重なるように、赤い警告文が続く。

『周辺地質情報不足』

『掘削失敗リスクあり』

『追加観測を推奨』

俺は深い溜息をつき、顔を覆った。

「……今度は、井戸かよ」

俺はただ、生き残るために。

ただ、種籾を選んで、苗をまっすぐ植えるだけのはずだった。

草を抜いて、水路の泥を少し掃除するだけのはずだった。

それがどうして、村落の政治的対立を調停し、挙げ句の果てに地下水脈の発掘までやらされる羽目になっているのか。

俺はそっと帳面を閉じ、行灯の火を吹き消した。

「……兄上。たぶん次は、井戸です」

真っ暗になった部屋の中で、その呟きだけが虚しく響いた。